巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

友愛と孤高

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出典

 

昨晩、仲の良い友人からメッセージが入りました。彼女は今、数週間にわたって、ある修道院でのリトリートに参加しており、数年間の探求と祈りの末、「私、ついにローマ・カトリックに改宗しつつあると思う。それは確実に起こると思う。」という厳かな決断の意をシェアしてくれました。

  

先祖代々プロテスタントであり、親戚の中に牧師や宣教師も多くいる彼女にとって、この決断は並々ならぬ勇気と信仰を必要とするものであるに違いありません。しかし彼女は神の前に一人立ちました。周囲の状況がどうであれ、そしてこの先どうなろうとも、彼女は自分の辿り着いた信仰の結論に忠実であらんとしているのです。

 

そこにはーーたとい、家族や親しい友人であってさえも入ることのできないーー神と一人の魂との厳かにして聖なる領域がありました。人は公同性をもった存在であると同時に、神の中で一人誕生し、一人歩み、そして一人死んでゆく孤高の存在であることを改めて思わされました。

 

それが意味するのは、たといどんなに親密なる友誼に結ばれた信仰の姉妹同士であっても、彼女の決断をもって私の決断とすることはできず、逆もまた然りであるという峻厳なる事実でした。

 

「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。(=フィアット)」(ルカ1:38)と答えた乙女マリアは神の前に一人立っていました。この信仰の応答は彼女以外の誰による決断でもありませんでした。

 

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(ルカ9:23)と仰せられたイエスの命(めい)には一切の慣れ合いや群れの中に埋没せんとする人間のごまかしを斥ける厳しさがあると思います。

 

人には一人一人負うべき自分の十字架があり、各々に与えられた具体的状況の中で心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして神を愛し、その御心を求めていく孤高な使命が課せられていると思います。どうか私たち一人一人に恵みが注がれますように。