巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ロックンロールな高揚感を媒介にした教派間「一致」の悪魔的欺瞞について

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出典

 

下の三つのビデオには教会ユースの集いの模様が映し出されています。さて、皆さんに質問です。どれがカトリック教会の集いで、どれがプロテスタント教会の集いでしょうか。

 


 

答え*1

 

それから ↓ は、カトリックとプロテスタント合同の「エキュメニカルな」ワーシップ礼拝の様子です。

 


 

こういった礼拝形態が、カトリック・ミサの根本精神から完全に逸脱しているのは勿論のこと*2、これは、16世紀の宗教改革者たちの礼拝論からも恐ろしくかけ離れていると思います*3

 

「毒麦の教会ーーパーパス・ドリブン、"求道者にやさしい"、教会成長&新世界秩序」の論考の中で、アラン・ローバック師は、ロックンロールを教会礼拝に取り入れるというエンターテイメント志向な礼拝革命の思想的基盤として、①20世紀後半にプロテスタント圏に起こった「教会成長運動」、②ピーター・ドラッカーの経営学理論をメガ・チャーチ運営に適用した「求道者にやさしい」教会運動等を挙げておられます。

 

↓ サドルバック教会とロックンロール


 

 「サドルバック教会のリック・ウォーレンは、外的に成功したプロテスタント教会を運営するための、いわゆる『フランチャイズ』システムを作り出し、大々的にそれを促進しています。ビジネスにおいては、顧客が王様です。『求道者にやさしい』教会のフランチャイズ方法論というのは、彼らの宗教的顧客を惹きつけ、コミットした顧客を引き留めるには十分な程度のキリスト教ーーでも難しい諸教理を提示して顧客を不快にさせるようなキリスト教であってはならないーーを提供することです。それゆえ、パーパス・ドリブン系の諸教会が、罪や刑罰の事実を人々に知らせ、人が悔い改めキリストを信じる必要があることをストレートに説くことは稀です。

 また彼らは神学を基盤とするよりも、エンターテイメントをベースとした礼拝サービスを作り出しています。彼らは爆発的に大衆受けする疑似キリスト教商品を考案し、ーー識別力のあるキリスト者を除くーーすべての人の同意を得るには十分な程度の‟キリスト教”を提供しています。」*4

 

それではなぜ20世紀後半にプロテスタント教会圏で発生したCCMロックスタイル礼拝と同じスピリットと教義が現代カトリシズムの内にも見い出されるのでしょう。フランチャイズ型の商業的エヴァンジェリカリズムに「共鳴」できるカトリシズムとは一体、どのような種類のカトリシズムなのでしょうか。

 

この形態を人は、「プロテスタント化されたカトリシズム」と呼ぶべきなのでしょうか。それとも「カトリック的な外観を持つプロテスタンティズム」と呼ぶべきなのでしょうか。

 

「商業的プロテスタンティズム」という同一のテンプレートを有するハイブリッドな混合宗教が「エキュメニカルな一致」という名の下、ロックな高揚感とドラムのビートに合わせ、勢力を拡大しつつあります。さあ、そのような種類の教派間「一致」を現在盛んに促進しているのは一体「誰」なのでしょう。

 

ー終わりー

 

 

↓ 一部の「新ローマ典礼」と、「ビザンティン典礼」(東方正教/東方カトリック)の比較。両者には天と地の開きがあります。

↓ラテン語伝統ミサの魅力について

*1:①カトリックのユース礼拝、②プロテスタントのユース礼拝、③カトリックのユース礼拝

*2:教皇ベネディクト十六世(ヨーゼフ・ラッツィンガー)『典礼の精神』より

ポピュラー音楽からの挑戦

一方において、ポップ音楽がある。これはもちろん、古の意味(populus)においては人々に支持されていない。ポップ音楽というのは大衆現象に標目を絞ったものであり、産業的に作られ、最終的に、陳腐なものへの熱狂/崇拝(cult of the banal)と表現されねばなるまい。

他方、ロック音楽は、本源的で抑えがたい初歩的情念の表現である。ロックの祝祭において、それはカルト的性格ーー一種の礼拝形態ーーを帯び、キリスト教礼拝に真っ向から対立している。 

人々は、群衆の一部になるという経験や、リズム、騒音、特別な照明効果からもたらされる感情的ショックにより、いわゆる‟自己からの解放”を味わおうとしている。しかし、あらゆる自己防衛機能を取っ払うことによって得られる恍惚状態の最中に、参加者たちは、下へと沈んでいく。ーーそう、宇宙の初歩的エネルギーの下に。

礼拝ダンス

ダンスというのは、キリスト教典礼の表現ではない。紀元3世紀頃、あるグノーシス主義/ドケティスト的集団の人々がキリスト教会の典礼の中にダンスを持ち込もうとした。 

こういった人々にとっては、キリストの十字架上での死というのは仮現(appearace)に過ぎなかったのである。ダンスは十字架のリトルジーに取って代わることができるだろう。なぜなら、結局のところ、こういった人々にとり、十字架というのは、仮現的なものであるに過ぎないからだ。 

さまざまな諸宗教におけるカルト的ダンスには多種多様な目的がある。まじないや、模倣呪術、秘儀的恍惚状態ーー。そしてこういった一切のものは、キリスト教典礼における‟まっとうな犠牲”というリトルジーの本質的目的と符合していない。

典礼を「魅力的なもの」にしようと、ダンス劇を導入しようとするのは徹頭徹尾、間違っている。人々はプロ級のダンス・チームを教会に招こうとし、その上演は(プロの視点から言って正当にも)大喝采を受ける結果をもたすかもしれない。

そして典礼の中で(誰か人間による達成により)拍手が沸き起こる時、我々はしかと知らなければならない。ーーその時、リトルジーの本質が完全に消滅し、その場が今や宗教エンターテインメントに置き換わったのだということを。

しかしそういった〔エンターテインメント的〕魅惑は瞬く間に廃れていく。それは、ありとあらゆる宗教的刺激性を組み込んでいくレジャー志向のマーケット市場では勝ち残れない。

私自身も、教会の中に持ち込まれたダンス・パフォーマンスにより、告解の秘跡が置き換わってしまい、〔神に代わり〕人間が称賛と拍手の的になっている場を目撃してきた。これ以上に、真実なる告解から隔絶したものはなにかあるだろうか?

典礼は、それが、己自身ではなく、神を見上げる時にのみ人々を引きつける。ーー主ご自身が介入され、事を為されることを我々の典礼が許す時においてのみ。

そしてその時、なにか真実に特異なことが起こるのだ。そして人々は感じるであろう。ここでは単なるレクリエーション活動以上の何かが起こっていると。教会内に存在するどの典礼にも、ダンスというものは含まれていない。引用元

*3:

*4: