巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

カトリック教会未曽有の大惨事に泣く。【一求道者の告白】

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目次

 

はじめに

 

パチャママ異教像がテヴェレ川から取り戻され、明日のアマゾン・シノドス閉会ミサにおいてこれらの偶像が聖堂内に展示されるかもしれない、そしてそれが「グッド・ニュース」であるとのフランシスコ教皇の声明を読み、私は、世界中の何万というカトリック信者と共に泣きました。

 

2000年余りに渡り偶像礼拝と命懸けで闘い続けてきたカトリック教会が、今や頭首主導の元、逆に偶像を慕い、偶像をキリストの聖所に置かんとする前代未聞の惨事——マカバイ記のあの悪夢——に見舞われています。

 

私たちの神は憐みと愛の御方ですが、それと同時に、神は偶像礼拝を堅く禁じ、異教神とのシンクレティズムを何よりも憎まれる聖にして義なる御方であることが新旧約聖書全体に渡って啓示されています。これは第一戒を踏みにじる大罪であり、神は侮られるような御方ではありませんから(ガラ6:7)、今後、大きな刑罰と共に私たちは呻きの中で負の刈り取りをしなければならなくなるでしょう。

 

和解したい

 

この一年以上に渡り、私はプロテスタントからの改宗者としてカトリック教会の「中」で愛する皆さんと共に祈り、嘆き、苦闘してきました。

 

この記事を書いた翌日(2019年4月22日)、私は東方典礼カトリック教会の聖堂に入り、まっすぐ神父様の所へ行くと、次のように申し上げました。「神父様。私は長い間、カトリック教会に敵対してきましたが、今そのことを悔い改めます。私の懺悔を聞いてくださいますか?」

 

すると神父様は憐みに満ちた表情で次のようにおっしゃいました。

「そうですか。しかしながら告解は秘跡であり、それゆえ、あなたは〔告解の秘跡を受ける前に〕まずカトリック教会で合法的洗礼(=東方伝統に従い三度の浸没を伴う完全浸礼。方式は正教会と同一。)を受け直さなければなりません。私はプロテスタント長老教会でのあなたの滴礼バプテスマの有効性に関しヴァチカン(⇒おそらく東方教会省)に問い合わせましたが、それは無効であるとの最終回答が教皇庁より私の元に届きました。ですから告解の秘跡は今叶いませんが、主はあなたの心をご存知です。イコンの前に立って、詩篇51篇(LXX50篇)を唱え、お祈りされることをあなたに勧告します。」

 

そこで私はイコンの前に進み、神父様がおっしゃったように祈り、悔い改めました。告解の秘跡こそ受けることができませんでしたが、おお主よ、あなたの憐れみにより、あの日カトリック教会の聖所で捧げた私の懺悔の祈りをきいてくださり、西方教会史における最大の分裂の痛みによって生じたあなたの悲しみが少しでも和らげられることを心より願います。

 

転向、そして「カトリック教会恥辱の夏(The Summer of Shame)」の混沌の中で

 

2018年半ばに転向がなされたちょうどその時期に、ビガーノ大司教の証言*1、マキャリック事件と続く「カトリック教会恥辱の夏(The Summer of Shame)」が起こりました*2。教会が安泰な時期でしたら、おそらく10年ほどの長いスパンの中でゆっくりとカトリック教会の内側について学ぶことができていたかもしれません。しかし皆さんもご存知のように2018年以降、教会は伝統派からリベラル派まであらゆるスペクトルにおいて大混乱が生じています。

 

熟練したカトリック弁証家や神学者たちでさえもこの状態を把握できずにいるのです。ましてや一新参者である私に何が理解できるというのでしょうか。しかし真剣に家の中に入ろうとするのなら、新参者であれ何であれ、とにかくどこの入り口がとりあえず一番安全そうなのかとか、どの界隈がブラック・ホールなのか、家の耐久性はほんとうに大丈夫なのか、、といったことを知らなければ危なくてどうにもなりません。

 

ですから私もそれこそ死に物狂いで朝から晩までカトリック文献を読み続け、有識者たちの分析に耳を傾け、ラッツィンガーの「連続性の解釈」をなんとか現状に適用させようともがきつつ、この危機に対し一番合理的な説明をしているように思われる内部セクターがどこなのかを探知しようと努力しました。

 

しかしながら、私をカトリックに転向させる過程で一番力のあったブライアン・クロス教授の強靭なカトリック弁証の最大の反証者が、こともあろうに現教皇ご自身の言動であったとはなんという皮肉でしょう。プロテスタンティズムの「不可視的教会」観とは違い、カトリックにおいては教会は可視的な存在であるため、この矛盾を乗り越えるに当たり、私にはもはやプロテスタント的「不可視的」「霊的」解釈に逃げ込む選択肢は残されていませんでした。

 

なんとしてでも教皇制の教理、教会不可謬性を自分のコモン・センスの中でつじつまが合うようパズルの中に埋め込まなければなりませんでした。すぐ脇には絶壁があり懐疑主義の深淵が不気味に拡がっていました。これほど根本的レベルにおいて懐疑に襲われたことはありませんでした。

 

かといって東方に移ればそれで問題は解決するのだろうか。ウクライナの教会乱立をみても、やはり一致の中心はコンスタンティノープルでもモスクワでもなくローマであるように思えました。しかし私の目に、現在のローマ(及びローマ教皇)は一致の中心というよりはむしろ破壊と腐敗、そして背教の中心であるように映りました。教導権という信頼の綱が切れました。認識論的絶望がそれに続きました。

 

2018年12月31日の夢

 

2018年12月31日夜、私は夢をみました。夢の中で私は大きな透明の建物(巨大な入れ物のようなもの)の前に立っていました。建物の中をみると、そこにはカトリック信者たちがいました。これらの人々は清く敬虔な信者でした。

 

彼らは外に立っている私に向かい、手招きしながら一生懸命こう呼びかけていました。「さあ中に入って。そして一緒に教会の悪に対し闘いましょう。」と。私は泣きました。そして透明な壁ごしに、内側にいる共闘の同志たちに言いました。「私も中に入って共に奮闘したい。でも今どうしても入れないの。入りたくても入れない。教皇自身が異端者なの!」そう叫んだ時、目が覚めました。

 

昨晩、パチャママ偶像に関する教皇声明を読んだ時、嘆きと悲しみが全身を貫きました。10カ月前にみた夢が現実のものになったことを知ったのです。私は中にいる同志たちの疼痛、彼らの現在置かれている耐えがたい精神的窮境を想い流涕しました。

 

現在起こっている最大のアイロニーは、カトリック正統教理および聖伝を遵守しようとしている真のカトリック教徒たちが他でもないまさしく教会の中で(超自然的啓示信仰を拒絶する)信仰なき教会人たちによって排斥され、悪者扱いされていることではないかと思います。聖ピオ十世なら、そもそもパチャママ偶像を教会の中に持ち込むという恐るべき冒涜行為を断固として斥けたはずでしょうし、裸婦の異教オブジェを教会から撤去した信徒男性をこの世の批判中傷から全力で守ろうとされていたことでしょう。

 

売り渡されたのは中国人カトリック教徒だけではないと思います。今や教会内のもっとも忠実なるしもべたちが、世と結託した教会ヒエラルキーによって無情にも「宿営の外」に売り渡されようとしています。

 

リベラリズムの根源——「自然主義」

 

グレシャム・メイチェン(1881-1937)は『キリスト教とリベラリズム*』という名著の中で、モダニズム或いはリベラリズム(自由主義)と呼ばれている現代の非贖罪的宗教の病巣にメスを入れ、その問題性を明らかにしつつ次のように述べています。

 

「この運動は、種々なる形態をとって現われているが故に、これらすべてに適用されるべき共通名称を見出すことはむしろ絶望であろう。しかしこの運動の表現形式は多様であるとはいえ、そのよって来る根源は一つである。すなわち現代的自由主義宗教の種々相はその根源を自然主義に発する。すなわちキリスト教の起源に関して、神の創造力(自然の通常過程から区別せらるるものとしての創造力)の如何なる侵入をも拒むところに、その根源を発するのである。」*3

 

モダニズムおよびリベラリズムにはさまざまな表現形式があっても、その根源は「自然主義」にあるというのです。

 

それは神的啓示という垂直方向を拒絶したフラットな水平主義であり、そこには「超越(transcendence)」を廃絶した「内在 (immanence)」のみが存在しています。アタナシウス・シュナイダー司教もまた、「今日における教会の危機は、以下に挙げる二つの姿勢の中に現出している。すなわち、『グノーシス主義的スピリチュアリズム』と『水平的自然主義』である。*4」と指摘しています。

 

プロテスタントであれカトリックであれ聖公会であれ、水平的自然主義に支配されつつあるリベラル傾斜な教会をみてください。そういった諸教会に、東洋瞑想、ヨガ、フェミニズム・ガイア崇拝、ニューエージ、「平和と正義」政治運動、対等主義(egalitarianism)、奇跡の否定、キリストの神性否定、贖罪否定等の現象が共通して現出してくるのは決して偶然ではないのです。*5

 

「教会が世俗イデオロギーに対して真剣な闘いをせず、さまざまな人義的ニーズを理由に妥協・迎合していく時、そこから必然的に生じてくるのは神学的リベラリズムであり、傾斜の道であることを目の当たりにしています。また、多元・相対主義スピリットが、『愛と寛容』の名によって『非寛容な』支配精神と化し、教会がもはや元来の"offensive"で『排他的な』イエス・キリストの福音を宣布しなくなる時、そこに霊的《空洞》が生じます。そうすると、その空洞を埋めるべく往々にして、外部からは獰猛な『アッシリア』が、そして内部からはesotericで内在論・汎神論的な神観に裏打ちされた『内向き霊性』が台頭してきます。そして、そのどちらに対しても、歴代のキリスト教会は命がけで闘ってきました。」 *6

 

ヴァチカン庭で行われたパチャママ異教祭儀のあり方をよく見てください。彼らは円になり手をつないでいます。

 

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出典

 

各種異教祭儀、ニューエイジ、フェミニスト地母神(ガイア)崇拝など、内在論的esotericな宗教の多くはこの形をとっています。つまり啓示を拒絶した「内向き」霊性です。

 

ノヴス・オルド現代カトリック教会ミサにおいても神父が東の祭壇ではなく会衆の方を向くというイノベーションにより「自己閉鎖的円形(self-enclosed circle)」空間が生み出され、そこから水平主義的内在宗教への危険な道が開かれていることに多くの人が気づいています。

 

Bad Liturgy Is Not A Victimless Crime. Just Ask Jimmy Fallon. Great article on how the reverence in the liturgy is so important.

出典

 

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ベネディクト十六世はこの点に触れ、アド・オリエンテムという歴史的慣習への回帰の必要性を次のように強調しています。

 

「司祭が会衆の方に向くという形式により、共同体は自己閉鎖的円形になります。その外的形態において、それはーー前にあるものや上にあるものに対しもはや開かれておらずーー、それ自身の内に閉鎖された形になっています。皆が一同に東の方角を向くというのは、‟壁に向かっての祝祭”でもなく、司祭が‟人々に背を向けている”という意味でもありません。・・シナゴーグの会衆が共にエルサレムの方角を向いていたのと同様、キリスト教典礼においては、会衆は共に ‟主の方向” を向いているのです。」*7

 

「キリスト教伝統のどこにも、食卓を執り行うに当たり、‟会衆の方を向かなくてはならない” という発想は出てきていません。食卓の共有的性格はそれとはむしろ正反対の性質を強調しています。実際、すべての参加者は食卓の同じ側についていたのです。」*8 

 

おわりに

 

あゝカトリック教会。なぶられ、穢され、冒涜されている悲しみの教会。わが魂(たま)は汝の悲惨を想って泣く。戸口は閉ざされ、人 喪に服す。禍なるかな、神のことを思はず人へのおべっかに終始する塩気を失ひし教会。羊を守らず追い散らす教会。偶像の糞尿で聖なる主の御顔を穢す背教教会。

ああ、ラサレットの聖母の涙——。主なる神よ、われらのために執り成したまえ。

 

〔補足〕Crying with my broken-hearted Catholic friends and with my fragmented Protestant friends

 

この手記は、2018年9月に記したものです。〔英文〕

 

I believed and got baptized in the Presbyterian church and I had been a committed Bible-believing Protestant Christian until recently when, by reading and encountering some very strong historical/theological/philosophical argumentation written by Catholic/Eastern Orthodox friends, my Sola Scriptura belief along with some other core Protestant beliefs' got crumbled at its foundation and consequently, I've got into a serious paradigm crisis.

 

By reading articles of br. Bryan Cross (a former reformed theologian who became a Catholic), I started to doubt that we could/should possibly believe in the visible Church as he suggests? That's because in order for me, as a Protestant, to believe in "one church" in Nicene Creed, it was necessary to interpret it to mean "invisible" church, though I know deep inside that to do so necessarily involves some kind of "ecclesial docetism" in my ecclesiology.

 

And it is at this very moment of my personal crisis that this Catholic Church scandal shook the world.

 

www.youtube.com

 

As I was listening to the above message of Fr. Barron, tears rolled down my cheek and I cried uncontrollably. I was crying with my broken-hearted Catholic friends worldwide and I was crying with my fragmented Protestant friends near and far, being split over countless doctrinal issues. 

 

In tears, I realized that I had never actually believed the Nicene confession: "We believe in one, holy, catholic, and apostolic Church." How can I confess with good conscience that I believe in one church when in fact it is hardly ONE at all? Even a little child could tell that some 40, 000 denominations are not seen ONE. How can we? 

 

For all of my Christian life, I have been in a spiritual house(s) where there has always been divisions and split over major/trivial issues. it seemed to me that the more we are faithful to Sola Scriptura, the more we would be divided decisively and bitterly. 

 

I felt like (in a spiritual sense) I have been a street child who has desperately been seeking for this One church, a safe refuge where there is an united Family. O Lord, I am tired of divisions. I miss my brother and my sister. The more we face divisions, the more we have to "spiritualize" the Bible truth/dogmas in order to camouflage the unbiblical reality and thus go down the dark valley of ecclesial gnosticism in one form or other. 

 

Endless theological disputes without referee stir hermeneutical chaos and interpretative anarchy, and the more I've tried to make sense of all these things, the more I realized that maybe I myself, as a Protestant with all of my good intentions and efforts, have been part of the problem. And this realization made me despair.  

 

Dear Catholic brethren, I want to share with you something. When I see and feel your utter sorrow and lament over the Church scandal, it gives me both deep sorrow and hope. Sorrow in a sense that it really gives us impression that we can no longer trust anybody, any ecclesial office; on the other hand, your genuine devotion and love (+lament) to your Church gives me a sense of hope that indeed, there might be such thing as "one, holy, catholic, and apostolic Church." 

 

I don't cry for the scandals of church(es) of mine or theirs because, after all, there are plenty of other church options and the solution is simply to change my church to a better one (ones). But you are crying bitterly and with lamentation because you don't have any other option, do you? You truly believe in "one, holy, catholic, and apostolic Church," don't you? Tell me, is your Church the Church which Christ founded? Can I, too...believe that with you? The fact is I think I want to believe it with you truly and desperately. I want to hope in Christ and His Church. O Lord, have mercy upon us!