巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

トマス・アクィナスの解釈学とプラトン主義的伝統(by ピーター・クリーフト 、ボストン大学)

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出典

 

目次

 

Christian Platonism - Peter Kreeft (Lecture 4)(抄訳)

 

「聖書」と「自然」ーー二つの書

 

解釈学(hermeneutics)というのは解釈(interpretation)に関する学のことであり、これは二つのことを意味しています。まず一番目に、世界内における実体や出来事を解釈すること。そして二番目に、言葉やテクストーー特に聖なるテクストーーを解釈することです。

 

ボナペントゥラに関し見てきましたように、中世人たちは概して解釈学をテクストだけでなく事物や出来事にも適用させました。なぜなら彼らは世界に存在する事物を、「神によって書かれた‟しるし”(signs)」と見、それらは書物と同様、読み解かれるべく存在している〈自然の書〉なのだと考えていたからです。

 

彼らはほとんど忘れ去られている古代のアートであるsign reading(記号読解)を発達させました。地上にある全てのものは、天にあるなにかの像(image)であり、被造界にみられる全てのものは創造主なる神にある、なにかの反映であると捉えたわけです。「神は二つの書を記した。自然と聖書、この二つである。そして両者共に読み解かれるべく存在している」と。

 

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読むというのは、ただ単に対象物の方を見ること(look at)というよりは、なにかに沿って(look along)見ることを意味しています。そしてそれが私たち人間を動物より高等足らしめています。

 

自然の書の中に存在するしるし(signs)を読み解くことができない人は、譬えて言えば、飼い主が方向を示しているところの「指」をただ見ているだけの愚犬に似ています。その犬はサインを読み取り、指に沿って見、飼い主の精神や意図や意志を理解することができないのです。

 

動物たちは物質(matter)を取り扱うことにかけては非常に秀でていますが、彼らは物質が精神(spirit)を啓示しているという事を理解することはできません。動物たちは精神の次元には存在していません。

 

それ故に神はご自身の精神、イデア、(プラトン的思想である)ロゴスの像となるべく物質をお造りになられ、ロゴスがキリストにおいて人格的に肉となり受肉される以前に、何百という非人格的方法でロゴスを肉とせしめたのです。その意味で、全宇宙は、〈受肉〉のためのアペタイザーと言うことができるかもしれません。

 

こういった考え方は、殉教者ユスティノス、アウグスティヌス、ボナペントゥアの内だけでなく、ーー通常、アリストテレス主義者の枠に分類されているーートマス・アクィナスの内にも見られます。

 

「聖書および自然は、signで溢れている」

 

アクィナスは、アウグスティヌスのプラトン主義的ロゴス解釈を主軸に用いつつ、壮大なるヨハネ伝註解書を書いていますが、ここにおいてアクィナスは、中世における4つの釈義方法論の哲学的土台を説明する際、「聖書および自然は、signで溢れている」という思想を適用させています。

 

つまり、聖書を字義的に、そして象徴的に解釈するというものです。(これはアクィナスに限らず中世釈義において一般的なものでしたが、アクィナスはその中でも最も有名な解説者でした。)それによると、聖書の中の事象や出来事に関する正しい解釈として以下に挙げる可能性があります。

 

ナラティブ・ストーリーライン

こういった記述はまず第一に字義的に歴史的に解釈されなければなりません。それらは実際に起こりました。しかしそれらはまたーーそれ自身を超え指し示しているところのsignとしてーー象徴的にも解釈されなければなりません。それには三つの方法があります。

 

A. 旧約聖書の出来事は、新約におけるそれらのメシア的成就を指し示しています。

(例:モーセはモーセですが、彼はまたキリストの象徴でもあります。またパロは悪魔を象徴し、出エジプトは救済を象徴し、紅海横断は死に対する克服を象徴し、荒野は煉獄を象徴し、約束の地は天国を象徴し、シナイ山で与えられた旧い律法はキリストによって与えられた新しい律法ーー福音ーーを象徴しています。)

 

B. ストーリーの中の人物や出来事は私たち自身および人生に関するなにがしかの諸側面を象徴しています。

(例:ペテロはイエスがキリストであることを告白した後、主を否んだ。/ユダは主を裏切った。/マリアは信仰によって主を身ごもった。)

 

C.出来事はまた、将来的に起こる天における出来事を象徴しています。

(例:イエスは肉体的盲目をお癒しになりましたが、それは天における至福直観〔beatific vision〕における私たちの精神的・霊的盲目の癒しを象徴しています。)

 

アクィナスは「人は言葉でしか書き表すことができないが、神は出来事によっても書き表すことがおできになる。それゆえ、諸出来事を、ーー単なる事物ではなくーー言葉としてsignとして見ることができる。」と言っていますが、ここにも彼の深いプラトン主義的思想をみることができると思います。

 

脱構築主義との対照

 

そしてこれは、最もラディカルな現代哲学である脱構築主義と対照的な関係にあります。脱構築主義は、言葉でさえもsignであることを否定する論点を中心に置いています。それは言葉を事物に還元しており、その事物とは権力の原因であるかもしくは権力の効果である、とされています。

 

アクィナスにより例示されているプラトン主義的伝統はそれとは対極にあります。なぜなら、プラトン主義的伝統は、「事物でさえも、(事物であるだけでなく)それは言葉であり、signsである」と言っているからです。

 

ですから前近代的プラトン主義はあなたを洞窟から連れ出し、「万事は、今、目に見えているもの以上のなにかである」と語るのに対し、ポストモダンの脱構築主義者は、「あなたの洞窟の壁に書かれている手書きの文字でさえも、今目に見えているもの以下のなにかであるに過ぎない」とあなたに語ることでしょう。

 

ですから、少なくとも言葉には意味がある(meaningful)というあなたの前提は、彼らによれば間違いであるということになります。従って、あなたの世界は、あなたが考えているよりも矮小ななにかであるということになるでしょう。

 

さて、リアリティーは洞窟以上のものでしょうか。ただ洞窟そのものに過ぎないのでしょうか。それとも洞窟以下のものでしょうか。

 

アナロギア(類比)

 

アクィナスは、アナロギア(類比*)の教説により、異なった種類のシンボリズムを統合し、且つ、字義的なもの、象徴的なものを統合しました。勿論、シンボルというのは言葉における一種の類比ですが、アクィナスにとって、類比というのはただ単に言葉や言語におけるだけのものではなく、それはまた思想や諸概念におけるものでもあるのです。

 

それはまず第一に「存在における類比」です。リアリティーそのものが類比的です。私たちが「良い」という語で指定しているリアリティーは、例えば、私たちが、「良い」神の言葉/人/イヌ/薬/理論/武器・・と叙述する際、6つの異なる、しかし類比的には互に関連したリアリティーです。

 

良い人というのは優しいペットではなく、良い犬は自由選択をしません。良い薬は人を癒しますが、良い武器は人を殺します。その他すべての事柄は良さ(goodness)、あるいは幾らかの良さを持っていますが、神こそが善(God is goodness)であり、あらゆる善であり、善の形相(イデア)です。ですから良さとか善といったもの自体が類比的なのです。

 

それは数字のように一義的(univocal)ではありません。数字は一つの固定された不変の意味しか持っていません。しかしリアリティーにおけるそれぞれ異なる諸次元において、それらは部分的に同一であり、部分的に異なっています。類比が為すのはそれです。

 

アクィナスにとっては、存在自体も類比的です。なぜなら被造物全体が存在を有しているのに対し、神は存在そのものであられるからです。神の本質は実在することですが、それに対し、被造物はーー彼らの本質に付加されたところのーー実在(existence)を必要としています。

 

それゆえ、馬はリアルですが、ユニコーンはそうではありません。(ユニコーンの本質は馬の本質と同じ位可能であるにも拘らず、です。)本質を実際化・可能化させるのは実在だけです。四角い円は可能ではなく現実的(actual)でもありません。ユニコーンは可能ですが現実的ではありません。馬は可能であり現実的でもあります。

 

神だけが純粋に現実的です。そして可能ではなく必然的です。四角い円は本質も実在も有していません。ユニコーンは本質を有していますが実在を有していません。馬は本質、実在その両方を有しています。なぜなら神はーーそれを創造することによりーーその本質に実在を付与されるからです。

 

最後に、神は、馬の場合と同じように、いかなる付加的・制限的・有限的本質なくしてーー純粋なる実在であられます。神の本質は無限なる実在です。

 

創造(Creation)

 

本質と実在の間のトマス的区別は、プラトンのイデア論への重要な形而上学的付加であり、それは創造(Creation)に関する聖書的啓示より来ています。

 

創造というのは異教徒がそれまで考えたことのない概念でした。それは「唯一神がご自身以外の万物の実在を無から創造された」という生粋のユダヤ思想に由来しています。これはプラトン主義ではありません。

 

なぜならプラトンにとっては、全ての本質は永遠に現実的(actual)であるのに対し、トマスは「神はいくつかの可能な本質のみをーーそれらを創造し、それらに実在を付加することによりーー現実化させることをお選びになった」と考えていたからです。しかし両者共に、あらゆる可能なイデアないし本質はご自身の精神の中に永遠に実在していると捉えています。

 

ですからここでアクィナスはプラトンから差し引いているのではなく、プラトンが本質について語っている内容に、実在の概念を付加しているのです。

 

どの時代においてもプラトンはキリスト教哲学者の第一の友でした。(アクィナスのようにアリストテレスが第二の友になった時であってさえも。)実に、13世紀におけるアリストテレスの再発見は、12世紀のプラトン主義によって備えられていたのです。ーーちょうどアリストテレス自身が針路を保つべくプラトンの広い肩幅を必要としていたように。*1

 

ー終わりー

 

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*1:ちなみに、プラトンという名の意味は「広い肩幅」です。