巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

親鳥からのエサをひたすら待ち望む小鳥として

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出典

 

ぽきんと折れ、断絶してしまっていたかのようにみえたのに、力なき私の枝は尚も木につながっていることを知りました。それは連続性のうちに生きていたのです。「わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません」(ヨハネ6章37節b)。

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「聖書的」であるとはどういうことだろう、どのようにしたら聖書の真理を正しく知り、それに準じて生きてゆくことができるのだろうということを問い、探求を続けてきました。解釈や権威の所在を突き止めれば、答えの鍵となるものがあるいは与えられるかもしれないと思い、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くし、求道してきました。

 

それなのに進めば進むほどさらに深く迷宮化するかに思われました。そしていろいろなことがますます分からなくなっていきました。聖書を読んでももはや誰の解釈を信じていいのか分からず、自分の読みにも全く自信を失っていきました。唯一、旋律を伴って耳に入ってくる詩篇や福音書の歌だけが心の慰めでした。

 

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分からなくなっていくと同時にしかし、私はどんどん単純に、子どものようになっていきました。もう細かい聖書解釈のことも以前ほどあまり考えなくなっていきました。

 

そうしていつしか、ただ一つのことだけを想うようになりました。それはヨハネ6章のみことばです。「わたしは、天から下ってきた生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」(ヨハネ6章51節)。

 

パンと葡萄酒が、イエス様の肉と血に文字通り実体変化するーー。罪ぶかき一被造物にすぎない私の存在の中心に、ユーカリストの秘跡を通し、イエス様が入ってこられるのでしょうか。そのようなことが人間の身に現実に起こり得るのでしょうか。それは口にするのもはばかれるような神秘の結合、合一の極みではないでしょうか。

 

聖書解釈や教会論において直面したさまざまな困難や不可知性は、私という一人の人間を砕き、小さくし、そうした上で、親鳥からのエサをひたすら待ち望む小鳥に造り変えるための、神の愛なる智慧だったのかもしれません。そのために私はこの道程をどうしても辿らなければならなかったのかもしれません。

 

十字架上で死に三日目によみがえられた復活の主イエス・キリスト。異郷の地に寂しく生くるこの哀れな者を憐れんでくださり、あなたの御聖体を拝領する天よりの恵みに与らせてください。あなたこそが生けるパン、私の生きる望みです。

 

御聖体を拝領したいという熱い思いで昼となく夜となくわが魂はあなたを仰き、あなたを求めています。「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています」(詩篇42:1-2a)。

 

御霊によりわが内なる宮を清めてください。聖きあなたをお迎えするために!ユーカリストの秘跡が存在する所にあなたの教会も在ります。路傍をさまようストリート・チルドレンである私をどうか拾い上げ、汝の教会に運び入れてください。

 

ー終わりー