巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

砂漠の教父およびキリスト教史の中にみる共同体(by グレッグ・ゴードン)

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聖アントニウス(251-356)出典

 

Greg Gordon, The Desert Fathers and Communities In Church History(拙訳)

  

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。ルカ10:27

 

紀元303年、初代教会に対する、かつてなかったような大迫害が始まりました。「ディオクレティアヌスのキリスト教大迫害 」です。その苦難は、313年になり、コンスタンティヌス帝がローマ帝国においてキリスト教を合法化させる法令を発布したことで、ようやく終わりを告げました。

 

キリスト教修道院運動が起こったのは、実に、教会におけるこの一大転換および苦難の時期でした。

 

聖アントニウスは、都市を離れ、砂漠における信仰生活に入っていった最初の「砂漠の教父」として知られています。

 

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聖アントニウス(出典

 

迫害や苦難の時期には、信仰者としての偉大な生き方や献身が教会内に多くみられました。こういった信者たちにとっては、砂漠での生活というのは、いわば殉教に代るものでした。それは苦しみの道でありましたが、同時にそれはいのちと鍛錬の道でもありました。

 

アレクサンドリアの聖アタナシウスは、「砂漠はいまや町になっている」と記し、次のように言っています。

 

「彼らは力を尽くし、祈ること、詩編を歌うこと、断食すること、貧しい人々に施しをすること、そして、ひたすら神のみに思いと望みを置きつつ、互いの間に愛と調和を保とうとしていた。」

 

現代の現状をかんがみる時、私たちは教会史におけるこの時期からも多くを学ぶことができるように思います。

 

ただ一途に主をお喜ばせし、主の栄光を讃えるという動機以外のすべてを拒絶し、彼らは祈りと礼拝に努めていました。それが砂漠の教父たちの主たる目的だったのです。

 

教会史の中にはこのような信者の共同体ーーより深く主を追い求め、自ら進んでさらなる鍛錬の生活を求める信仰者たちの群れーーが点在しています。

 

15世紀に生まれた「新しい信心(Devotio Moderna)」はそういった信仰コミュニティーの一つであり、トマス・ア・ケンピスもこの運動から大いなる霊的感化を受けた一人です。へりくだり、従順、簡素な生活というのを、こういった共同体は重んじていました。

 

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Devotio Moderna(出典) 

 

キリスト教史の中における信者のコミュニティー。そこは、教会生活が保たれ、すべての信者に対するとりなしの祈りが捧げられ、聖書自体が書写された場所でした。

 

ノアの時代のようにこの世にますます悪が満ちていく中で(マタイ24:37)、神の悲しみもまた増していきます(創6:6)。

 

自分たちのためだけに神から何かを得ようと欲し、自己愛がその焦点となっている(2テモテ3:2)ーー私たちはそのような時代に生きています。だからこそ、神ご自身を、ご自身ゆえに礼拝し、主に仕えていくことが今、大いに求められているのです。

 

聖アントニウスは言いました。

 

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「あなたの目の前に、常に神に対する畏れの心を持ちなさい。あなたに死と命をお与えになるこの方を覚えなさい。この世と、この世にある一切を憎みなさい。現世における生活を否みなさい。そうすれば、あなたは神にあって生きるであろう。飢えや渇きに耐え、目を覚ましていなさい。心の中で泣き、うめき、そして肉体を甘やかさないようにしなさい。そうすれば、自分の魂を保つことができるであろう。」

 

物質に溢れる今日、どうか神が、ーー断食し、祈り、いかなる他の動機も持たず、ただ主ご自身をご自身ゆえにひたすら礼拝し求めていくーーそのような信仰者たちによる運動を起こしてくださいますように。

 

ー終わりー