巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

東方の文脈で「scholastic...」という表現がなされる時、それは具体的に何を意味しているのだろう?【東西キリスト教と理性】

f:id:Kinuko:20190716174413p:plain

 

東方正教のビザンティン学者であるアンドリュー・ラウスが「アクィナスと正教の関係」について書評を書いており、大変興味深く読ませていただきました。

 

www.firstthings.com*1

 

正教の方々と話し合いをしたり、文献を読む中でしばし目につくのが、「トマス・アクィナス」および「スコラ学」に対する否定的評価です。

 

正教ポレミックの四大ターゲットが、①アウグスティヌス、②アンセルムス、③トマス・アクィナス、④十字架のヨハネである、という正教神学者デイビッド・ベントリー・ハート氏の指摘は、(批判内容の真偽は別として)確かに的を射ているのかもしれません。

 

「Western, scholastic...」という表現がなされる時、それはほとんど常に西方教会伝統に対するなにがしかの批判の意味合いが込められています。例えば、ギリシャ正教会のヒエロセオス・ヴラホス府主教は『正教霊性入門(Orthodox Spirituality: A brief introduction)』の第2章で次のように述べておられます。

 

Related image

出典

 

「聖グレゴリオス・パラマスは、バルラアム〔Western scholastic(西洋スコラ学的)神学を正教会に持ち込もうとした人物〕のことを‟神学者”と呼んだ。しかし彼は明確に、知性的神学は神の幻(vision)の経験とは大いに異なるということを強調している*2。西洋神学は東方正教神学とは異なっている。西洋神学は、治療的ではなく、より知性的にして感情的特徴を帯びている。西洋においては、カロリング朝ルネサンス以後、スコラ神学が発達したが、それは正教伝統とは対極にある。

 

 西洋神学が合理的思想を基盤にしているのに対し、正教はへシカズム(静寂主義)的である。スコラ神学は神の啓示を論理的に理解し、哲学的方法論に適合させようとしてきた。そういったアプローチの特徴はアンセルムスの言録〔カンタベリ大司教、1093-1109、ノルマン征服および古い英国正教会の破壊後に就任した大司教の一人〕に表れている。すなわち、『理解すべく我は信ず』。スコラ神学はトマス・アクィナスという人物ーーローマ・カトリック教会の聖人ーーの内にその絶頂点に達した。」*3

 

それで私は思ったのです。「これらの方々が、"scholastic.."と言う時、それは具体的に何を指しているのだろう。この文脈における"scholastic"という形容詞は、Scholasticism(スコラ学)という元々の名詞の指示内容に合致しているのだろうか。」

 

正教の修道士たちと話しても、やはりヴラホス府主教のナラティブが「死守すべき正教の真理」として信奉されていることがよく分かります。*4

 

そこで今度は、カトリック&正教その双方に非常に詳しいマイケル・ロフトン師に質問してみることにしました*5。以下が師からの回答です。

 

 「東方正教テキストの中でスコラ学という語が用いられる時、それが意味しているのは通常、三段論法(syllogisms)に由来する諸教説、ということです。スコラ学者たちは理性および三段論法により聖書および聖伝について私たちが知り得ることを探求し始めました。

 

 ですから、例えば、聖書と聖伝が、『イエスは人の為す全てのことを為すことができる。』と言い、理性が私たちに『人は笑うことができる』と言うのなら、それにより、私たちは『イエスは笑うことがおできになる』ということを判断することができます。これが三段論法です。これは全く妥当であり、これらを否定することは不合理であり、正教の立場がこれを否定するのは良い洞察ではないと思います。私自身も東方正教徒でしたので、その立場からこれを申し上げています。

 

 奇妙にもダマスコの聖ヨアンネス(ダマスクの聖イオアン*6.)はアリストテレス主義者であり、スコラ学者でした。彼はスコラ学の基礎を築いています*7

 

 そしてもちろん、聖ヨアンネスは正教聖人の中でも最も崇敬されている聖人の一人です。ですから正教徒の方々がスコラ学を非難するのは奇妙なことです。それは不合理であり、聖伝に反しています。仮にスコラ学を否定するとしたら、非常にリアルな意味で、あなたは神学に関する真のディスカッションから自らを辞退させていると思います*8。神を知る過程における理性の位置に関し、この前、クレッグ(正教徒)とディベートしました。これを観ていただくと、なぜ理性が必要であるのか実感できると思います。それからピーター・クリーフトとのディスカッションビデオもご参照ください。」

 

ーーーーー

「理性」に関していえば、ロシア正教神学者ゲオルギイ・フロロフスキー(1893-1979)が、「信仰」と「理性」を極度に対立させる当時の純体験主義的風潮の行き過ぎに対し、次のように警告しています。

 

Image result for georges florovsky

Fr. Georges Florovsky(出典

 

「信仰と理性の悲しき対立は最終的解決をもたらさない。人間知性はーーキリスト者の経験の中で信仰に対し啓示されるところのまことの真理に対しーー常におしの盲目であり続けるという非難はそぐわない。」*9

 

また、ウラジーミル・ロースキーの『キリスト教東方の神秘思想』の書評を回顧しつつ、フロロフスキーは次のように述べています。

 

「ロースキーは、神学的知識の関する基本的問題を提起している。神に関する‟知的”知識(つまり、厳密にして厳正な論理的諸概念の中で表現されている知識)は果して可能なのだろうか、と。換言すると、神に関する‟非象徴的”知識は可能なのだろうか、と。それに対するロースキーの答えは、頑として否定的なものである。彼によれば人は、"unknowing"によってのみ神を知るに至る。この回答は正しいのかもしれない。だが、これには注意深い但し書きが必要であるように思われる。。」*10

 

おわりに

 

以前に「用語の『ひとり歩き』に注意したい」という記事を書きましたが、"scholastic"という形容詞の語用や意味に関しても同様の注意と慎重さが必要であるということを思わされます。

 

例えば、19世紀のスラブ愛国主義および正教知識人の神学思想はシェリングをはじめとするドイツ観念論の受容/相剋の歴史を抜きにしては考えられないと言われています。*11

 

その意味で、西方においても東方においてもそこには、"scholastic"なものに対しどのような態度をとるか(対決か受容かもしくは折衷か等)という長く、複雑に入り組んだ神学思想史があるのだと思います。

 

そして東西にまたがるこういった思想のダイナミズムはくっきりはっきりした定規線のような「国境分断線」ではなく、むしろ、曲がりくねった海岸線のように融合と乖離を繰り返しつつ複雑な動力図を生成し、現在に至るまで生成し続けているのではないかと思わされます。

 

ー終わりー

*1:

*2:グレゴリオス・パラマス(グレゴリイ・パラマ)。

Image result for ã°ã¬ã´ãªãªã¹ ãã©ãã¹

イタリア生まれのギリシャ人修道者。カラブリアのバルラアム(1290頃 - 1348年)の唱えた「恩寵は神によって作られた」とする説に対して、被造の恩寵は人間から非被造の神への媒介となりえないと論駁し、恩寵の非被造性を説きました。グレゴリオス(1296頃 - 1359年)は、正教の教義を保持し、人は神をその本質においては知ることが出来ないけれども、その働き(エネルゲイア)において、すなわち神は何をなすかを知ることができる、ゆえに神が自らを人性において表し、このことを人が知りうるのであると説いています。この立論においてグレゴリオスは大きくカッパドキア三教父に依拠しています。グレゴリオスはさらにタボル山におけるキリストの変容に論を及ぼし、ペトロ、ヤコブ、ヨハネが目撃した変容とは、神の創造されざる光の目撃であるとしています。そして確実な霊的教導と、集中した、しかし単に機械的な仕方ではない祈りによってでなければ、この創造されざる光の目的は他の者にはあたえられ得ないとしました。尚、グレゴリオス・パラマスの著作の一部は、『フィロカリア』に収録されています。参照

*3:The Difference Between Orthodox Spirituality and Other Traditions by Metropolitan Hierotheos Vlachos

*4:このサイトでは次のような解説がなされていました。文献資料とも合わせご参照ください。

「スコラ学は西方教会のキリスト教においては大きな位置を占めたが、他方、正教会では17世紀頃に西方教会からスコラ学を含め影響を蒙ったものの[3]、19世紀以降の正教会では東方の伝統に則った見地から批判的に捉えられており[4]、20世紀以降21世紀に入った現在においても、論理と理性に基盤を置く西方の神学は、静寂に基盤を置く東方の神学とは方法が異なると捉えられている[5]。」

[3] 第17世紀(トマス・ホプコ神父著、ゲオルギイ松島雄一神父訳:正教会の歴史より)

[4] 第19世紀(トマス・ホプコ神父著、ゲオルギイ松島雄一神父訳:正教会の歴史より)

[5]The Difference Between Orthodox Spirituality and Other Traditions (府主教 Hierotheos Vlachos).

*5:ロフトン師(ローマ・カトリック/東方正教)は、エリック・イバラ師(ローマ・カトリック)、クレッグ・トリグリア師(東方正教)と三人トリオで質の高いディスカッション・ビデオを作成しており、彼ら三人それぞれの実にユニークな信仰行程を反映するかのように、トピックやゲストもローマ・カトリック、カトリック東方典礼、東方正教、正教西方典礼、オリエンタル正教(シリア正教等)、改革派(ジェームス・ホワイト、カール・トゥルーマン等)、イスラム教、無神論等と多岐に渡っています。

*6:高名なる神学者 ダマスクの聖イオアンの生涯 - 名古屋ハリストス正教会// 教皇ベネディクト十六世の177回目の一般謁見演説 ダマスコスの聖ヨアンネス カトリック中央協議会 

*7:管理人注:Marcus Plested, Orthodox Readings of Aquinas, Oxford University Press, 2012を参照。

*8:関連資料

*9:"Le corps du Christ vivant," 47. (Matthew Baker, «‘Theology reasons’ – in History: Neo-Patristic Synthesis and the Renewal of Theological Rationality» Θεολογία, 81: 4 (2010), 81-118).

*10:Florovsky, Review of Mystical Theology of the Eastern Church, in The Journal of Religion, vol.38, no.3, July 1958, 207-8. *マシュー・ベーカー神父註:しかしながらロースキーがその後、こういった一面的見方を改め始めたことが彼の後の思想の中に表れています。参:Lossky Vladimir, Orthodox Theology (St. Vladimir's Seminary Press, 1989), 15-23, at 38.

*11:Andrew Louth, Modern Orthodox Thinkers: From the Philokalia to the Present, 2015 参照。