巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

"Are you saved?"ーーカトリック、プロテスタントそれぞれの視点

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より良いコミュニケーションのために。

 

目次

 

はじめに

 

北米の保守ブラザレン集会の姉妹から、久方ぶりにお便りをいただきました。

 

彼女はこの集会の長老を務めておられる方の奥様(=牧師夫人)であり、先週の日曜日、元カトリック教徒のご夫妻が集会に来られたという分かち合いをしてくださいました。

 

それによると妻さんの方は福音主義をすでに受容しており、それに対し、ご主人はジェンダー問題に関する現教皇体制のリベラル路線に躓いて3年前にカトリック教会を離脱したものの教理的・心理的には今もカトリシズムを信奉しているとのことでした。(妻さんはNIV訳のプロテスタント聖書を持参し、ご主人は同じNIV訳のカトリック聖書を持参していたそうです。)

 

そして二人共、「妥協せず、聖書の教えに忠実なキリスト教共同体」で礼拝し、信仰生活を送りたいと望んでおられるとのことでした。私の友人は「この出来事を通し、カトリック教会の中にも良いクリスチャンがいることが分かりました。」と感想を述べていました。

 

「奥さんの方は救われ(became saved)、、」

 

彼女のお便りの中でふと目に留まったのが「奥さんの方は救われ(became saved)、福音主義教会に通い始めました。」という何気ない一言でした。

 

というのも、私も昨年までは、プロテスタント信者として特に深く考えることなく、「彼・彼女はイエス様を救い主と信じ、救われました(got saved)。」という表現を頻用していたからです。

 

それで今朝、久しぶりに「奥さんの方は救われ、、」というなじみの表現を聞いた時、「ああ、そうかぁ、これってプロテスタントのパラダイム内では完全に理に適っているんだけど、外部の人たちにはさぞかし不可解で分かりにくい概念なんだろうなあ。"Are you saved?"って突然訊かれても、これじゃあ、返答に困るよねぇ。うーん、これには気付けていなかった。」と新鮮な発見をしました。

 

救済論の違い

 

テーラー・マーシャル師がこの講義の中で説明しておられるように、プロテスタントの兄弟姉妹が、(カトリック、正教信者も含め)外部の人々に対し、「Are you saved?(あなたはイエス様の救いを受けましたか?)」と訊く、その背景には、プロテスタントと、カトリックの救済論における違いがあります。救済論というのは、「人がどのように救われるのか」に関する教義のことを指します。

 

一般に、プロテスタント信者が「私は救われた」と言う時、それは過去のある特定の「時」を指している場合が多いと思います。

 

ですから、プロテスタントの集会に行くと、私たちはそこで互いの「救いの証」を聞きます。そこでは「新生体験("born again")」といわれるイエス様との個人的出会いや聖霊の強い臨みの具体的体験が語られたり、あるいは〇〇年の〇月〇日に、〇〇聖会に行って、祭壇の招き(altar call)に応答し、前方に進み出、「罪びとの祈り(Sinner's Prayer)」を牧師と共に唱え、「イエス様を救い主として心に受け入れる祈り」をし、「救いを受けた」経験が語られたりします。

 

カリスマ・ペンテコステ派のセッティングではさらに、救いを受けた徴として、異言を語るようになった経験などが語られる場合が多いようです。

 

ですから、プロテスタントのパースペクティブでいうと、こういう「救いの証」を持っていない人は、「名ばかりのクリスチャン」「ボーン・アゲインしていないクリスチャン」と判断される可能性があります。

 

プロテスタントの A さんとカトリックの B さんの理解の行き違い

 

さて、ここでプロテスタントのAさんとカトリックのBさんの間に理解の行き違いが生じます。

 

プロテスタントのAさんは、「救いの証」と訊かれてぽかんとしているカトリックのBさんを見て、「ああ可哀想に。Bさんはまだ本当の福音を知らず、イエス様に真に出会えていないのだ。救いの恵みに与れていないのだ」と心の中で思います。特に、Bさんにちっとも聖書の知識がなかったり、実生活の中に聖潔の実が生っていないようにみえる場合は尚更です。

 

それでAさんは家に帰り、その晩、心から祈ります。「主よ、どうかBさんが福音の真理を知り、イエス様に個人的に出会うことができるよう、救いの恵みに与ることができるようBさんを助けてください。」

 

〔♪ D〕と〔♪ Dメジャー〕コードの違い

 

マーシャル師が、カトリックの救済論と、プロテスタントの救済論の違いを、ピアノコードの違いに譬え、とても分かりやすく解説しておられましたので、それを皆さんにもお分かち合いしたいと思います。

 

プロテスタントの救済論はピアノ・ノートでいうDです。

 

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そして「救いの証」で語られるのは主としてこのDという一つの音です(<プロテスタント義認論)。つまり、「DはDであり、あなたは救われた(you've got saved)。」ということです。

 

神の主権を強調する改革派・カルヴァン主義伝統の理解ではさらにここで、「Dは Dであり、一度救われたなら、あなたが救いを失うことはない」というonce saved always saved(聖徒の永遠堅持)という救済論が説かれます。*1

 

一方、カトリックの救済論はピアノコードでいうDメジャーです。

 

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Dと F# と A の音が同時にハーモニーとして私たちの耳に入ってきますよね♡。

 

D(義認)I've got saved.

F#(聖化)I am being saved.

A(栄化;至福直観)I will be saved.

 

D メジャー・コードの中に、Dの個別音は当然含まれています。ただ、カトリック救済論は、プロテスタントの単音と違い、三音のハーモニーなので、D音とF#音と A音を、ブチッブチッと互いに分離させたり、切り刻んだりすることはできません。

 

マーシャル師がおっしゃるように、プロテスタント救済論がより静的(static)であるのに対し、カトリック(+正教)救済論はより動的(dynamic)であるということができるかもしれません。*2

 

こういったパラダイムの違いを踏まえると、先程のAさんとBさんのシチュエーションがより良く理解できると思います。つまり、プロテスタントのAさんがカトリックのBさんに"Are you saved?"と訊ねる時、彼女はプロテスタンティズム救済論モデルの中で、通常、Dの部分のみに焦点を置いているわけです。

 

しかしカトリック/正教救済論の中では、そもそもDの部分のみをクローズアップするという発想それ自体がありません。発想がないので当然、それに関した質問("Are you saved?")もありません。

 

しかし、カトリックのBさんが、プロテスタントのAさんとより良くコミュニケーションを取ろうとする場合、彼女はあえてAさんの視点に立ち、次のように説明することができるかもしれません。

 

「はい。私は救いの恵みを受けました("I've got saved.")。そして現在進行形でイエス様との個人的交わりを持っています("I am being saved.")。そして、やがて御国に入り、イエス様の御顔を仰ぐその永遠の朝を待望しています("I will be saved.")。」

 

ー終わりー

*1:聖徒の永遠堅持(せいとのえいえんけんじ、Perseverance of the saints)、とは神に選ばれ、召された選民の救いが永遠に失われずに、一時的に信仰が後退し、弱められても、回復の恵みを与えられるという教理であり、ドルト信仰基準が明らかにしたカルヴァン主義の5特質(TULIP)の一つです。改革派神学では、外見的にクリスチャンのように見え、地上の教会に所属したことがありながら堕落した人は、最初から一般恩寵しか受けておらず、救済的な特別恩寵を受けていなかったとされます。(他方、アルミニウス主義では一度救われた者も堕落する可能性があると考えます。)「一度光を受けて天からの賜物の味を知り」ながら、堕落してしまった人は、救いに選ばれておらず、そもそも新生していなかったと解釈されます。外見上は一時的にクリスチャンのように見えたけれども、実際は新生していなかった人のことをピューリタンは「一時的信者」、「偽信仰告白者」と呼びました。参照

*2:関連記事: