小川のほとりに腰を下ろし、清冽で澄み切った水の流れをじっと見つめていました。その時、なぜだか分かりませんが、底流に流れる無限な詞の流れと、そこから汲み出され紡がれる俳句の世界に思いがおよびました。
井筒俊彦氏は、形の定まらない意味の顕れを「言葉」と区別して「コトバ」と呼びましたが、五・七・五の三句十七音から成る俳句は、自然界・超自然界に満ち溢れるそういったコトバの、可視的結晶なのだろうと思います。無駄がなく、余計なもの、余剰的なものが剪徐されたうつくしき言葉の小宇宙。
「俳句は前後の〈切れ〉によって、散文的な日常の世界から切り離された韻文」であると俳人長谷川櫂氏は言います。「切字『や』『かな』『けり』は、空間的、時間的な『間』を生み出すだけでなく、心理的な『間』を生み出す働きがある。みな、心の世界の消息を伝える言葉である。」
閑(しずか)さや岩にしみ入(いる)蝉の声 芭蕉
向日葵の空かがやけり波の群 水原秋櫻子
ゆふばえにこぼるる花や 百日紅(さるすべり) 草城
そこから翻り、自分の書き物や思考の世界は、余剰的なもの、副次的なものでなんとゴタゴタしていることだろうと、恥ずかしく情けない思いで一杯になりました。
言葉が自分の中で熟するまで待つ忍耐心や、概念を祈りと黙想の内に整え、練り、言葉にする業にともなう責任の大きさを自分はどれほど自覚してきたのだろう。内に外に日々大量生産される言葉の海の中にあって、本当に価値あるもの、熟考に値するもの、いのちに触れるものは一体どれくらいあるのだろう。
まずは御霊の照らしによって内側が変えられなければならない。瑣末なことではなく物事の本質を見つめつづけようとする清澄な心の眼が育たなければ、『間』を生み出し、心の世界の消息を伝える言葉ーーロゴスーーを捉えることはできない。
そんなことを思いながら帰路につきました。