巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

カトリック改宗か正教改宗かの最終判断はやはり一筋縄ではいかない。

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二択を余儀なくされる分裂した世界に生きていることがつらい。(出典

 

先日、プロテスタンティズムからローマ・カトリック経由で東方正教会に改宗した方と、ローマ・カトリックからプロテスタントに行き、後に保守聖公会経由でカトリックに帰還した方の間の次のようなやり取りを読み、いろいろと考えさせられました。

 

この会話を読んでいただくと、なぜ(どちらか一方だけではなく)東西両方のコミュニオンに思慮深く敬虔な信者たちが存在しているのか、その理由の一端をつかむことができると思います。

 

Mark Bonocore - Is Benedict XVI the true Pope?, Reason and Theology Show, 2019.(抄訳)

 

ウェード・ニューナン(東方正教):教皇制なしのカトリシズムというのは考えられません。教皇不在のところにはカトリシズムも不在です。教皇制というのが一種の総点なのです。私は元々改革派プロテスタント信者でしたが、上記の理由により、最終的にカトリシズムではなく正教の道を選びました。フランシスコ教皇はまあせいぜい「リベラル派高教会アングリカン」といったところでしょうか。しかも彼自身が枢機卿の大半を任命しているので、今後も結局、そういった人々が第二のフランシスコ、第三のフランシスコを選出してゆくようになるのでしょう。

 

エリック・イバラ(ローマ・カトリック):ウェードさん、おっしゃる通り、カトリシズムと教皇制は手に手を取って進行しています。ですが私は、「リベラル派としてのローマ・カトリシズム」VS「保守派としての東方正教」という具合に、両者間に鋭利なコントラストを置くような短絡的即断だけはぜひとも避けたいと思っています。

 

まず第一に、フランシスコ教皇に対する主要なクレームは、彼の使徒的勧告「アモリス・レティティア(愛のよろこび)」の内容にあります。この勧告により、ある種の事例においては、二度目の結婚に入った人(その人の最初の配偶者は生存中であり、それゆえその人は客観的に姦淫の状態にある)に聖体拝領を許すという門戸が開かれることとなりました。

 

ニュアンスは複雑ですが、しかし依然として再婚した離婚女性は通常聖体拝領を受けることができないという禁令はそのまま残っています。(例外的諸事例は考慮されます。)それだけでなく、死刑制度を巡ってのカトリック内での現在の論議は、正教コミュニオン内(Patriarchal and Conciliar)における死刑制度反対論に後続しているだけです。(例 1986年の元OCAによる死刑反対宣言等。)

 

そして東方正教会は現実に永年に渡って、再婚した離婚女性に聖体拝領を許可してきただけでなく、二度目の結婚を恩寵のいのちと一致するものとして祝福し、その状態は神の国に入るなんの障害にもならないと言明し続けてきたのです。これは勿論、最初の一千年期における教会元来の諸信条からの大規模なシフトです。

 

第二番目ですが、フランシスコ教皇に対する苦情と、それから、結婚生活内で避妊を容認している現代正教の一般的認識とを比べてみてください。中には、避妊の事項は永遠の救いを阻むような問題では全くないと公言している人々さえいます。これは、東方世界においても西方世界においても、聖伝からの180°の逸脱です。

 

第三番目に、これを、最近のコンスタンティノープル改革と比べてみてください。コンスタンティノープルはこの改革において、やもめになった、もしくは妻から捨てられた司祭の*再婚*を許可しました。そうです、「再」婚です。

 

四番目に、「過去50年かそこらのカトリック教徒たちの不満」を、「伝統派正教徒たちの、エキュメニカル派高位聖職者や司祭たちに対する不満*1」と比較してみてください。

 

正教弁証家ジェイ・ダイアー等が、教皇が非カトリック教徒たちと共に祈っているスキャンダラスな諸出来事について言い立てていたのを皆さん覚えていることでしょう。しかし、です。1986年/2002年に開催されたアッシジの祈りの集会に、14の独立正教会はいずれも皆代表者を送り出しています。そして正教会はアッシジ集会の詠唱奉仕において特にイニシアチブを取っていました。

 

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出典

 

また、環境や大地に対する教会の責務に関する、フランシスコ教皇の新刊本『母なる大地(Our Mother Earth)』をお調べください。本書の序文は、モスクワ総主教キリル1世およびコンスタンティノープル総主教ヴァルソロメオス1世によるものです。

 

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右:フランシスコ教皇。左:モスクワ総主教キリル1世(出典

 

もしもフランシスコ教皇が、伝統的正教弁証家たちが叫んでいるように悪魔的異端者なのだとしたら、モスクワ総主教およびコンスタンティノープル総主教が彼の本の序文を書いているという事実は一体何なのでしょう。実際、コンスタンティノープル総主教ヴァルソロメオス1世の文言は、フランシスコ教皇の環境改革プログラムの中で幾度となく引用されています。

 

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右:コンスタンティノープル総主教ヴァルソロメオス1世。左:フランシスコ教皇(出典

 

それゆえに、正教界は、メインストリーム独立正教会とはコミュニオンを絶った状態にある複数の「真の正教コミュニオン(TruDox communions)」に細裂しているのです。

 

最後になりますが、あなたは、カトリシズムは「リベラル派高教会アングリカン」であると言っています。しかしそれは諸事実に反しています。勿論、私とてフランシスコ教皇のファンでは全くありませんが、少なくとも彼は、女性叙階、離婚、再婚、避妊、その他の諸テーマに関するカトリック教義の文言に対する恭順さは示しています。そしてこういった点に関しアングリカンはすでに歴史的キリスト教と食い違うようになっています。

 

もしよろしければ、あなたの言っている、アングリカン主義とフランシスコ教皇の間の等式をもう少し詳しく説明してくださいませんか。さてここまでいろいろ書いてきましたが、私は真の問題点をぼかすために上記のポイントを挙げたわけではありません。

 

真の問題点というのは勿論、フランシスコ教皇による貧弱にして破壊的リーダーシップにより私たちが甚大なる被害を被り、苦しんでいるという現在の状況のことに他なりません。しかし、自分の家もゴタゴタし乱れていること(=五十歩百歩であること)を棚に上げ、他人の家だけを断罪することがないよう私たちは互いに気を付けたいものです。

 

 

ウェード・ニューナン(東方正教):私は、カトリシズム全体を「リベラル派アングリカン」と言及したのではなく、フランシスコ教皇のことをそのように呼んだのです。カトリック教会の中には数多くの伝統派グループが存在していることを私も知っています。ですが、実際問題として、伝統的ラテン語ミサ(TLM)や聖ペトロ司祭兄弟会 (FSSP)のミサに与るために何時間も車を走らせなければならないという状況は自分にとって非常に厳しいものがあります。信仰生活を送り実践していく上でその状況は継続が難しいのです。現にこの世で信仰者として生きていくことだけでも自分にとっては葛藤です。ですからその信心をむしろ弱体化させるような教会を私は必要としていないのです。

 

 

エリック・イバラ(ローマ・カトリック):あなたの気持ちは全くよく分かりますし、同情します。ですが、逆の事例もまた多いのです。どういうことかと言いますと、東方正教の教区に通いたいけれども家の近くにそういった教区がないというハードルを抱えた人々も数多くいるということです。ですからあなたがこれまでくださったコメントを読む限りにおいて、そこには、真理というよりはむしろ便宜性や快適さといったものが、あなたの教会選択において役割を果たしているということが表れているように思います。

 しかしそうだからといって私はあなたが選択を誤ったと言っているわけではありません。そうではなく、あなたを導いた諸影響は、「イエスご自身が何を教えたか」ということ以上に「自分にとって何が効するか」という点が大きかったように思われます。しかし繰り返しますが、あなたの気持ちは本当によく分かりますし、心から同情しています。

 

ー終わりー

 

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