2011年7月28日、ギリシャ共和国ヴェルギナム村近郊にある正教会。そこでキプロス、アギア・ナパ村出身の若い女性ゲノヴェファの剃髪式(tonsure; 修道女になる儀式)が執り行われました。
この儀式の一部始終を私は食い入るようにみつめました。これほどビジュアルな形で「世に別れを告げ」(ルカ9:59-62)「十字架を負い」(マタイ10:37-39)「キリストに従う」(ルカ14:26-27)という、人生すべてを駈けた神への献身のリアリティーがあらわされた象はないように思いました。
修道服で身を包む前に、彼女はご両親やお婆様に別れの口づけをしていますが、この時のご家族やゲノヴェファさんの心境はいかなるものだったのだろうと想像を絶する思いがしました。
2年間の修練者期間を経た後、ゲノヴェファさんは、シスター・マクリネになりました。ちなみに(彼女の修道名「マクリネ」の)聖マクリネ(330 –379)は初期キリスト教会における卓越した修道女であり、カイサリアの聖バシレイオスおよびニュッサの聖グレゴリオスの実姉でもあります。聖マクリナの献身、聖性および知性は、弟バイレイオスによる修道院形成や指針にも深い影響を及ぼしたといわれています。*1
聖マクリネ(330 –379)
小さき花のテレーズが16歳になった時、彼女はカルメル会に入会し、「幼きイエスのテレーズ」という修道名を受けました。入会する日の前夜および当日の様子を彼女は次のように述懐しています。
リジューの聖テレーズ(Thérèse de Lisieux、1878-1897)
「1888年4月9日月曜日。受難の聖節からうつされたお告げの祭日。この日に私はカルメル会に入会することになりました。前の晩、私たち家族は食卓を囲み、私はもうこれで最後になる自分の席につきました。お別れ会というものはそれ自体で胸の張り裂けるような悲痛なものですが、私がすべての人に忘却されたいと望んだまさしくその時に、私はこの世のものとは思われぬいとも優しい愛情表現を受けたのです。——あたかも別離の痛みをいよよ増し加えるかのように。
翌朝、子供時代の幸せな家に最後の一瞥をむけた後、私はいざカルメルへ出立しました。そこで皆御ミサに与りました。イエズス様が私たちの心の中にお入りになる聖体拝領の時、人々のむせび泣きの声があらゆる所から聞こえました。私は泣きませんでしたが、修道院の門が近づくにつれ、私の胸は激しく鳴り始め、このまま息絶えてしまうのではないかとさえ思われました。
おお、その瞬間の悶絶!これは経験した者にしか分からないでしょう。私は愛する家族一人一人をかき抱き、お父上の祝福を受けるために跪きました。お父上もまた跪き、涙を流しながら私を祝福してくださいました。
それは御使いたちを喜ばす光景だったことでしょう。この年老いた人〔=父上〕は、わが子がまだ人生の春季にいるうちに神にその子をお捧げしようとしているのですから。ついにカルメルの戸が私の後ろで閉まりました。・・そして私は愛するマザーの腕の中に迎え入れられ、会のシスターたちの歓迎の抱擁を受けました。その献身と愛は外の世界からは想像もできないものです。
ついに私の願いは叶えられたのです。わが魂を満たした深く甘美なる平安の思いをいったいどのように表現したらよいでしょう。そしてこの平安はそれ以後、カルメルでの8年半に渡り、私の心にとどまり続けており、もっとも悲痛なる試練の最中にあった時でさえも決して去ることはありませんでした。」*2
また27歳で宣教師として南インドに出立し、ヒンドゥー寺院で性奴隷になっていた少女たちを救出することに生涯を駈けたエミー・カーマイケルは、死ぬ日までついに英国に戻ることはありませんでした。
エミー・カーマイケル(1867-1951)
エミーは、自伝の中で、最愛の養育父であったウィルソン氏との港での今生の別れのことを回想しつつ、あのような辛い経験はもう二度とできるものではないという旨を述べています。「エルサレムに向かって」という彼女の信仰詩がありますが、この詩には世の中すべてのものに別れを告げ、主の導かれる方に従い向かっていこうとする彼女の一途な信仰が表れています。*3
エルサレムに向かって
おお御父よ、助けてください。
愛する人々に心とらわれ、
私たちの貧弱な愛が、自らの選び取ったこの人生を
拒んでしまうことのないように。
そして、彼らを失ってしまうことや痛みへの恐れから
永遠の報いを忘れてしまうことのないように。
私たちにその報いをみせてください。
この地で埋めた麦粒にかわって
いまやかの地でさんさんと黄金色に色づく収穫を。
そうでなければ、人間の愛が私たちを迷わせ背かせてしまいます。
おお神よ、私たちに祈ることを教えてください。
カルバリーを覚えつつ祈ることを教えてください。
主人の生きたように
しもべたちもまた、そうあらねばならないからです。
彼らの顔はまっすぐにエルサレムに向けられています。
彼らを妨げることのないようにしましょう。
おお、ご自身の愛する御子をさえ惜しまれなかった主よ、
私たちに祈ることを教えてください。
祈りの中で、私たちを導いてください
あらゆる地上的なものから私たちをきよめ、
御父よ、聖なる愛をお与えください。
汝のごとき その愛を
汝のごとき その愛を。*4
「イエスに対する花嫁の愛の中には、深い奥義と計り知れない宝が隠されています。それを手にしようと望む人はだれも、この海の深みに思い切って飛び込む勇気を持たなければなりません。魂の暗い夜、十字架の道、キリストの受難にあずかることによってこそ、わたしたちはこれらの宝を見い出すことができるのです。」*5
おおどうか汝のご恩寵により、私たちの内で聖なる愛の炎が燃え上がり、身も心もそのすべてをもって天の花婿イエスに捧げ尽くすことができますように。
ー終わりー
*1:The Life of Macrina, by Gregory Bishop of Nyssa | Monastic Matrix
教皇ベネディクト十六世の101回目の一般謁見演説 聖バジリオ | カトリック中央協議会参照。
*2:Story of a Soul, The autobiography of St. Thérèse of Lisieux, Chap VII, The Little Flower Enters the Carmel(拙訳)
*3:私たちは聖く、愛に満ち、かつ低い人生を生きるため、ここに召されています。そのような生き方は、私たちの主イエスに限りなく近い歩みをしていない限りすることのできないものです。また何であれ、そのような歩みから私たちを遠ざけ妨げるようなものは、私たちのためのものではありません。このように私たちを〈妨げるもの〉に関しては。そこへの最初の一歩に警戒する必要があります。私たちがほんの少し横道に逸れてしまうことで、つまずいてしまうかもしれない魂のためにも、そして、私たちの主の栄光のためにも、今、主に尋ね求めましょう。「私たちのうちに少しでも『ゆがんだ傾向』が見られるならば、どのようにしてでも、それをお示しください」と。
私たちはイエス・キリスト、すなわち十字架につけられたお方以外のことは何も知るまいと決心しました。なぜなら、私たちの召命は、その本質上、その他一切のことから私たちを分かつよう、要求してくるものだからです。そしてそれは、未だ主を知らない人々の間にあってキリストをあらわすこと、キリストを生きること以外の目標は持ちえないものなのです。もし私たちが一途に主につき、主のために生きるなら、神の愛が私たちを通して、妨げられることなく輝き渡るはずです。何であれ私たちの人生に聖潔をもたらすもの、そして鏡を透き通らせるもの(――それを通して光が輝きます)のみが私たちに必要なものであって、それ以外の一切は価値を持ちません。Amy Carmichael, God's Missionaryより 一部抜粋
*4:Amy Carmichael, Toward Jerusalem(私訳)
*5:バジレア・シュリンク『キリストにわがすべてを――愛のともし火、掲げつつ』