巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

神への切望

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出典

 

ああイエスよ、永遠の栄光の輝き、巡礼者の魂の慰め主よ、あなたの御前にわたしの舌は語らず、わたしの沈黙があなたに語るのです。どうか主の貧しいしもべの所に来てこれを喜ばせてください。み手をのべてあわれな者をすべての苦悩から救ってください。来てください。来てください。あなたがいなければ一日も一時も喜びはありません。

 

この世の日はわずかで、不幸せで、悲哀と苦難に満ちています。人はここにおいて多くの罪に汚れ、多くの情欲に捉えられ、多くの恐怖に抑えられ、多くの心配に苦しめられ、多くの好奇心にかき乱され、多くの虚栄心にからまれ、多くの誤りに囲まれ、多くの労苦に疲らされ、誘惑に悩まされ、快楽のために弱められ、欠乏のために苦しめられます。

 

ああ、これらのわざわいはいつ終わるでしょうか。いつ自分の罪のみじめな束縛から解かれるでしょうか。主よ、いつわたしはあなただけを思うようになるでしょうか。わたしはみじめな追放者として敵の国に残されています。そこでは日毎に戦いがあり、大きなわざわいがあるのです。わたしの追放を慰め、わたしの悲しみを和らげてください。わたしの望みとあこがれは全くあなたにあるからです。

 

あなたなしで、どこでわたしは幸いであったでしょうか。わたしはあなたなしで天を持つよりは、むしろあなたと共に地上の旅人となりましょう。あなたがおられるところ、そこに天があり、あなたがおられないところ、そこに死と地獄があります。あなたはわがすべての願いであります。それゆえ、わたしはどうしてもあなたに向かって嘆き、呼び、熱心に祈らずにはおれないのです。

 

主なる神よ、わたしはあなたに全き希望と避け所を置きます。わたしのすべての苦難と苦悶をあなたにゆだねます。あなたの外に見出すものはことごとくはかないものであるからです。

 

あなた自身がわたしたちを助け、救い、強め、慰め、教え、また守られるのでなければ、多くの友も益せず、強い援助者も助けず、賢明な助言者も有益な答を与えず、学者の書物も慰めを与えず、どんな尊いものも救い出さず、どんなひそかな快い場所もかくまうものではありません。

 

平安と幸福をもたらすと思われるすべてのものは、あなたなしでは無にひとしく、少しも幸福をもたらさないのです。それゆえ、あなたはすべての善の源であり、いのちの絶頂であり、教えの深淵であられます。そしてあらゆるものにましてあなたに希望を置くことは、あなたのしもべたちの最も強い慰めです。

 

憐みの父なるわが神よ、あなたに向かってわたしは目を上げます。あなたにわたしは信頼をおきます。天の祝福をもってわたしの魂を祝して清め、これをあなたの聖なる宮、あなたの永遠の栄光の座としてください。そして、あなたの神聖なこの宮には、貴い目にさからうものは何もないようにしてください。そしてあなたの恵みがわたしの魂につきそい、平安の路を通って、とこしえの光輝く故郷へと導いてください。アーメン。

 

トマス・ア・ケンピス

 

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御霊が私たちにいのちを吹き込まれるや、私たちの全存在が神に対する親しさを感じ、喜びに満ちたその認識の中で、神を歓喜するようになります。それがいわゆる天的な誕生であり、それなしには私たちは神の国を見ることができません。しかしそれは終焉ではなく、始まりにすぎないのです。というのも、いよいよここから、栄光ある「神への求め」、神の無限の豊かさを求める心の幸いな探求が始まるからです。

 

それを持って始まると私は言いましたが、未だそれを極めたことのある人はいません。なぜなら、深遠にして神秘に満ちた三位一体の神の深さの中には制限も終わりもないからです。

 

果てしのない海原 誰が汝を測ることなどできようか

汝の永遠は 汝を取り囲む

おお 偉大な神よ!

 

神を見い出したにも関わらず、なおも神を追い求め続ける。。聖ベルナールはこの神聖な逆説を次のような四行詩で言い表しましたが、これは神を慕ってやまない魂にとっては瞬時に理解され得るところのものでしょう。

 

「われらは汝を味わい喜んでいます。おお、生けるパンよ。

そして尚も汝を味わおうと切望しています。

われらは汝を飲んでいます。おお、すべての源泉よ。

そしてわれらが魂を満たそうと、今なお汝を渇き求めているのです。」

 

過去に生きた敬虔なひとびとをよく見てください。彼らがどんなに神に対し燃えるような情熱を持っていたかに気づくはずです。彼らは主を想って嘆きました。昼と言わず夜と言わず、そして時期が良かろうが悪かろうが、彼らは主に祈り、祈りの中で主と争い、そして主を探し求めました。そうした後についに主を探しだした彼らの甘美な喜びは言い尽くせぬものでした。

 

「まことに神は計り知れない偉大さを持しておられる」と、天の喜びにあふれキリストの抒情詩人リチャード・ロレは言いました。

 

「私たちが考えることのできる以上に、、、造られた物によっては知られることのないもの。そして神それご自身としては、私たちは決してこの方を理解することができない。しかし今この時にあってさえも、心が神への切望によって燃え上がり始める時はいつでも、非被造的な永遠の光を受けることができるようになり、聖霊の賜物によって感化され満たされ、心は天国の喜びを味わうようになる。その人の心は、目に見えるあらゆる物を超越し、永遠のいのちの甘美さのうちに引き上げられる。この中にまことに全き愛が存在する。知性のあらゆる意図、精神の秘かな働きの一切合財が、神の愛の中に引き上げられる時である。」

 

おお神、三位一体の神よ。汝を求めることをしたいのです。切望感で満たされたい。そしてさらに飢え渇きを覚えられたらどんなにいいかと願っています。

 

どうか汝の栄光を見せてください。そうすれば、私は真に汝を知ることができるでしょう。憐れみの中で、私の内に新しい愛の業を始めてください。そして私の魂に語りかけてください。「わが愛しい者、さあ立って、出ておいで」と。

 

そうして、長い長い間さまよっていた、靄(もや)の立ち込めるこの低地を起ち、汝の元へと飛翔していくことができますよう恵みをお与えください。

 

A・W・トーザー

 

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ふとして、愛の力に満たされたなにかが、わたしたちの人生に入りこんでくることがある。そしてひととき、永遠の世界を垣間見せてくれる。いえ少なくとも「永遠なるもの」の一面を示してくれる、、、そういう時がある。

 

それはわたしたちの上に、あるいはわたしたちにかかわる事柄の中に、やわらかく、そっと触れて来るなにかであるかもしれない。木々の葉を夜明けの風がそよがせるような軽やかさで触れてくるなにか、人にはとらえることのできない、またことばで人に語ることのできないなにか。。。

 

けれどもわたしたちは知っている。それはわたしたちの主だと。そしてその時おそらくは。わたしたちのいる部屋の家具と書物と花が存在しているよりもさらに身近な存在感をもって、主が臨在してくださる。

 

驚異に満ちて上をあおぎ

天に開いている戸を、

その御座についておられる御方を一心に見つめます。

そして手をさしのばし

汝ご自身に触れんとします。

 

おおキリスト、われらが王、われらが主

汝を崇めます。

 

ーエミー・カーマイケル