巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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三位一体神のことを「御母」と呼ぶことが不可能な12の理由(by ドワイト・ロングネッカー神父)

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出典

 

Fr. Dwight Longenecker, Twelve Reasons Why You Can’t Call God “Mother”(全訳)

 

目次

 

はじめに

 

聖公会フェミニストたちは現在、最新キャンペーンの内容を明らかにしています。女性たちを司祭や主教に叙階する内部運動が無事成功しましたので、今度は、Godのことを「御母 “Mother”」と呼ぶよう、典礼言語改訂要求を突き付けているのです。以下、なぜ私たちが神のことを「御母」と呼ぶことができないのか十二の理由を挙げたいと思います。


1.イエスは神のことを「御父」と呼ぶよう私たちに言っておられます。

 

これこそ何に先立って挙げられるべき大きな理由です。イエスご自身が神のことを御父と呼ぶように仰せられているのです。しかしもちろん、フェミニスト活動家の方々は聖書やイエスの御言葉などを真剣に受け取りはしません。聖書の権威などという余りに「ファンダメンタリスト的」な響きをもつ何かを信じることなど彼女たちはすでに止めてしまったのです。

 

曰く、新約聖書というのは「一つの面白い1世紀ユダヤ文書」であり、それはもちろん、当時の家父長制的文化によって条件づけられています。イエスにしたところで、当時の時代により救いようのないほど条件づけられています。そういったことは皆かつて起こりし過去の出来事です。でも今は違います。ですから私たちはそれら全ての事をアップデートすることができます。そう彼女たちは主張しています。



2.旧約聖書は神のことを御父と言及しています。

 

『カテキズム』238より。多くの諸宗教は神のことを「父」と呼んでいます。それらの神性はしばし「神々や人間の父」と捉えられています。イスラエルでは神は、世界の創造主なる神として「御父」と呼ばれています。さらに神は、イスラエルである「長子」への契約や律法の賜物ゆえに御父です。神はまたイスラエルの王の御父とも呼ばれています。また神は「貧しい人々の父」、みなしごや未亡人の父でもあり、彼らは神の慈愛に満ちた守りの下にあります。



3.典礼は神のことを「御父」と呼んでいます。

 

私たちは自分たちが祈っている信仰内容を信じています。そして自分たちが信じている信仰内容を祈っています。典礼(リトルジー)をいじくり回すことは常に、私たちが実際に信じている内容そのものをいじくり回すことにつながります。

 

神のことを「御母」と呼び始めるなら、人々は「ああそれでは、神というのは自分たちの父ではなく母なのだ」と信じ始めるようになるでしょう。もちろん、フェミニストの方々はそこらを熟知しています。だからこそ彼女たちは典礼に変更を加えようと試みているのです。彼女たちは聖書の御言葉にも変更を加えようとしています。すでに『包括語聖書』なるものが出回っています。ココを参照のこと。



4.『カテキズム』はなぜ私たちが神を御父と呼ぶのか、そしてこれがいかなる形で神の母的(mothering)属性をも包含しているのかについて説明しています。

 

神を「御父」と呼ぶことにより、信仰言語は二つの主要点を明らかにしています。①神は万物の最初の起源なる方であられ、超越的権威であられる。②同時に神は、ご自身の全ての子たちに対する善き御方であり愛なる配慮をしておられる。神のもつ親のような優しさはマザーフッドの心象によっても表現し得ます。この心象は神の内在、創造主と被造物間の親しき関係性を強調しています。

 

信仰言語はこのように両親の人間経験を引き出しています。両親というのはある意味において人間にとっての初めての神の表象です。しかしその一方、人間の両親は誤りを免れ得ない不完全な存在であり、父像や母像を傷つけ損わせる可能性をも持っています。それゆえ私たちは、神という御方が、性別に関する人間の区別を超越した方であるこということを心に留める必要があるでしょう。この御方は男でもなく女でもなく、神であられます。また神は、人間の父親像、母親像の根源であり基準でありながらも、それらを超越した御方です。いかなる人といえども、神が御父である仕方で父ではあり得ないのです。



5.神のことを「御母」「御父」と呼ぶのは混乱をもたらします。

 

現代世界はただでさえジェンダー問題で混乱しているのです。神のことを御母とも御父とも呼ぶことは、神をある種のトランスジェンダー存在に仕立て上げる結果を生み出してしまいます。そのような事があってはなりません。



6.ジェンダーの区別により、愛の関係が可能にされます。

 

考えてみてください。私たちは、性別のない誰かを愛することはできません。私たちはジェンダーを通し他者に関わっています。私は息子として母と関係性を持ち、兄として自分の弟と関係性を持ち、父親として娘と関係性を持っています。私は男性です。そして彼らは男性か女性かのどちらかです。私は男性でも女性でもない誰かと真の関係を持つことはできません。「It」というモノと関係性を持つことはできません。

 

神は私たちがご自身を愛し、関係性を持つことを望んでおられます。それゆえに神はご自身を「御父」として啓示され、イエスは神のことを「御父」と呼ぶよう私たちに命じておられます。そうすることによって私たちは主の息子、娘として神と関係性を持つことができるのです。時に御母であり、時に御父であるような抽象的存在物と愛ある関係を結ぶことはできません。



7.神のことを「御父」と呼ぶことは地上の父親から受けた傷が癒される助けになります。

 

私たちは皆、欠けのない、無条件にして永遠なる愛を渇望しています。そして最大の愛によって愛されたい、知られたいと願っています。地上における父親との関係は——たといそれが最良の父親であったとしても——それは完璧なものではなく、いわゆる「父傷 “the Father wound” 」と呼ばれるものを私たちの内に残しています。この空虚スペース、完全には満たされることのなかったこの父親愛は、御父なる神の愛によってのみ満たされ得ます。神を「御母」と呼ぶことにより、この可能性が破壊されます。



8.マリアこそが天上における私たちの「母」です。神は「母」ではありません。

 

プロテスタントのクリスチャンが天上における「母」を求めているのは決して偶然ではなくそこには深い訳があります。彼らは500年前、聖母マリアを脇に押しやってしまい、それ以来、自分たちの天的母親を見失ってしまっている状態にあります。プロテスタンティズムは、イエスが彼らに与えた聖母マリアという御母を拒絶して以来、「母親欠乏」を患っています。(十字架の上からイエスが「そこにあなたの母がいます」と仰せられたことを思い出してください。)本来なら聖母マリアへの崇敬という形で表現されるべき天上における母への慕望が、神ご自身のことを「御母」と呼ぼうとする異端へと奇形化され、押し進められていっています。*1

 
9.聖書および聖人たちは決して神のことを「御母」とは言及していません。

 

フェミニストが掘り起こしてこれる資料はせいぜい14世紀の神秘家ノリッジのジュリアンくらいでしょう。(「神は私たちの父であり母です」)。ビンゲンのヒルデガルトも類似のことを言っていますが、これとて『カテキズム』が教示している内容——神は人間のセクシュアリティーを超える御方であり、神が「御父」であるということは母の諸特性や力を包含している——事を示しているに過ぎません。

 

彼らはエルサレムについて語られたイエスの言明「わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか」も用いています。ですがこれら全ては神秘家たちの象徴言語です。神は決して直接的に「御母」として言及されてはおらず、どの典礼書においても決して「御母」とは言及されていません。



10.神のことを「御母」と呼ぼうとする試みは、キリスト教からpatriarchy(「家父長制」)の要素をことごとく根絶しようとする全体的計画の一部です。


今後の進展に注目していてください。神を「御母」とも「御父」とも呼ぶことは実際、ほんの最初のステップに過ぎなかったということが後に分かると思います。「御父」としての神は最終的に完全に除去されなければならないのです。ここに彼らのアジェンダがあります。

 

彼らは、キリスト教における土台諸原理および神学そのものを改造しようとしています。そうすることによって、別の「神(god)」を拝むことができるからです。ニューエイジ系フェミニスト神学者たちの書いた物を読んでみてください。そうすれば彼らが礼拝したがっているgoddess(女神)なるものが「天にいますわれらの御父」とは似ても似つかぬ代物——「地母神(Earth Mother)」——であることがお分かりになると思います。換言しますと、神のことを「御母」と呼ぶことは、キリスト教のオールタナティブ形態ではないということです。それはそもそもキリスト教ですらないのです。



11.神を「御母」と呼ぶことは、異教の女神を礼拝する行為です。

 

「なぜ女性司祭の方々は、“priestesses”(女司祭)と呼ばれることをあれほど恐れているのですか?」かつて私は訊ねたことがありました。彼女は言いました。「あまりに異教的響きがあるからですよ。」なるほど。実際その通りです。「なぜ彼女たちは自らが拝んでいる新しい神(god)のことを「女神(Goddess)」と呼ぶことにビクビクしているのですか?」「これもまたあまりに異教的響きが強すぎるからですよ。」

 

しかし騙されないでください。遅かれ早かれ、彼らはこれらの用語を受容していくことでしょう。そして次世代の人々はもはや躊躇せず、開き直って次のように言うことでしょう。「はい。あなたのおっしゃる通りです。私は女司祭であり、女神を礼拝しています。だからどうだっていうのですか?」



12.神を御母と呼ぶことにより、ニューエイジ系魔術へのドアが開かれることになります。

 

なぜ人々はこの事に鈍感なのでしょう。ニューエイジ系フェミニスト神学者たち自身の著述がそのことを如実に物語っているのです。彼らが共感している宗教は他でもない自然女神(Nature Goddess)ーーこの世の神、つまりサタンーーに他なりません。もちろん「啓蒙された」方々はそういった糾弾を嘲笑うことでしょう。しかしフェミニスト神学者たち自身が「父なる神の完全根絶、母なる女神の受容」を要求しているのです。

 

この種のフェミニスト神学者たちは聖公会内で非常に影響力を持っています。私もかつてそこにいました。彼女たちは、女性叙階運動内のあらゆる場所にいます。それが女性叙階運動の目指している方向性です。その動きが分からないと言っている人は、分からないのではなく、その現実を直視したくないだけなのです。

 

ー終わりー

 

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