巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

福音派神学生Fさんへのレター

f:id:Kinuko:20200215170822p:plain

 

Fさん、こんにちは。現在、エウカリスチア(聖餐)におけるキリストの現存に関し、それからマリア教義に関し、カトリック教会の教理を真剣に検討なさっているということをお聞きしました。

 

私は東方正教に改宗しましたので、これからお分かち合いすることがどれ位、Fさんの探求の参考になるのかわかりませんが、一つの証としてお聞きくださればさいわいです。

 

私は昨年の暮れ、初聖体拝領の秘跡(サクラメント)を受けました。バプテスマ、堅信(傅膏)、エウカリスチア(ユーカリスト)、告解と連続して四つの秘跡に与った経験から申し上げますと、ある種の事柄は、サクラメントそのものを通し、サクラメントの中において知られ得、認識され得るのではないかということです。初聖体を拝領した時、秘跡を通し、イエス・キリストが私の存在の中心に入ってこられ、私の全てを貫かれました。

 

もう一つの内的変化は、三回目の聖体拝領を経た時に突如として内側から、セオトコス(聖母マリア)に対する愛が湧き上がってきたことです。そして私は神の聖なる御子であるイエスを胎内に宿されたもっとも聖くもっとも美しい永遠の女性であるマリア様に向かって歌い始めたのです*

 

マリア教義に対する私の懐疑は洗礼の前日まで完全に消えることはありませんでした。バプテスマの聖水に入る直前まで私は(知的・神学的には了解していたものの)心情的には相変わらずプロテスタント的懐疑と不信感を抱いていましたし、神父様にもそのことを告白していました。

 

ですからただ私個人に限って申しあげますと、自分の知的探求が限界に達した時、超自然的サクラメントが理性による認識限界をカバーし、教会の秘跡という神秘のなかで、《内側から》ものごとをみることが許された、ということが言えるかもしれません。これは特定の人々にだけ与えられるものではなく、神を求め、秘跡を求めるすべての魂に等しく与えられる贈り物ではないかと思います。

 

ナアマン(Ⅱ列王記5章)のことを思い出しました。アラムの王の将軍であったナアマンは重い皮膚病を患っていましたが、神の人エリシャに言われたように、ヨルダン川に七たび身を浸しました。すると、「彼のからだは元どおりになって、幼な子のからだのようになり、きよくなった」(14節)。川に身を浸すというのはけっして「むずかしいこと」(13節)ではなく、誰にでもできる行為です。小さくなって、とても小さくなって、どんどん小さくなって、それで子どものようになって水の中に入り、神の国を受け入れる時(マルコ10章15節参)、イエス様が私たちの霊、たましい、からだを洗い清め、私たちの多くが患っている «神学的統合失調症» を癒してくださるのだと思います。

 

しかしそうだからといって知的探求に価値がないということにはなりません。マリア教義に関しては、フィリップ・シャフ編集の『Nicene and Post-Nicene Fathers, Second Series, Volume XIV』をとても重宝しております。このハードカバー書の中に325年から787年に至って開催された全地公会議の記録が収まっています。

 

すばらしいのは619頁から671頁という50ページにわたるきめ細かな索引(Index)です。例えば、エウカリスチアに関する教義発展をお知りになりたいのなら、654頁をお開きください。EUCHARISTという見出しがあります。マリア教義でしたら670頁のVirgin Mary, mother of God (θεοτόκος) の項をお開きください。たくさんのページ番号が記載されています。ここから一つ一つていねいに教義発展の文脈や経緯を公会議文書精読により追ってゆくことが可能です。

 

しかしまた最初のテーマに戻りますが、仮にこれらを懸命に研究し、それでも100%確信が持てなかったとします。私がそうでした。もう背後の橋はすでに崩壊してしまっていて後ろに戻る選択肢はなく、かといって確信に満ちて前に踏み出すこともままならない、そういった状態です。

 

私はFさんがどのような状況にあるのか存じあげませんが、仮にあなたが私と似たような経緯を辿っているのだとしたら、私はあなたに励ましのメッセージがあります。知的探求により70%、85%、あるいは93%、とりあえずの納得がゆきましたか。それなら、信仰をもって前に踏み出して大丈夫だと思います。未だ分からない部分があっても大丈夫です。ぜひ信頼できる神父様にあなたの葛藤を正直に話してみてください。

 

ナアマンは水に全身を浸した『後』、エリシャが実際本当に神の人であったこと、そして「イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないこと」(Ⅱ列王記5章15節)を確信することができました。神様はとても憐れみ深い方です。秘跡(サクラメント)は、すべての探求者——特に懐疑に苦しむ魂——に対する最高の贈り物だと思います。

 

ナアマンが幼な子のからだのようになったように、どうか私たちもまた神の国のこどもになり、昔の日のように駆けまわり、そうして、はてしなき公園のなかでいつまでも憩うことができますように。