巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

現代バアル預言者たちの巣窟の中で孤高に叫ぶ神の人——アタナシウス・シュナイダー司教の信仰と勇気

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ヴァチカン、アマゾン・シノドスでの異教儀式(出典

 

現在、神の聖所のただ中で、しかも教会トップ層の支持の元、異教儀式が公然と行われている様は、私たちに第一列王記18章バアル預言者たちの狂気を髣髴させないでしょうか。*1

 

そこで彼ら〔バアル預言者たち〕は、与えられた雄牛を取ってそれを整え、朝から真昼までバアルの名を呼んで言った。「バアルよ。私たちに答えてください。」しかし、何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちの造った祭壇のあたりを、踊り回った。1列王記18章26節

 

本来、神の民に聖なるものと俗なるものとの違いを教え、汚れたものと清いものとの区別を教えなければならない(エゼキエル44:23)はずの祭司たちが、‟兵器化された曖昧さ(weaponized ambiguity)”という巧妙なレトリックを用いつつ、聖なる教会を異教主義化させ、聖霊の宮が無残に穢されていく様をただ黙って傍観しています。

 

その中にあって、アタナシウス・シュナイダー司教は、「バアル」を「バアル」と明確に呼ばわり、教会を神の正道に戻そうとしている現代のエリヤだと思います。アマゾン・シノドスの混乱のただ中、シュナイダー司教は先日、待望の著書を世に出しました。「Christus Vincit —暗黒の時代にキリストは勝利し給う。」(Christus Vincit: Christ’s Triumph Over the Darkness of the Age)です。

 

 

「ロラテ・チェリ」誌は本書について次のように評しています。

 

 「現在、ローマ・カトリック教会がプロテスタント宗教改革以来の、史上最悪の危機に瀕していることはもはや万人の目に明らかになっています。私たちはそれを、①「増速・過熱化しつつあるヴァチカンのプログレッシブ化」と、「聖書、聖伝、教導権の一貫した教えに忠実であらんとするカトリック信徒や聖職者たち」との間のエスカレートする衝突、②教会統治における「アナーキー」と「権威主義」の間の振動、③異端教説に対する非難の増加やシスマ、④教皇をも含む司教達の関与する聖職乱用の世界的暴露などに見て取ることができます。

 

 問題を名指しで呼び、真の治癒を求めている人々の中でも特に、シュナイダー司教は、その実直さと明瞭さによって際立っており、彼はキリストおよび主の教会の永久的教えをまっすぐに説いています。本書『Christus Vincit 』は、第二バチカン公会議以降カトリック教会の司教たちによって出された著作の中で最も秀逸なる一冊といってよいでしょう。

 

 シュナイダー司教は教会内の世俗化を批判しています。官僚制への中毒、「今日性」を求める恥ずべき依拠、人からの承認や喝采を求める臆病な渇望、合法的批判に対する無情なるメソッド、神的啓示を捨てた人間中心主義、霊を窒息させる典礼の陳腐化とナルシシズム、健全な教理に対する牧会的責任からの逃避、世俗ヒューマニズムの受容、2000年来の聖伝からの背教・・

 

 それと同時にシュナイダー司教は、キリストのみからだに平安と力をもたらす唯一の解決策について力強く語っています。すなわち、それは、明確にして妥協なき正統教説(orthodoxy)、神の掟や山上の垂訓にかかわる不変なる倫理性、神的秘跡に真にふさわしい典礼の回復、祭壇におけるもっとも聖なるサクラメントにおいて現存されるキリストに対する崇敬です。

 

 また本書は読み物としても抜群に面白いといえるでしょう。最初の数章で彼は自らの信仰道程を語っています。ソビエト連邦時代に地下教会で信仰生活を送った幼少時代、移民後に遭遇したリベラルなドイツ、その後、ブラジル、そしてカザフスタンへ。こういった背景ストーリーを理解することにより、私たちは彼の際だった勇敢さや明瞭さの源流を知ることができるでしょう。

 

 後半の章で、彼は、今日論争を呼んでいる数々のトピック——ヴァチカン推進のヨーロッパのイスラム化と脱キリスト教化、第二バチカン公文書の中に見い出される誤った諸主張、教皇権力の目的と諸制限、中国人カトリック教徒の売り渡し、アマゾン・シノドス、聖ピオ十世会、ファティマ第三の予言、トリエント・ミサの回帰、聖職者改革——にタックルしています。

 

 私は本書の主張の全てに同意しているわけではありませんが、躊躇することなくこの本をすべてのカトリック信者(保守派、伝統派、困惑しとまどっている人々、東方に行こうか迷っている人、リベラル左派に行こうか迷っている人等等)に推薦します。実に本書は、この時代における新鮮なる聖霊の息吹であり、晴朗なる真理と愛の息吹だからです。私の持参しているこの本は読み込みすぎてすでにボロボロになっています。きっとあなたの手にする本もそのようになることでしょう。」*2

 

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シュナイダー司教(出典

 

シュナイダー司教は例えば、次のように子供時代を回想しています。

 

 「ドイツに辿り着いた時〔1973年〕、私は12歳でした。〔故郷カザフスタンから〕ドイツに向かう前に、パフロフスキース神父は私たちを祝福してくださいましたが、彼のおっしゃった次の言葉を私は一生忘れることができません。神父様は言いました。『ドイツに行ったら、十分に気を付けなさい。向こうでは、御聖体を手で受け取る教会があるからです。』それを聞いた瞬間、私たちは互いに顔を見合わせ、父と母は「おお、なんと恐ろしいこと!」と叫びました。実際、ほんとうに、いかにして生ける神である聖の聖である御方を手で受け取るような振る舞いができるのか、私たちには想像もできなかったからです。手による聖体拝領というのは私にとって全く想像を絶する行為でした。神父様は重ねて私たちにおっしゃいました。『どうかそういった教会には行かないでください。』私たちは教示された通りにしますと彼に約束しました。」

     

 「ミサの後、家に戻った私は母に言いました。『お母さん、今日のミサはね、学校でキャンディーをもらうような感じだったよ。』(一度、学校でキャンディーが配られたことがありました。私たちは列をなして順番を待ち、先生が私たちの手にキャンディーを渡してくれたのですが、その日のミサは、子供の私に、このキャンディー配りのことを思い出させたのです。)すると母は言いました。『もう今後決してその教会には行かないことにしましょうね。』

 次の日曜、私たちは別の教会に行きました。しかしミサの様子は最初の教会と同じでした。翌々週、私たちはまた別の教会に行きましたが、結果は同じでした。

 その日、家に戻った母は悲しみにうちひしがれていました。母は私たち子供の顔をみ、涙を流しながら言いました。『おお、子供たち。私には分からない。どうしても分からない!〔ドイツのカトリック教徒は〕どうして私たちの主をこのような様で取り扱っているのでしょう。どうしてこのようなひどいことが可能なのでしょう。』」(本書 p.21-22.)

 

そこで、エリヤは民に向かって言った。「私ひとりが主の預言者として残っている。しかし、バアルの預言者は450人だ。」

「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのみことばによって私がこれらのすべての事を行なったということが、今日、明らかになりますように。」

すると、主の火が降って来て、全焼のいけにえと、たきぎと、石と、ちりとを焼き尽くし、みぞの水もなめ尽くしてしまった。民はみな、これを見て、ひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です。」と言った。

1列王記18章22、36、38-39節

 

どうかシュナイダー司教のようにエリヤの霊をもつ勇敢な人たちが各地で起され、失地のレコンキスタがなされていきますように。アーメン。

 

ー終わりー

 

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ドミヌス・エスト (DEJ) カザフスタンのシュナイダー司教による聖体拝領に関する本。 跪いて舌で受ける聖体拝領について解説。 イタリア語原書の日本語訳。 著者:アタナシウス・シュナイダー 翻訳:加藤肇