巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

賛成するにしても反対するにしても相手の見解をできるだけ正確に理解する努力が必要だと思う。

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これからもよろしくネ。(出典

 

「なぜプロテスタント教会が必要なのか?(対ローマ・カトリック教会)」という記事を読ませていただきました。筆者の方はプロテスタント教会の教職者でいらっしゃいます。

 

「教会は聖書と教義の誤りのない解釈者である」。この決議はローマ・カトリック教会において1545年のトリエント公会議でなされました。一言で言うと、聖書よりも教会に権威があるということです!皆さんはこれを受け入れられるでしょうか?

 

「教会が聖書と教義の誤りのない解釈者である」⇒「聖書よりも教会に権威がある」*1

 

ここにはまず論理の飛躍があると思います。そしてこの飛躍の背後には、「教会が聖書の解釈者でないのなら、それでは一体『誰が』聖書の解釈者であり、解釈における最終権威なのか?」という点に関する問題意識の欠如があるように思われます。

 

エヴァンジェリカル界に広範囲に散見されるこういった問題意識の欠如を、保守プロテスタント神学者キース・マティソンは「ソロ・スクリプトゥーラの問題」と呼び、次のように解析しています。

 

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Keith A Matthison、レフォメーション・バイブル・カレッジ組織神学教授。*2

 

「聖書に対するあらゆる訴えは、実際には、聖書の諸解釈に対する訴えに他なりません。ですからここで問うことのできる唯一の真の問いは、『それは誰の解釈によるものか?』です。異なる聖書解釈をする人々が一同に会する時、私たちはただ単にテーブルに聖書を置き、『聖書よ、私たちの間に存在する相違を解決してください。』と頼むことはできません。聖書が権威として機能するためには、それは誰かによって読まれ、解釈を施されなければなりません。‟ソロ”・スクリプトゥーラによると、ここでいう『誰か』というのは各個人を意味しています。そのため、最終的には人間の解釈者の数だけ、究極的権威筋が存在するということになります。」*3

 

ですから、キース・マティソンによれば、冒頭の文の内実は、

 

「教会が聖書と教義の誤りのない解釈者である」⇒「(AさんやBさん、もしくはC教団やDグループによる)聖書の諸解釈よりも教会に権威がある」という具合になるかと思います。

 

つまり、ここで問題になっているのは、「聖書が最終権威である」というプロテスタント信者の一般的主張は、実際には、「(誰かによる)聖書(の諸解釈)が最終権威である」ということではないだろうか、という省察だと思います。

 

ですから、たとい「教会が聖書と教義の誤りのない解釈者である」というカトリック教会の主張が仮に間違っていたとしても、それで自動的に、プロテスタント側の主張が正しいということには全くならないということが少なくとも言えるかと思います。それは解釈の権威をめぐるプロテスタント界の混乱とアナーキー状態をみても一目瞭然だと思います。

 

 「この問題に対する現代エヴァンジェリカルの典型的解決策は、探求者に次のように語ります。『両サイドの議論を注意深く読み、調べ、そうした上で、どちらの見解が聖書の教えに最も近いかを判断してください。』そしてこれこそがソラ・スクリプトゥーラ(「聖書のみ」)に他ならないのだと彼は聞かされます。つまり、唯一の権威である聖書に依り、すべての教理を個々人が検証することであると。

 しかしながら現実問題として起こってくるのは、あるクリスチャンが他のクリスチャンたちの諸解釈を吟味し推し量る際、結局、彼は自分自身の聖書解釈のスタンダードを用いているという事実です。本来ならば、聖書に最終的権威を置くべきなのですが、聖書に関するこういった観念は最終的権威を、それぞれ個々の信者の根拠づけや判断に置いてしまっています。その結果が、今日の福音主義で私たちが目の当たりにしている相対主義、主観主義、そして神学的カオスです。」*4

 

 「ソロ・スクリプトゥーラは、自分自身がみずからの〈法律〉と化した個々の信者の自律という現象を引き起こしています。聖書は個人の良心および理性に従って解釈されています。そして何が聖書的であり、何が非聖書的であるかに関する個々人の意見という最終的基準に照らして万事が評価され裁定されています。

 ソロ・スクリプトゥーラによると、聖書ではなく、結局、個人が実際の最終権威なのです。これは反逆に満ちた自律であり、神の大権に対するはく奪行為です。ソロ・スクリプトゥーラの信奉者たちは、‟聖書のみ”というのが‟私のみ(me alone)”という意味ではないということを理解していません。聖書の真の意味が何であるかをそれぞれ個々の信者が自分勝手に決めていいというような事を聖書は全く言っていません。」*5

 

 「教会の解釈的権威を拒絶することにより、個々人は自分自身を自律した存在に仕立て上げています。しかし本人自体は、自分のことを自律的、反逆的などとは思っていないかもしれませんし、おそらく彼は『自分は神に従っている』、『聖書に記されている〔彼自身の解釈による〕神の言葉に従っている』と思っていることでしょう。しかし神によって立てられた教会の解釈的権威を無視することにより、個々人は、キリストが教会に委託されたところの権威を侵害し、不当に奪っています。それがゆえに、マティソンによると、最終的な解釈的権威をわが物にすることにより、個々人は『反逆的自律』の咎を負っているのです。」*6

 

さらに、マティソンは、解釈における教会権威をラディカルに拒絶するソロ・スクリプトゥーラの立場は非聖書的であると論じ、次のように言っています。

 

 「聖書自体が‟ソロ”スクリプトゥーラというものを教えていません。キリストはご自身の教会をお建てになりましたが、その教会には権威の構造があり、キリストはご自身の教会に、御言葉の務めのために特別に任命された人々をお与えになっています(使徒6:2-4)。なにか論争が持ち上がった際、使徒たちは個々の信者たちに、『さあ、家に帰って各自、どちら側が正しいのか判断してください』とは指示しませんでした。彼らは教会会議を召集したのです(使徒15:6-29)。」*7

 

つまり、ローマ・カトリック教会の主張によれば、教会は聖書の存在する前から存在しており、教会自らがキリストや内住の神の霊を通して存在する無謬の団体であり、聖書を神のことばであると認証できる唯一の団体であるというのです。

言い換えると、教会は聖書が無くても存在することができるが、聖書は教会なしには存在しないということなのです。ですから、聖書が不完全なので、使徒たちの口伝や教会の伝承が絶対的に必要であると主張し、さらに66巻の聖書に7巻の外典を付け加え、合わせて73巻を正典として認めているのです。

 

「教会が聖書の存在する前から存在していた」というのは、特にローマ・カトリック教会に限った主張ではなく、古代教会史における歴史的事実として、プロテスタント論者の間でも受容されていると思います。この点に関し、M・ボウモント師は次のように言っています。

 

 「キリスト教が新約聖書という書物に先行していたのは歴史的事実です。通常、最初期の新約文書は、AD40年代の中盤から後半にかけて書かれたと考えられています。(最初の書がマタイの福音書であったのか、ヤコブの手紙であったのか、それともパウロによるガラテヤ人への手紙であったのかは討議されています。)

 これが意味するのは何かと言いますと、キリストの死およびペンテコステが遅い年代のAD33年であったとしても、「教会の始まり」と「一番最初の新約文書」の間に少なくとも10年間のギャップがあったということです。それに加え、パウロの諸文書は、その当時すでに存在していた諸教会に宛てられた手紙だったという事実も挙げられます。

 また、送付や配布により時間がかかったという当時の状況をも考え合わせますと、教会が自分自身の(新約)聖書を所有することなく前進していかねばならない期間がそれなりに長く続いていたのではないかとも考えられます。」*8

 

ですから、聖書が不完全なので、使徒たちの口伝や教会の伝承が絶対的に必要であると主張し、さらに66巻の聖書に7巻の外典を付け加え、合わせて73巻を正典として認めているのです。

 

この部分は、カトリック(および正教)の立場に対する誤解に基づく不正確な主張だと思います。カトリックや正教は、聖書が「不完全」なので、使徒たちの口伝や教会伝承が必要であるとは言っていません。

 

詳しくは『カトリック教会のカテキズム』のパート1、第2章第2項II「聖伝と聖書の関係」(80-83)それから、第3項「聖書」のセクション全部(101~141)をご参照ください。また、正教会の「聖書」「聖伝」観については、ゲオルギー・フロロフスキーの著書「Bible, Church, Tradition, An Eastern Orthodox View」(1972)等をご参照ください。

 

さらに、聖書正典の複雑な形成史については以下の記事をご参照ください。*9*10

 

 

宗教改革者たちが命がけで聖書の完全性を強力に主張し、プロテスタント教会が誕生した意味がここにあります。プロテスタント教会は聖書こそが最高の権威であると主張します!なぜなら、聖書自身がこう言っているからです。

「聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない、ということです。なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語ったのだからです」(第二ペテロ1:20~21)。

 

この部分も、前述の聖書権威に対する箇所と同様、ソロ・スクリプトゥーラ批判の視点に立てば、「『聖書の預言はみな、人の私的解釈を施してはならない』という聖書の掟を破っているのは一体全体どちら側なのか?私的解釈を施しているのはむしろプロテスタント信者の方なのではないか?」という論駁が為され得ると思います。

 

さらに、ローマ・カトリック教会はローマ教皇の無謬を1870年の第一次ヴァチカン公会議において可決しました。ローマ教皇は1つとして過ちを犯さず、罪がないという意味です。しかし、聖書はひとりとして正しい人はおらず、すべての人が罪人であると言っています。

 

ここの部分も教皇不可謬説に関する誤解に基づいています。教皇不可謬説は、「ローマ教皇は1つとして過ちを犯さず、罪がないという意味」では全くありません。

 

 「教皇不可謬といっても決して教皇の発言がすべて誤りなく、正しいということではない。不可謬になりうるのは『教会が長きにわたって伝統として教えてきたこと』か『教皇座(エクス・カテドラ)から厳かに宣言された』信仰に関する事柄のみに限定されている。

 さらにたとえ『教皇座からの荘厳な宣言』であっても、それが『教会の伝統的な教え』と矛盾しないよう配慮される。『教会が伝統として教えてきたこと』というのは『普遍的教導権』あるいは『一定の教導権』ともいわれる。そして『教皇座からの荘厳な宣言』は『特別な教導権』あるいは『荘厳教導権』と呼ばれる。

 すなわちいくら信仰に関する教皇の発言であっても教会の中で伝統的に言われてきたことでないものや、教皇の私的な場での意見などは『教皇座から』の荘厳な宣言ではないので不可謬にはなりえないのである。」*11

 

つまり、教皇不可謬が成り立つためにはかなり厳しい条件が満たされていなければならないということです。*12

 

私自身も教皇不可謬説の教義を巡っては大いに葛藤しており、現在の自分の理解は、どちらかというと穏健派正教徒の首位性の理解に近いのかもしれません(しかし今後この理解に変更・修正がもたらされる可能性はあります。)

 

この教義に関しては現在も東西の教会の指導者や神学者たちの間で真剣な話し合いと協議がなされており、今後の展開に注目していきたいと思っています。*13

 

聖書に権威を置くか、教会に権威を置くかをはっきりさせることは本当に重要なことです。このように大きな差となって現われて来るからです!

 

カトリックとプロテスタントの間で話し合わなければならない主題は多くあると思いますし、その中の幾つかは確かに和解不可能な反立性を帯びていると思います。

 

しかしながら、「聖書に権威を置くか、教会に権威を置くか」という極度に単純化された二分法がものさしになっている限り、私たちは相手に対する誤解をベースにした偽のセーフ・ゾーンから一歩も外に出ることができないのではないかと思われます。

 

賛成するにせよ反対するにせよ、主に従う私たちは、心を尽くし思いを尽くし兄弟愛の限りを尽くし、できる限り相手の見解を正確に理解する努力を続けていくことが求められていると思います。

 

他者理解における行程はたえざる冒険だと思います。それは自分の足場が揺るがされる可能性に対し自らをオープンにすることを要求してくる点で、非常にリスキーでありながらも、それと同時に新しい地平が拡がってくることに対する期待感に胸躍るわくわくした歩みでもあると思います。

 

どうか相手の立場をよりよく理解していこうとする私たちの心と思いを主が受け取ってくださり、私たちが共に、主を知る知識において成長してゆくことができますように。

 

ー終わりー

 

関連資料

Review of Todd Friel on Roman Catholicism - YouTube

Todd Friel, Eastern Orthodoxy, Justification, and more. - YouTube

*1:『カトリック教会のカテキズム』86項には、〔教会の〕教導権は神のみことばに優越しているわけではなく、その僕(しもべ)である旨が次のように明記されています。86 "Yet this Magisterium is not superior to the Word of God, but is its servant. It teaches only what has been handed on to it. At the divine command and with the help of the Holy Spirit, it listens to this devotedly, guards it with dedication and expounds it faithfully. All that it proposes for belief as being divinely revealed is drawn from this single deposit of faith." DV 10 para 2.引用元

*2:Keith Mathison.

*3:Solo Scriptura: The Difference a Vowel Makes,” pp. 25-29. 

*4:The Shape of Sola Scriptura, p. 240.

*5:Shape, p. 252.

*6:引用元

*7:Solo Scriptura: The Difference a Vowel Makes,” pp. 25-29.

*8:

*9:「66巻の聖書に7巻の外典を付け加え」というプロテスタント内部の主張は、「外典を差し引いた」という外部からの批判と合わせて考える必要があると思います。

*10:J . ペリカン著「聖書は誰のものか?ー聖書とその解釈の歴史」(教文館) 参

*11:出典.

*12:「教皇座から」の荘厳な発言となりうるためには以下のような条項を満たしている必要がある。

ー教皇が一人の神学者としてではなく、世界に広がる教会の霊的な長として宣言すること。

ー信仰や道徳に関する事柄であり、それらが荘厳な形で手順を踏んで発言されること。 

ーその発言が教会の過去の教えに矛盾しないこと。

ーあらかじめよく検討され、十分に納得され、変更の余地がないまでに完成された信仰の事柄について使徒の権威をもって公式に宣言が行われること。荘厳な宣言に関しては次のような定式表現で始まることが多い: 「われわれはここに宣言し、以下のように定める。」

ーさらに「不可謬」の条件を満たすには、教皇の宣言が全世界の教会を対象とされたものであることが必須である。つまり教皇が公式の手順を踏んで「全世界の教会」に対して宣言したものでなければ、その宣言は「教皇座から」のもので「不可謬」なものとはなりえない。

ー歴史的に見れば、このような権威をもって行う宣言には、これらの宣言に反対的な言辞を述べるものはカトリック教会から離れているとみなされるという一文がよく付加されるが、これをアナテマという。たとえば「不可謬」権を行使して宣言された教皇ピウス12世の「聖母の被昇天」に関する宣言には、「もしこれらのことを疑い、否定する発言を行うものはカトリック教会の信仰から離れているとみなされる」という一文が付加されている。出典

*13: