巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「アンダーソン型」病理の分析と治癒

「アンダーソン型」病理を対岸の火事視していいのだろうか?(イラスト

 

独立バプテスト教会のスティーブン・アンダーソン牧師の教説をマイケル・ロフトン師が分析しています。

 

 

上のビデオの中のクリップでは、アンダーソン牧師はヨハネの福音書14章26節「しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」の聖句を基に、聴衆に向かい、

 

「聖霊が教師として教えてくださるので、註解書とかスタディー・バイブルの類は必要ない。あなたがたはそのまま聖書だけを読むべき」と指導しています。

 

さらに、「あなたと聖書と聖霊ーー。それで十分である。それ以外のいかなる人的媒介物もあなたは必要としていない」と力説しています。

 

それに対し、ロフトン師は、「それなら、なぜ、アンダーソン師は今、会衆に向かい、説教しているのでしょう?何の必要性を感じ、彼は人々に教えを説いているのでしょう?」と至極まっとうな指摘をしています。

 

アンダーソン牧師は、「あなた」と「聖書」の間に、人的媒介としての解釈者は一切必要ない、あなたがた一人一人には教師である聖霊が内住しているのだから、と言っているのですが、驚くべきことに、その「人的媒介としての解釈者」の中に彼自身は含まれていないのです!

 

また下のビデオの中で、アンダーソン牧師は、諸教派の歴史を概説しています。

 


それによると、彼の属する「バプテスト派」だけは、一連の教派系図の「枠外」に位置している特別な存在なのだという旨の解説がなされています。

 

つまり、彼の属する独立バプテスト派というグループは、(AD33年のイエスの昇天以来、「真の教会」として不可視的にどこかに潜在しており?!)17世紀頃、イングランドに姿を現し、今日に至っている、という自派認識ということになるかと思います。

 

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上の二つのビデオを観て私が思ったのは、「アンダーソン型」認識は、果たして ‟原理主義者” だけの特殊疾患なのだろうか、という問いでした。

 

ドストエフスキーの小説中の登場人物がそれぞれ極端な描かれ方をしているようにみえて実は、人間本性に潜む普遍的諸特徴を其々見事に捉えているように、「アンダーソン型」認識もまた、人の信心という普遍的営為に潜伏し得る〈病理〉の一種なのではないかと思ったのです。

 

「原理主義(fundamentalism)というのは、私たちの最も深遠なる諸確信であってさえも言語伝統や歴史を通しそれらは仲介(mediated)されているという事実を認めることに対する不能性のことを意味している。そしてその意味において、宗教人だけでなく、科学者や無神論者たちもこのカテゴリーにはまり込んでしまう可能性を持っている。」とトリニティー・ウェスタン大学のジェン・ズィンマーマン教授は指摘しています。 *1

 

「自分たちは〇〇のような無知蒙昧で狂信的な‟原理主義”グループとは質も格も違う」ということを内外にアピールすべく、ことさらに‟原理主義”を福音主義の枠外に置こうとする言説をよく目にします。

 

またリベラルなカトリックや正教の一角がしばし、伝統派諸グループを‟原理主義的”な異物として軽蔑視している現象にも気づきました。

 

あるいは、かつて「アンダーソン型」の環境で生育しその後離脱した人が、反動として「アンダーソン的」なあらゆるのものを「アンダーソン的」激烈さで憎み、それを高踏的に嘲笑・愚弄することによって自らの過去を克服しようとしている痛ましい姿も目の当たりにしてきました。

 

しかし「アンダーソン的」病理からの治癒の一歩は、それが他ならぬ自分の内に潜在し得る、という認識なくしては不可能なのではないかと思われます。

 

宗教的次元であれ、世俗的次元であれ、科学的次元であれ、およそ有限なる人間たちが関わる場において「アンダーソン的」認識病理は、人間のさまざまな罪や弱さを引き金に、深層部分から表面へと顕在化してくる可能性を秘めていると思います。つまりそれは、程度の差こそあれ、いつでも誰にでも起こり得る病理だということです。

 

アンダーソン牧師の認識問題は、人間のもつ罪性や有限性からくる盲目、誤解、誤信がいかなるものであるかを私たちに教える、生ける教訓書だと思います。

 

ー終わりー