巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

忠実な聖公会信者の方々から受けた恵み【感謝のレター】

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まずは個人的なお話から始めます。私は20年近いプロテスタント信仰生活を経、2018年中盤に一介の旅びととなり、ローマ・カトリック教会、ビザンティン東方典礼カトリック教会、東方正教会それぞれのコミュニオンで教義研究をし、求道し、多くの方々にお世話になりました。

 

その間、彷徨い、行ったり来たりをくり返していましたが、摂理的ご愛顧により、2019年12月24日にギリシャ正教会でバプテスマと塗油(堅信)の秘跡を受け、最終的に東方正教会に落ち着くことができました。

 

「摂理的ご愛顧」と書いたのにはわけがあります。ある日の午後、私はアテネの喫茶店で教会史の本(Andrew Louth, Greek East and Latin West)を読み、物思いに耽っていました。

 

すると突然、目の前に一人の老人が現れ、私にこう問いかけたのです。「こんにちは。あなたはどんな種類のクリスチャンですか。正教徒ですか、カトリックですか、プロテスタントですか。なんですか。」

驚きながらも私は正直に答えました。「今、自分が何であるか分かりません。求道しているんです。」

 

すると老人は自分がギリシャ正教徒であることを述べた上で、「Xという地区にいるA・T修道司祭(掌院)の所に行ってごらんなさい。この神父はきっとあなたを助けてくれることでしょう。」と言い、そうした上でA・T神父の教会の住所を小さな紙切れに書き、しばらくすると去って行きました。

 

老人が去ると私もすぐさま席を立ち、地下鉄に乗り、その紙切れを片手に教会を探し始めました。ようやく辿り着いたもののその建物は教会堂のように見えず、戸も閉まっているようでした。

 

引き返そうかなあと思っていたちょうどその時、私服ではあるけれどもシスターのように見える二人の年配の女性が目の前を通り過ぎ、その戸を開けたのです。

 

勇気を振り絞り、その内の一人の女性に紙切れを見せ、「この住所はここの建物のことですか。」と訊いてみたところ、「そうですよ。どうぞ中へいらっしゃい。」とやさしい返事が返ってきました。そうして二人のシスターと共に私は開いた戸から中に入っていきました。後で振り返りますと、これには象徴的意味があったように思います。

 

私はきわめて特異なこの導きを万人に当てはまるものとはつゆも考えておりません。これはあくまでも私のパーソナルストーリーであり、一介の求道者の記録です。2018年9月に以下の記事を書いた時点では今後の行先はまったく不明であり、ここから手探りの探求が始まりました。

 

japanesebiblewoman.hatenadiary.com

 

普通、堅実なプロテスタント信者がプロテスタンティズムを出た場合、次の落ち着き先が見つかるまで通常、数年のブランクが生じると聞いています。つまり数年に渡り、所属なき霊的ホームレス状態が続くということです。

 

私の場合は、約1年半、この状態が続きました。いろいろ廻った割には意外とスピーディーな改宗であったということが言えるかもしれません。それではなぜ比較的スピーディーに運ばれていったのかしらと考えてみたところ、そこに忠実な保守聖公会信者の方々の直接的・間接的助けがあったことに思いが至りました。

 

特に日本キリスト聖公会(現:カンタベリーの聖オーガスチン会衆〔カトリック教会属人教区〕)ラファエル梶原史朗主教のご信仰や教会の使徒職に対する真剣なるご姿勢から非常に多くのことを学びました。*1

 

梶原主教をはじめとする保守聖公会の方々の信仰の闘いの記録を読み、私は「女性叙階」というイノベーションが教会のいのちと使徒職を喪失させるほどの致命的誤謬であることを確信し、またそこから「司祭 priesthood」、使徒継承、秘跡がいかに聖く、また神聖なるものであるのかという高教会的理解に導かれていきました。

 

また、431年エフェソス公会議におけるセオトコスというマリア教義は、「4-5世紀のキリスト論を巡る論争」という歴史的・神学的文脈の中で丁寧に考察されなければならず、さらにこの正統マリア教義が、キリストの神性を擁護するものであるという重要な点に気づかせてくれたのも実は主としてカトリックに改宗した元聖公会司祭たちでした。東方正教世界でも、元聖公会司祭たちは各地で尊く用いられています。

 

現在、世界中の聖公会コミュニオンで起こっている混乱と悲劇、及び内外にいる方々の闘いや悲哀を見聞きする時、私は迫害によって散らされた初代教会の信者たちのことを思い出さずにはいられません。

 

使徒8章1-8節

1サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起り、使徒以外の者はことごとく、ユダヤとサマリヤとの地方に散らされて行った。

2 信仰深い人たちはステパノを葬り、彼のために胸を打って、非常に悲しんだ。

3 ところが、サウロは家々に押し入って、男や女を引きずり出し、次々に獄に渡して、教会を荒し回った。

4さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。

5 フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。

6 群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。

7 実際、汚れた霊に取りつかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫びながら出て行き、多くの中風患者や足の不自由な人もいやしてもらった。

8 町の人々は大変喜んだ。

 

ここで起こっていること自体は悲劇だったと思いますが、使徒行伝は「散らされて行った」人々により、各地で福音が告げ知らされ、キリストが宣べ伝えられ、癒しが起こり、町中に大きな喜びがもたらされたことを記録しています。

 

真理に生き、真理を追い求めている聖公会クリスチャンの方々お一人お一人の霊的旅路に主の最善がなされますよう心よりお祈り申し上げます。今現在、苦難の中にあっても、先が見えない不安の中に置かれていたとしても、「散らされ」一人ぼっちになってしまっていたとしても、その状況の上に必ず存在する善き聖意図を信じ、尚も「福音を告げ知らせながら巡り歩いて」ゆくことができますよう力と慰めをお与えください。

 

深い感謝と同志愛のうちに。アーメン。

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神はわれわれの人知を超えた仕方で動かれ、

ご自身のみわざを成し遂げられる。

主はご自身の足跡を海の中に植え、

嵐の上を進まれる。

 

計り知れない鉱床の深淵にて、 

けっして誤ることなき巧腕にて、

主はご自身の輝かしいご企図を護持され、

至上の聖意(sovereign will)を為される。

 

おお、怯え消沈している聖徒たちよ、さあ再び勇気を持ちなさい。

あなたがそれほどまでに恐れている濃雲は、 

大きな憐みに満ちており、やがて必ず、 

それを突き破り、あなたの頭上に祝福が下ることだろう。

 

貧弱なあなたの感覚で、主をさばいてはいけない。

主の恩寵にひたすら信頼することだ。

しかめっ面のようにみえる摂理の背後で、

主は微笑をたたえた御顔を隠しておられる。

 

主のご目的の果実は迅速に熟していく。

今この瞬間にもつぼみは開きつつある。

芽には苦味があるかもしれない。

しかし、咲く花は甘く麗しい。

 

盲目的な不信仰は、必ずあなたの道を誤らせ、

そのわざを凝視するも、それはむなしい。

神こそ、ご自身のみわざの解釈者であられ、

この方がすべてを明らかにしてくださる。

 

William Cowper, God moves in a mysterious way(私訳)

〔聖歌274「くすしきみかみの」は、この詩が基になっています。〕