巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「折衷的」越境は可能かな?ーー国境地帯での友との対話。【カトリック、正教、プロテスタント】

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目次

 

正教会の結婚と避妊の教え

 

:ギリシャ正教会は、結婚・離婚・再婚を三回まで許容し、人工的避妊行為も許容していると聞いているけれど、それは本当なのかな?もしそれが本当だったら、そういう教会が、「唯一の、聖なる、公同の、使徒的」教会であることはあり得ないって私は思う。やはり最終軍配はカトリック教会の方に上がるんじゃないかな。どう思う?

 

:うーん、そうだねぇ。ギリシャ正教の修道士たちに訊いたら、結婚・再婚に関する現在の正教会の教えは「モダナイズ」されたヴァージョンで、本来はそうであるべきではなく*1、伝統的な見解に立つ正教司祭たちは今でも〔カトリック教会の性と結婚の教えの水準に匹敵した〕教えをしているっておっしゃってた。ジョサイア・トレンハム長司祭やピーター・ヒーズ長司祭などが有名だよね。

それから修道士の方は、「人工的避妊は罪であるというのが正教会の公的立場である」とおっしゃっていたけど、具体的にどの文書や会議でその見解が「公式化」されたのかについては聞きそびれた。

いろいろ調べてみたら、ケルト正教会(Celtic Orthodox Church)という自治教会の主教が、結婚と避妊の教えに関し、はっきりした教えを説いており、「その他の正教諸教会は性に関する異端の教えをしている」と批判していた。でもこの「ケルト正教会」の合法性を巡ってはいろいろと議論があるみたいで、一応、「(非カルケドン派*ではなく)プロ・カルケドン派」の「使徒的」正教会と自己認識はしているみたいだけれど、全体としてこのグループが「正統派正教会」としてどこまで公認されているのかはちょっと不明。米国の自治教会OCA(Orthodox Church of America)の公認・非公認*も含め、管轄区の諸問題は複雑でやっかいなんだろうね。

 

でも、、フィリオクェ問題では、やはり正教会の方に軍配が上がるんじゃないかなって思う*2。エドワード・シエツェンスキー教授*は、結局それが決定打となって数十年前にローマ・カトリックから正教に改宗したよ。(奥様は現在もローマ・カトリック教徒)。そうかと思うと、聖フランチェスコ大のアダム・J・ドヴィル教授*は、フィリオクェ問題では正教の方の見解に同意しつつ、ビザンティン・カトリック教徒として今も信仰生活を送っていらっしゃる。だから、、どっちでもいいのかな?よく分かんなくなっちゃった(涙。)

 

宣教の働きにおける福音主義について

 

:保守メノナイト・フッタライト派のディーン・テーラー師とのディスカッションはどうだった?

 

:うん。とても為になる対話だった。「戦争とキリスト者」の問題に関しても、世界宣教のテーマに関しても、たといプロテスタンティズムが教会論的には使徒継承をもたない「キリスト教共同体」でしかなかったとしても、それでも、魂の救済に対する兄弟姉妹の真摯なる情熱や伝道、宣教に対しやっぱり頭が下がるよ。今日も彼らはキリストに対する愛ゆえに汚物にまみれた難民キャンプのトイレを黙々と掃除しているよ。*3 

福音主義の兄弟姉妹の働きかけと愛がなかったら、現在の私はあり得なかった。だから宣教や伝道の分野において福音主義の兄弟姉妹から学ぶべきことはたくさんあると思う。それで、テーラー師に言ったの。「結局、『折衷的』になることを自らに許す以外に、信仰者として統合性をもった生き方をすることができないかもしれない」って。

 

「折衷的」であることをめぐって

 

:えっ、でも、「折衷的であること(being eclectic)」っていうのは、プロテスタント的あり方だよ。プロテスタント諸教派にはどれ一つとして真理全体を包含した団体は存在しない。だから、真理の包括性を満たすべく私たちは、他の諸教派からいくつか別の諸信条を取捨選択しなくてはいけない。でも一カトリック教徒が「折衷的」であることは不可能。なぜなら、彼・彼女はカトリック教会の全教理を丸ごと受け入れることが求められているから。

 

:その通り。だからこそ、私は今こうして苦悶と呻きの内に、鉤カッコ付で「折衷的」という言葉をあえて使っているの。純理論的次元でいうと、「教導権(Magisterium)に従う」というトップ・ダウン式真理認識*と、「折衷的」な真理認識は、互いに相容れない行為であるということも十分承知している。また、「折衷的」行為は、プロテスタンティズムの解釈的個人主義にも多かれ少なかれ抵触しているはず。さらに「折衷的」である自分は、「教会的消費者優先主義*」の咎をも、ある意味逃れられていないだろうと思う。それも承知している。

 

:それにもかかわらずなぜ、「折衷的」という言葉をあえて使おうとしているの?

 

:うん。私はね、ここ数年、プロテスタンティズムの「権威の所在」の問題に取り組む中で、いかにして「個」に最終権威が付与されることを回避することができるのか、いかにして「折衷的、pick-and-choose」的クリスチャンであることを脱却することができるのかを問い続け、追い求めてきたように思う。そしてとうとう行き着いたのが、カトリック教会の「教導権(Magisterium)」だった。

ブライアン・クロス教授の諸論文を通し、私は「これが解釈権威における個人的自律性に対する究極的解決だ」と納得したの。つまり、知的・心情的レベルでは私は昨年の時点ですでにカトリシズムに転向したといっていいかもしれない。

 

:「知的・心情的レベルでは」ね。うん、うん。そこのところ、よく分かるよ。私も同じかも。

 

理論と現実のギャップと不調和

 

:でもね、実際にカトリック教会の中に入ってみて、私は、「教導権」という概念があるにも拘らず、教会内のさまざまな諸見解に対し、結局は個人的裁断を下している自分を発見したの。そこには悲劇的とも言っていい「不調和*」があり、私は理論と現実の間で大いに困惑し、その内的矛盾に苦しんだ。*4

 

一方において、神が秩序の神なら、「教導権」を通し人間に真理の教えが伝達されるはずだという信仰に基づいた願いがあった。他方において2018年のマキャリック事件に始まる「カトリック教会 恥辱の夏(the Summer of Shame)」以降、今年10月開催予定のアマゾン・シノドスの不穏な内容に至るまで、私の心はただの一時も、「教導権」の導きに安心できず、戦々恐々としていた。

 

そして「教導権」の導きに信頼することのできない自分の信仰のなさを責めていた。この辺りの心境については、エイダン・キメル神父(現:西方奉神礼正教司祭)が同じようなことを次のように告白していた。

 

 「10年前、私は(25年間、司祭として務めてきた)米国聖公会を離れ、ローマ・カトリック教会に移りました。私がそうした理由の一つは、教導権(Magisterium)及び教会的無謬性に関するカトリック教会の理解は、当時プロテスタント諸教会に支配的だった啓蒙主義イデオロギーの腐食的懐疑主義からの実行可能な脱出を提供しているのではないかと考えたからです。個人的裁断(“private judgment”)に関するジョン・ヘンリー・ニューマンの批評は、自分にとってかなり説得力を持つものでした。そしてこの問題に対する彼の解決策は、ローマ教皇にフォーカスを置いた教会的無謬性でした。

 しかしローマ教会に改宗後、時を置かずして私は気づいたのです。ーー教会的無謬性というのもまた、ある種の誤った信条や実践を支持するよう私たちをけしかけ得るのであり、こういった信条や諸実践は、結局のところ、良くて見当違い、そして最悪の場合、誤謬かつ破壊的なものであると判断せざるを得ないものでした。結局、テベル川彼岸のローマ側に移っても、ニューマンがあれほど激しく非難していた個人的裁断を相も変わらず行使している自分を発見したのです。」*5

 

:確かに、現在のカトリック教会の危機に直面し、外部の人たちが教会の無謬性を信じることはかなり難しくなっているとは思う。*6

 

:マイケル・ロフトン師も、Called to Communionのブライアン・クロス教授の諸論文に説得される形で、改革長老派からカトリックに改宗したと言っていたから、彼に言ったの。「私もそうでした。クロス教授のカトリック弁証は堅固で強靭なものでしたし、今もそう思っています。でも、現実にみる現教皇の諸言説自体が、クロス教授の弁証に対する最大の反証になっているような気がするんです。***」そうしたら、ロフトン師も「確かに私の目にもそのように映っています」と言っていた。

それでロフトン師に、Reason and Theologyの番組ゲストにブライアン・クロス教授をぜひ招待してくださいと特別申請したよ。私はクロス教授がこの「不調和」をどのように理解しているのか、私たち信徒はどのように理解すべきなのか、それについてぜひとも訊きたいって思っているの。

 

:私も訊いてみたい。

 

:だからね、理論的には私は「カトリック教会」を信じている。そしてこの「カトリック教会」に入らない限り、人は(プロテスタントであれ、正教徒であれ、何であれ)、結局、解釈や認識において「折衷的」であることを免れないということも認めたいと思う。

でも正直、今、この巨大船が私たちを無事に天国の港に導いてくれるのか、それともこの船は悲劇のタイタニック号になりつつあるのか、そこら辺の見極めができない。だから臨時的解決策として、少なくとも一定期間、私は自分が「折衷的」であることを自らに許さなくてはどうにもならないという地点に追いつめられているの。ねっ、クレージーな考えでしょ?

 

「教会」を信じるか、あるいは懐疑主義か

 

:いや、クレージーさにかけては私の方がもっと上手(うわて)かも。私、母に言ったの。「聖書の諸約束によると、カトリック教会が真であるに違いない。それを理論的に信じている。でも実際面においては、それに本当に信頼を置いていいのかどうか定かでない」って。

でも私は「折衷的」という方向には行かない。だって、「折衷的」というのは反聖書的だと思うから。ただ私の場合は、その代りに、神の誠実さや聖書の信頼性に対し、自分の中に懐疑心が生じてくる。つまり、どういうことかって言うと、もしもカトリック教会を信じないのなら、それが実質意味しているのは、神がご自身の御約束を守るのに失敗なさったってことになるでしょ。もしくは、教会に関し聖書が言っていることを私たちは本当には信頼することができないってことになる。

だから、教会(Church)を疑うという行為に内包されているのは、神や聖書に対する懐疑。だから、こと教会(Church)に関しては、それを全て受け入れるか、もしくは無神論者になるか、究極、その二択になるんじゃないかって思うの。

 

:うん。私も全く同じ思考経路をたどってきたよ!カトリック教会の教導権を信じるか、さもなくば無神論か、ってね。

 

:神の存在を疑うのは不可能。だから私たちに残された選択肢は教会に信頼すること以外にない。あるいは、あえて自己矛盾を抱え込むか。

理論と現実の乖離というこの問題を解決する一つの方法は過去の教会史を振り返ることじゃないかしら。過去にも危機はたくさんあって、その度に人々は「教会の全ては破壊され、もう何も希望がない」と思った。でも歴史はその後も続き、カトリック教会は生き残った。三人の教皇が乱立した時期もあったし、アリウス異端を許容した公会議もあった。だから、現在の危機も永遠には続かず、いつか終わる。そして最終的にキリストが勝利を収めてくださる。

 

過激派弁証家たちのレトリックに翻弄されないために

 

:そうであってほしいと私も心から願う。ただ、「教会(Church)を信じるか、さもなくば懐疑主義/無神論か?」という思考が私たちの内に少なからず芽生えてしまった理由は、一部の過激派カトリック/正教の戦闘的弁証家たちによる非現実的レトリックが禍しているのかもしれない。

これらの人たちは、「プロテスタント VS カトリック」もしくは「カトリック VS 正教」「プロテスタント VS 正教」という具合に自分の陣営と論駁対象の陣営を、のこぎりの刃のようにシャープに対立させながら、自分の陣営があたかも地上の桃源郷であるかのように描いてみせている。

でも現実を直視するなら、私たちはどの陣営にいるにせよ、ポスト宗教改革時代に生きている人間として、多かれ少なかれ、個人主義、世俗主義、唯名論の問題に接触していると思う。

例えば、カリフォルニアで育った人が‟東方”正教会に改宗したとして、その人は一体どれくらいの程度において「東方的」なのだろう?あるいは、東欧ウクライナの片田舎に住むギリシャ・カトリック教会のおばあさんはどれくらい「西方的」なのだろう?極東に住む仏教徒出身の日本人のカトリック教徒はどれくらい(元来ローマ帝国の地理的・行政的東西区分である)「西方 vs 東方」二項対立モデルにフィットしているのだろう?彼はどれくらい「ラテン的」なのだろう?

また、米国プロテスタント教徒がカトリックや正教会に改宗したら、それで自動的にアメリカ的個人主義の問題からクリアーできたことになるのかな?米国のカトリック教会や正教会内に「プロテスタント的個人主義」の問題はほんとうに皆無なのかな?

そういう意味でも、現実に対し正直でない弁証レトリックは、人を、誤った自己・他者認識に陥らせ、そこから高慢、派閥・選民意識、原理主義、懐疑といった負の実が生じてくるように思う。

 

正教改宗の可能性と折衷性

 

:あっ、そうそう、正教に関してだけど。もしもカトリック教会に参入しないのなら、いっそのこと、正教ではなくプロテスタントにとどまった方がいいんじゃない?なぜ正教改宗の可能性を考えているの?

 

:使徒継承。ユーカリスト/エウカリスチアにおけるキリストの実在。フィリオクェ条項。全地公会議等。カトリック教会はプロテスタントのことを教会とは認めていないけれど、正教のことは部分教会としてしっかり公認している*7。だから仮に私の判断が間違っていたとしても、ユーカリストの有効性、司祭の合法性、教会の合法性という点で少なくとも問題が解決されることになる。

 

:なるほど、OK。

 

:でも将来的に仮に正教に改宗した場合、私はキメル神父と同様、自分が「折衷的」正教徒であらざるを得ないことを公に認めなくてはならないと思う。例えば、キリスト教倫理(性や結婚)に関しては私はカトリック教会の教えを全面的に支持しているし、これからもそうだと思う。主よ、どうか私たちに道を示してください。

 

ー終わりー

 

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*1:「この点に限っていえば、ギリシャ正教会よりもむしろ非カルケドン派教会であるアルメニア正教会やシリア正教会の方が、より正しい教えをしているのではないでしょうか?」と修道士の方々に問いかけると、それに対し否定はされなかったので、おそらく彼らも心の中では、ギリシャ正教会の結婚・離婚の教えに関しては多かれ少なかれ疑問を抱いているのかもしれません。

*2:参:V・ロースキー著『東方キリスト教の神秘思想』// A. Edward Siecienski, The Filioque: History of a Doctrinal Controversy (Oxford Studies in Historical Theology), 2010. 

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*3:

*4: 

www.youtube.com

*5:引用元

*6:関連記事: 

*7: