巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

神の天的な礼拝にのぞむ(by グレッグ・ゴードン)【初代教会の霊性と慣習】

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フラ・アンジェリコ画(出典

 

目次

 

神の天的な礼拝にのぞむ

 

Greg Gordon, Entering into God’s Heavenly Worship Service(拙訳)

 

また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾万倍であった。黙5:11

 

多くの人々にとって、天国は驚きそのものでしょう。

 

あまりにも地上に縛られ、地上的なものに執着しているため、私たちは、天国そのものに対し黙想したり想いを馳せたりすることがほとんどありません。

 

しかし歴代の教会をみますとと、天国を重んじる心の態度というのは、教会の主たる関心の一つであったことが分かります。

 

金の鉢、香、聖なる御使い、二十四人の長老たち、主の前で身を伏せる礼拝姿勢、、こういったものは、大半の信者にとってはなじみのない礼拝風景です。黙示録5章を読むと、今まさに天国で起こっていることーー天における礼拝の姿が美しく描写されています。この礼拝光景は、イザヤ6章にも重なるものです。

 

今この瞬間にも、「雲のように私たちを取り巻いている多くの証人たち」(ヘブル12:1)が主を礼拝しているということは、現在の私たちには理解が容易ではありません。

 

ここの二章(黙示録5章、イザヤ6章)を読むと、私たちは、天にある聖さに圧倒され、大いなる畏敬の念におそわれるでしょう。

 

初代キリスト教神学を貫いていたのは、ーー信者が共に礼拝をささげる時、私たちはまた同時に、天にいる聖なる御使い、および雲のように取り巻いている証人たちの捧げている礼拝にも「入っていくentering」ことになるという信仰でした。

 

近年、礼拝はあまりにも自己中心的なものへと変貌してしまったため、前述したような初代クリスチャンの考えは私たちにとって全く現実味のないもののように思われるかもしれません。しかし元来、礼拝というものは常に、高遠かつ崇高なものだったのです。

 

天における、真に天的な礼拝に一分でも臨んだならば、私たちはそこに永遠を感じるにちがいありません。神への礼拝に関し、私たちはまず、この二章を黙想し、熟考してみることから始めることができるかもしれません。

 

使徒ペテロはあの忘れがたい出来事(マタイ17)のことを詳述しています。それについて語るペテロの思いは、彼の仕える聖なる神に対する崇敬と畏れの念に満たされていたにちがいありません。神のあの聖なる御声、自分の肉眼で見た栄光に輝く主イエスのことを想い、使徒の心は感慨の念に堪えなかったでしょう(Ⅱペテロ1:16-18)。

 

ペテロは「この私たちはキリストの威光の目撃者」であり、「おごそかな栄光の神から、、御声がかかった」時、それは彼の人生に揺さぶりをかけるようなものとなったことを告白しています。というのも、彼は神の聖なるご臨在そのものを目の当たりにしたからです。彼がその場所を「聖なる山」(Ⅱペテロ1:18)と呼んだのも驚くに値しません。

 

さて私たちはどうでしょう。私たちの信仰生活の中で、今もって聖なるなにかは残存しているでしょうか。教会の中におけるもろもろの事柄は、今も私たちにとって聖なるものとなっているでしょうか。

 

私たちの捧げる礼拝は、御使いたちと共に礼拝していることを髣髴させるような天的感覚を与えているでしょうか。

 

キリスト教は常に聖なる宗教でした。そこに俗なるものの入る余地は全くありません。にもかかわらず、近代思想は、キリストおよび、神に関わる聖なる事柄を、ありきたりで卑俗なものにしようとしています。

 

私たちの持っている聖書に関してでさえもそのことが言えるでしょう。使徒パウロはテモテに宛てた書簡の中で、この書を、聖なる書(τα ιερα γραμματα)と呼んでいます(Ⅱテモテ3:15)。

 

私たちはこの書に対し、そのような畏敬の念を持って臨んでいるでしょうか。初期の信者たちは、この聖なる書を崇敬と礼拝の念を持って読んでいたのです。

 

おお天にまします御父よ、神にかかわる聖なる事柄に対する畏敬と崇敬の念が、私たちの中で回復されますように。天国の圧倒的な聖さ、そして今この瞬間にも天で鳴り響いている御使いたちの礼拝をわれらにも味わわせたまえ。

 

アーメン。

 

両手をかかげ、天を仰ぎ祈る

 

Greg Gordon, Praying with Confidence Before God(拙訳)

 

ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。1テモテ2:8

 

頭を垂れ、手を組んで祈る。これは私たちの多くにとってきわめて当たり前の行為であり、幼い頃から教えられてきたことです。現代の教会で教えられてきたこの祈り方以外に一体どんな祈り方があるのだろうーー。あなたは今いぶかしく思っておられるかもしれません。

 

驚かれるかもしれませんが、初代教会のクリスチャンたちには、「両手を上げ、天を見上げながら祈る」という慣習があったのです。

 

冒頭の聖句(1テモテ2:8)「きよい手をあげて」もそれを明確に証しするものです。ローマのクレメンスは言いました。「私たちも頭を上げ、両手を天に掲げます。」

 

またテルトゥリアヌスはこう言いました。「私たちは目を天に向け、両手を掲げます。」

 

初代クリスチャンの描いた壁画をみても、天に両手をかかげている聖徒が描かれており、その事実を裏付けています。

 

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ローマのカタコンベの壁画 

 

福音書の中においても、イエスが祈られる時に「目を天に向けた」という記述がなされています(ヨハネ17:1、11:41)。またそれは旧約時代の神の民の慣習でもありました。(出17:11、ネヘミヤ8:6、詩28:2、申32:40)

 

エズラ記3章(出典

 

ある若いクリスチャンの方が祈りについて一度私に尋ねてこられました。「祈る時に目を開けるのは間違っていますか?」

 

私はしばらく考えた後、次のように答えました。「いいえ、間違っているとは思いません。」私としては、「目を閉じた方が望ましいのでは」と思いつつも、この青年を励まそうと、「目を開けて祈ることであなたがより深く神様のことを考え、祈りに集中できるのなら、かまわないと思います。」と言ったのです。

 

私自身も、これまでの人生で何度となく、夜空に輝く星を見上げながら、神に祈ったことがあります。そしてそれは実にリアルで感動を伴う経験でした。

 

テルトゥリアヌスもまた、なぜ〔初代教会に〕このような祈りの習慣があったのか一つのヒントを与えてくれています。「なぜなら、私たちは罪ゆるされ潔白とされているからです。私たちは頭を覆いません。なぜなら〔罪の赦しにより〕もはや恥じることがないからです。」

 

この言葉を読んだ時、ヘブル人への手紙のあのすばらしい聖句を想わずにはいられませんでした。

 

大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(新改訳)」(「はばかることなく」(口語訳)、「確信をもって」(岩波訳)

 

キリストの贖いにより、私たちは天の御父の元に近づく自由と許しをいただいているのです。

 

次にあなたが祈りの中で主にまみえる時、両手をかかげ、贖われたあなたの頭を天に向け、大胆に主に語りかけてみてください。このお方はあなたを愛し、あなたのために肉体の御苦しみを受け、死んでくださったのです。

 

ー終わりー

 

初代教会の典礼の様子

 

Greg Gordon, Liturgy in Early Church Services(拙訳)

 

私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい。1テモテ4:13

 

世界にある諸教会を訪れると、そこには各々礼拝の順序ないし様式というものが存在します。

 

集会ごとにもちろん細かい違いはありますが、共通の要素というものも多く存在します。例えば、聖書を朗読すること、説教すること、公の祈り(1テモテ2:1)、エウカリスチア/ユーカリスト(1コリント11:26)、被り物(1コリント11:1-16)などです。

 

また、集会を導く司教ないしは司祭が祝祷の祈りをささげる慣習も、教会史の初期の時点で形成されていったようです。

 

初期のコリント教会は、自己中心的な人で溢れ、皆がわれ先にと集会に参加したがり、他の人々をかえりみていませんでした。またそこの教会には、権威に対する恭順の欠如および分裂をもたらす霊がみられ、それによって秩序が乱されていました。そこで使徒パウロは、彼らを勧告し、お互いに愛の道に進むよう彼らを励ましたのです(1コリント13)。

 

紀元155年、殉教者ユスティノスは、当時のクリスチャン礼拝について次のように述べています。

 

「日曜日と呼んでいる日に、町に住んでいる者も地方に住んでいる者も皆、一同に会する。そしてそこで、使徒たちの書いた覚え書きや、預言者たちの書き物が読み上げられる。

 そして朗読が終わると、集会を導く責任者が、今読み上げられたすばらしい内容にぜひとも倣うよう彼らに勧告するのである。その後、我々は皆起立し、祈りを捧げ、そしてそれが終わると、我々は聖なる口づけをかわすのである。

 それから誰か一人が、パンと、水と葡萄酒の混ざった杯を、責任者の所に持ってくる。責任者はそれを受け取ると、御子および聖霊の御名を通し、この宇宙の御父に対し、賛美と誉れをささげるのである。それから彼はかなり長い時間を費やし、我々がこれらの賜物にふさわしく裁かれていることを感謝する(ギ:eucharistian)のだ。

 責任者による感謝の祈りが捧げられ、会衆がそれに応答して『アーメン』と答えると、長老と呼ばれている人々が、そこに会する一同に、『感謝の捧げられた(eucharisted)』パンと、葡萄酒・水を手渡した。また、当日その場に出席することができなかった信徒に対しては、長老たちがそれらを彼らの元に届けに行った。」

 

私たちは初代教会のこういった集会の様子を垣間見ることで、多くを学ぶことができます。そこから見えるのは、集会がキリストを中心としたものであったということです。

 

聖書の朗読にしてもエウカリスチアの祝祭にしても、それらは共に主を証しするものであり、指導者たちはそこに焦点を置くことによって、キリストを典礼の中心としていたのです。

 

ー終わりー

 

「アーメン」という言葉の重要性と意味について

 

Greg Gordon, The Significance and Meaning of the Amen(拙訳)

どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。ローマ15:33


私たちはこれまで何千回となく「アーメン」というこの語を、さまざまな場面で聞いてきました。

 

しかしここで自問してみたいのです。典礼の中で使われるこの「アーメン」という言葉の持つ意味とその重要性を、私たちはもしや喪失してしまっているのではないだろうかと。

 

主はヘブライ語に由来するこの語を非常に多用されました。そして、やがてこの語はキリスト教会で永続的に用いられる言葉となったのです。



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マタイでは28回、そしてヨハネの福音書においては(「アーメン、アーメン」と二回続けて使われている句)が26回、用いられています。

 

初代教会においては、この言葉は礼拝時や教会生活の中で用いられていました。1コリント14:16においては「“the amen”, το αμην」と冠詞までついた用いられ方をしています。冠詞のついたこのアーメンは、すべての会衆が「確かにその通りです」と同意し発した言葉です。

 

紀元155年、殉教者ユスティノスは、次のように記しています。「彼が祈りと感謝を終えた時、そこに集っていた会衆は一斉に、『アーメン』と歓呼した。」

 

また、パンと葡萄酒を拝領する前にも、会衆は声を合わせ「アーメン」と唱えていました。さらに祈りの後、会衆はアーメンを賛美として歌うか、もしくは声をそろえ、この語を発していました。

 

初期の信者たちは、この語を聖なる語ととらえ、意味を味わいつつ、崇敬なる念をもって発声していたのです。これは同意していることを神に告白する方法であり、聖なる典礼の中における一つの表現と受け取られていました。

 

ハレルヤという語も(むやみやたらではなく)控え目に用いられており、この語にいたっては、神を礼拝する「御使いの言葉」だと捉えられていたようです。聖アウグスティヌスはこう言っています。「アーメンは、我々の信奉、同意そして承認を表現するものである。」

 

『使徒伝承』の中でヒッポリュトスはまた、「全能の父なる神において。アーメン。主イエス・キリストにおいて。アーメン。そして聖なる教会の聖霊において。アーメン。」と言っています。

 

このようにして典礼のクライマックスにおいて、三位一体の神の御名と共に三回、アーメンが唱えられました。

 

初代信者たちがこの語に込めていた崇敬および畏敬の念は、現在、教会生活を送る私たちにとっての良い模範になるだろうと思います。神は聖なる方であり、私たちはこのお方を「慎みと恐れとをもって」(ヘブル12:28)礼拝すべきです。

 

そして、モーセが畏敬の念をもって燃える柴に近づいていったように、私たちも神の御名をお呼びする際、同じような崇敬の思いをもつべきだと思います(出3:5)。

 

典礼の中で私たちの使う言葉は、それらが十分な配慮と信仰をもって発せられる時、大いなる意味、重要性そして力を帯びてくるようになるでしょう。

 

今度、新約聖書を読む際、いつもよりペースを落として、ゆっくりと噛みしめながら読んでみましょう。そして聖書の中で、神の御名がいかに畏れ多く崇敬を持って語られているのか、それらを黙想してみようではありませんか。


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そして次にあなたがアーメン(ah-men)と言う時、そこに意味と思いを込め唱えてみましょう。

 

多くの讃美歌も、曲の終わりはアーメンで締めくくられています。こうして「アーメン」と最後に歌う時、あなたはその讃美歌の中で今自分が歌い上げた全ての真理に同意しており、それゆえに神を礼拝しているということを告白しているのです。

 

願わくば、三位一体の神、御父、御子、御霊が、典礼および主に対する崇敬の念を私たちの内で深めてくださいますように。アーメン。

 

ー終わりー



被り物を着け、礼拝にのぞむ

 

Greg Gordon, Godly Reverence in Worship with Head Coverings(拙訳)

 

しかし、女が、祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭をはずかしめることになります。それは髪をそっているのと全く同じことだからです。1コリント11:5

 

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出典

被り物に関するここの聖句をより詳しくみていくと、この慣習は「主への敬虔な畏れのうちになされなければならない」ということに私たちは気づかされます。

 

時として私たちには、教会の伝統や慣習に、ただなんとなく表面的に従っている傾向がないでしょうか。バプテスマは軽々しく取り扱われ、エウカリスチアは単に「必要なものだから」と義務的な感覚でなされ、、そこには一種の残薄さと、敬虔な神への畏れへの欠乏がみられるのではないでしょうか。

 

シンボルというものは力強いものです。なぜならそれは、より偉大なリアリティーを表象しているからです。被り物(Veil)というシンボルにおいて、女性たちは、目に見えない御使いたちに向かい、「神の秩序の中にあってなされる、真の礼拝と神への畏れ」について証ししているのです。

 

ある姉妹が心からの敬虔さと、神に対する崇敬の念をもって頭をおおう時、ベールを着けるという彼女のその行為は、「主に従いたい」「神に関するものに対し、畏敬の念を持ってのぞみたい」という彼女の内面的な願いを表すものとなっています。

 

最初の女性であったエバは、誘惑する者の声にそそのかされ、結局、心の内で神の言葉を疑うようになってしまいました(創世記3:4)。しかし今、姉妹たちはこのシンボルを実践することによって、「神のみこころに対し、私は積極的に従います」という選択をすることができるのです。そして、それはとりもなおさず、彼女たちが神および神の方法に恭順なる態度でのぞんでいることを宣言していることでもあります。

 

しかし、たといベールをかぶったとしても、彼女が主のご意図に対する敬意を欠くような姿勢で臨んでいるのだとしたら、それは、「自分の頭をはずかしめる」ことになりえます。

 

女性たちは、男性に、そして究極的にはキリストと神に対し、恭順であることが求められています(1コリント11:3)。その意味で、姉妹は、祈りのベールをかぶることによって、「私は自らの意思をもって、主の権威そしてかしら(headship)に従います」と宣言しているのです。

 

初期教父であるテルトゥリアヌスは次のように言っています。

詩編が朗読される際、もしくは神の御名が言及される時に、頭を覆わないままでいる人(姉妹)など果たしているだろうか?にもかかわらず、ある人々は祈る時でさえも、ただ布のふち部分や、糸のようなものを頭のてっぺんに載せているだけなのだ。そしてそれで頭を覆ったつもりになっているのである。


この敬虔な指導者テルトゥリアヌスが、「被り物というのは、神の御言葉に対する畏敬であり、究極的には(主の御名が読み上げられる時)その御名自体に対する畏敬なのです」と女性たちを奨励していることは非常に意義深いと思います。

 

とは言え、神はあなたの心をご覧になられる方であり、現在祈りのベールを実践できていないからといって罪責感を感じるべきではないでしょう。しかしながら、これは、使徒たちが明瞭に教え、かつ歴代の教会がつい最近まで(前世紀まで)続けてきた慣習なのです。

 

現に、西洋諸国以外の多くの教会では、今もなお、この使徒的慣習が尊守されています。今日、私たちは、主によって教会に与えられたこのシンボルについて再考し、熟慮検討することが肝要だと思います。

 

このシンボルは、神の国の永遠のリアリティーを物語っているのです。神の知恵の中で、主はこのシンボルを姉妹たちに与え、これを尊守するよう求めておられます。目に見えるこのような可視的実践により、主に従うことができるというのは、なんというすばらしい特権でしょうか!

 

ー終わりー

 

日々、キリストの死を告げ知らせる

 

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彼らがイエスを十字架につけたのは、午前九時であった。マルコ15:25

 

イエス・キリストの死の日というのは、世界史の中で、そして人類にとって最も重要な日です。現代の暦においても、出来事は、キリストの死以前(BC)、もしくは死後(AD)によって分かたれています。

 

キリストの死は、時間の中で起こった一回性の出来事であり、とこしえの犠牲であると共に、永遠の中において神に属する永続的な出来事でもあります。

 

私たちは死にゆく人間として、時間という制約の中に閉じ込められており、地上における日々はわずかです(詩90:10)。イエス・キリストの死の重要性は、神の人間に対する取り扱いの歴史の中にも予示されています。

 

またエウカリスチアにおいても、キリストの死はキリスト教典礼の焦点となっています(1コリント11:26)。さらに、水による洗礼は主の死と一体化することを示しています(ローマ6:3)。

 

最古の使徒信条にはまた、キリストの死のことが言及されています。そして初代教会は、その信仰を言い表すものとして、十字架を主たるシンボルの一つとしていたのです。

 

天国においても私たちは、神の御座の前で主を礼拝しつつ、十字架上でのキリストの死について、これを主に感謝するのです(黙5:9)。

 

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私たちを神の元に買い取り、すべてを変えた「主の死そのもの」について、私たちは日頃、意外に黙想することが少ないのではないでしょうか。

 

エウカリスチア(聖餐)において、私たちは「主の死を告げ知らせる」とありますが、「なぜ主の復活ではなく、主の死を告げ知らせるのだろう?」と疑問に思っている方がいるかもしれません。そうです、それは、キリストの死において、贖いの奥義が始められたからです。(しかしそうであるからといって、これは主の復活の重要性を軽視することではありません。ローマ10:9参照)。

 

私にとって興味深いのは、初代教会の信者たちが捧げていた祈りの時間です。彼らはキリストの死という実際の出来事に沿って祈っていたのです。

 

主は第三時、つまり午前九時に十字架につけられ(マルコ15:25)、そして、第六時、つまり昼の十二時に、全地が暗くなりました(マルコ15:33)。そして第九時、つまり午後の三時にイエスは叫ばれ、「息を引き取られ」ました(マルコ15:34、37)。

 

初代教会の信者たちは、この事に重要な意味を見い出し、主の死と苦難を覚えるべく、これらの出来事の起こった時刻に合わせ祈りを捧げていたのです。

 

私たちが永遠のいのちを与えしこのキリストの死について黙想し、そこに思いをとどめることは大切です。神の御子がなさったこと全てーー特に御子の十字架上における死ーーには、永遠の豊かさがあります。

 

ヒッポリュトスは「使徒伝承」の中で、次のように言っています。

 

「第六時(昼の十二時)に、キリストは木に磔にされた。だからその時間にあなたも同じように祈りなさい。なぜならキリストが十字架の木に磔にされた時、日は分かたれ、大いなる暗闇が覆ったからである。それゆえ、その時間に、あなたは力強い祈りをすべきである。また第九時(午後三時)にも同様に、熱心な祈りをし、大いに主を賛美すべきである。なぜならその時刻に、キリストは脇腹を刺され、そこから水と血が流れ出、それにより、残りの日が照らされ、それは夕方になっても尚続いたからである。」

 

「その教えを伝えた長老たち」は、実際にこうした祈りの時を実践していたと言われています。

 

主が私たちの咎のために傷つけられたその時間に、神の被造物として私たちが、主の前に静まるーー。なんという荘厳な教えでしょう!永遠において、私たちは、主が払ってくださった偉大な代価ゆえに、とこしえに主に栄光を帰しつつ、主を讃え、賛美し続けるでしょう。

 

願わくば、私たちが地上に生かされているこのわずかな日々の間、そうした祈りと賛美を「今」すでに始めることができますように。アーメン。

 

ー終わりー

 

神の聖なる人々

 

Greg Gordon, God’s Holy People on Display(拙訳)

 

キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ(God's holy people) エペソ1:1

 

使徒パウロは神の民のことを言い表すのに、「聖なる holy」という言葉を用いていますが、これは、私達がこの世から分かたれ(聖別され、set apart)、他の人々とは異なる民とされたということを意味しています。

 

初代教会の信者の中には、これを言い表すべく、アリーナ(大競技場)というシンボリズムを用いた人々もいました。この巨大なコロセウムにおいて、今この地上に生きている私たちは舞台の上に立っているのだと。

 

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私達に対する神の願いは、私達がこの世の人々に対しても、目に見えない御使いたちに対しても、生きた信仰の模範となることです(エペソ3:10)。

 

これは、創造の秩序やかしら(headship)について御使いたちに証しするため姉妹たちが被り物をするという主の掟(1コリント11:10)を通しても暗示されています。

 

クリスチャンとして歩みだして間もない頃のことですが、私はある日、街の通りを歩いていました。

 

なぜだかは分かりませんがその時、私は、敬虔だった自分の祖母が自分のことを「見ている」という非常に明瞭な感覚をもったのです。今でもその時のことをはっきりと覚えています。そしてその感覚は私の心に、主に対する畏敬の念を呼び起こしたのです。

 

もしも過去に生きた聖徒たちが何らかの形で、私達のことを見ることができるのだとしたら、そして私達の信仰の成長を見ることができるのだとしたら、、、私達は今とはずいぶん違った生き方をしているはずではないでしょうか。

 

しかもそれよりさらに確かに言えるのは、御使いたちは、私達のことを確実に見ているということです。

 

あなたは、自分が罪深い選択をするその時、神の聖なる御使いが悲泣しているということを考えたことがあるでしょうか。

 

そして何よりも、全てを見ておられ、全てをご存知であられる神は、私達のすべての行動、選択、あらゆる考え・思いを見知っておられるのです(マタイ12:25)。そうです、神こそ私達の人生および道程を見ておられる紛れもない証人なのです。

 

朝起きて、一日の働きを始める時、あなたは自分が、主に召され、この世から分かたれた聖なる個人であるということを自覚しているでしょうか。私達は神の聖なる神殿であって、もはや自分自身のものではありません(1コリント6:19)。

 

キリストにあって私達は聖く、主のものとして聖別されているのです。これはなんと励ましに満ちたことでしょうか。

 

私達はまた、過去、現在、未来と時空を超え、全ての信者たちと共に、普遍的教会の一員としてそこに属しているのです。今しばらく静まり、こういったことに思いを巡らしてみましょう。

 

そして、野の草のように直にしおれてゆく(1ペテロ1:24)、この世におけるつかの間の人生の歩みの中で、日々どのような選択をしてゆくべきなのかを考えてみようではありませんか。

 

ー終わりー

 

聖体拝領、バプテスマ、ベールについて

 

Greg Gordon, Communion, Baptism and Headcovering (拙訳)

 

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感謝して裂き、そして言われた。「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行ないなさい。」1コリント11:24

 

私たちの主は、次の世代に伝えるべきことを、弟子たちに明確に教え示されました。

 

新契約の中における外的なシンボルや儀式として、私たちは主として三つのものをとり上げることができます。パステスマ、聖体拝領、そして被り物(veil)です。

 

そもそもなぜイエスを信じる人々は、上の三つのことを行なっているのでしょうか。それらが大切だからでしょうか。世的な視点だけでこれについて考えてみるなら、やはり奇妙な感を免れえないでしょう。

 

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ここで一つ助けになるのは、そういった外的なシンボルが「いったい何を表しているのか?」と考えてみることです。

 

例えば、バプテスマ。これは、主の死と自分たちのそれとを同一化させ、それによって我々の罪が洗い流され、新しいいのちに生きるというーー死と復活を表しています。

 

それから聖体拝領。これは私たちの罪を赦し、贖うため十字架上でご自身を犠牲になさった主のみからだと血潮を覚えるためのものです。

 

そして被り物。これは神の秩序に従う教会を表しており、また御使いやもろもろの権勢に対するしるしともなっています。

 

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こういったものは私たちが従順に主に従う時、聖なるシンボルとなります。なぜなら、それらは、偉大な霊的リアリティーおよび真理を示しているからです。

 

私たちはシンプルな心でそれらを実践するのですが、実は、それによって、私たちは、ーーこれまでずっと同じシンボルを用いてきたーー2000年以上に渡る壮大な教会史の中に参入していくのです。なんと喜ばしいことでしょう!

 

このように礼拝していく時、私たちは、雲のように自分たちを取り巻く歴代の証人たちと分かちがたく結びついていくことができます。

 

主が仰せになったことに再度、焦点を合わせていくことで、私たちの集まりは、神ご自身を中心としたものへと変えられていくでしょう。さらに、「初代の信者も同じことを実践していたのだ」ということを知ることは、我々の心に平安をももたらします。

 

文化は刻々と変わっていきます。しかし主の教会は変わりません。

 

それぞれの文脈、国ないしは文化の中で、多少外観に違いはあれども私たちはこういった基本的な伝統および教会のシンボルを保っていくことができるのです。それゆえに、こういったシンボルは偉大な重要性を帯びており、失われつつあるこの世に向かい、次のように語っています。

 

「ここに霊的リアリティーがあります!そしてこれはこの世を超えるものです。それゆえに、私たちはこういった外的なしるしを実践しているのです」と。

 

ー終わりー