巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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性のアナーキー(Sexual Anarchy )ーー現在カリフォルニア州で起こっていること(by ジョサイア・トレンハム神父)【汎セクシュアリズムとジェンダー全体主義】

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カリフォルニア州サンディエゴ、LGBTプライド、2019年(出典

 

「『寛容』の新しい定義は、一貫性がないだけにとどまらず、それは矛盾をきたしており、実際、モダニズムの下に存在していた従来の『寛容』よりも、むしろよりいっそう寛容精神を欠くものであるということが実証されている。なぜなら、新しい『寛容』は、それが最も同意したくない、まさにその点において、他のあらゆる論敵を『非寛容者』ないしは『偏狭者』として退けなければならず、従って、それは事実上の『全体主義 totalitarianism』と化していくのである。」

ーーD・A・カーソン、「寛容」という名の「非寛容」

 

目次

 

性のアナーキー(by ジョサイア・トレンハム神父)

 

Fr. Josiah Trenham, Sexual Anarchy, May 17, 2019(拙訳)

 

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2019年5月現在、私の住むカリフォルニア州で進行中の論争について皆さんにお話しなくてはなりません。昨日、私は地元メディアの取材を受け、性教育に関するカリフォルニア州の新しいガイドライン(Health Education Curriculum Framework)についての意見を訊かれました。

 

このガイドラインは州の教育委員会が作成したものであり、規定事項の大半は、州の各学区に絶対遵守が要求されている義務的なものです。カリフォルニア州の教育に関わる指導者たちの中に、伝統や宗教、倫理的規範といったものに対する敬意をもった人々が少ないというのは決して驚くに値しません。しかしながら今回の新カリキュラムは残忍極まりないものであり、その結果、多くの人々が抗議の声を上げ始めています。

 

私はこの新カリキュラムを購入し、記載内容を詳しく検証しました。このカリキュラムの根本的主旨は、「二元(双対)的観念に挑戦する("challenge binary concepts")」ことであると書かれてあります。

 

「二元的観念に挑戦する」とはどういう事でしょうか。これはつまり、男性もしくは女性として人類が存在しているという考えは偽りである、ということを子ども達に教えることを州教育委員会が決定した、ということです。「男性」と「女性」という二元的観念は今後破棄されなければならないのです。

 

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MHS Students Petition The College Board To Add Non-Binary Option to Identification Forms | Baristanet

 

しかし委員会が推進しようとしているのはこれだけにとどまりません。彼らは、宗教的倫理や社会的タブーの一切を取り除くべく、以下に挙げる事項においてこの新規定を促進し、合法化・標準化させようとしています。

 

ーー性別違和症候群(gender dysphoria)はノーマルであり、もはや違和症でさえない。自分が男性か女性か分からないということは治療を必要とする事項ではなく、むしろ称賛されるべきことであり、「性別が分からない」という状態がアイデンティティーそのものであり得る、という捉え方です。

 

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出典

 

ーートランスジェンダー主義、服装倒錯(transvestism)、ホモセクシュアリティー、夢精。多くの高校生がポルノ中毒を患っていますが、それと夢精を関連づけてはならないとされています。また新カリキュラムには自慰行為のハウツーが細かく書かれていて、どのようにして自分を楽しませるのかについての導針がなされています。男同士の性行為についてのガイド付き説明書きも記載され、それがいかにノーマルな行為であるかということが解説されてあります。

 

ーー避妊、中絶、マゾキズム。。。

 

こういった一連の事項が、基本的にして合法的な性的オプションであることが、全生徒に向け発布され、この教育パッケージは幼稚園においてすでに開始されることになります。(‟年齢に見合った適切な方法で”という注意書きがあります。)

 

しかし考えてみてください。5才の幼稚園の男の子に対し、「君は、自分が男の子なのか女の子なのかを本当には知らないのだよ。だからね、君は自分が男の子なのか女の子なのかを自分で決めなくてはいけない」と教えることが、本当に‟年齢に見合った適切な方法”なのでしょうか。

 

カリフォルニア州、そしてその他各地で現在、推進されているのは、ラディカルな性のアナーキー(radical sexual anarchy)であり、アグレッシブな教義植え付けです。

 

また、免除の可能性自体も縮小されているので、このカリキュラムが可決し、施行される際には、両親がわが子を、LGBTQ教育教材から免除してもらうことも今後できなくなっていくだろうということです。あなたは選択の余地なく、自分の子供を、LGBTQのアジェンダに沿った教化指導に委ねなければなりません。

 

しかしこのアジェンダが意味しているのは、基本的生物学の拒絶であり、創造(Creation)の拒絶であり、「男性、女性という存在は、ただ単に社会的に構築された所産に過ぎず、それは流動的である」という思想を受容することであり、「医者も親も、生まれてきた胎児が男の子か女の子かということに関しては推測の域を出ていない」という主張を受容することです。教育関係者たちの狂気と言ってよいかと思います。

 

私は「二元的観念に挑戦する」というフレーズの類語は何だろうと考えてみました。

ー神に挑戦する。

ー創造のみわざに挑戦する。

ー自然(φύσις)に挑戦する。

ー祖父母や先人たちに挑戦する。

ー自分の良心に挑戦する。

ーあなたの牧師や司祭に挑戦する。

ーあなたの教会に挑戦する。

ー宗教に挑戦する。

ー人類の集合的智慧に挑戦する。

ー歴史に挑戦する。

 

この新カリキュラムは、深刻にグロテスクで、ポルノ的であるだけに限りません。これは若い魂たちに残酷な形で害を加えるものであると同時に、甚だしい偽善をも内包しています。

 

このカリキュラムは教育委員会によって提示され、「二元的観念」に挑戦がなされているわけですが、その一方、彼らは、「私たちは何も推奨していない("not endorsing anything")」と言っているのです。何も推奨していない?!偽善、倫理的放埓、倫理的不品行の促進、、、これは本当にひどすぎます。

 

市民の税金および法の効力を用い、彼らは、性の革命を執行すべく、強制的にLGBTQアジェンダを通過させようとしています。そしてこういった思想教育により、若者たちが自分の家族および宗教伝統を悪者扱いするように誘導しているのです。州内の生徒たちの内、約75%が何らかの宗教的背景を持った家庭で育っています。彼ら教育指導者たちのやり方は実に非人道的です。

 

教材の中で、子供たちは、「何か問題があったら ‟信頼できる大人” に相談するよう」アドバイスされています。例えば、先生、カウンセラー、医者、看護士、薬剤師、、など。でも ‟信頼できる大人” として彼らが決して記述しようとしない一つの職種があります。そう、聖職者(pastor)です。牧師、司祭、ラビ、イマームなどは教材の中に影も形もありません。おそらく私たち牧会者は、子供たちの人生にとってたいした役割を持っていないのでしょう。。

 

これが「何も推奨していない」教材でしょうか。こういったグロテスクな倒錯の正常化を促進していることは、果たして「何も推奨していない」ことなのでしょうか。

 

生徒の父兄たち、現在も公立学校で奮闘している偉大な教師の方々。公立教育を抜本的に変革する時が来ています。しかし努力しても選択肢が得られない状況が生じた場合、私たちは潔くそうした場から身を斥け、今後、私立教育、宗教教育、教会教育、ホームスクーリング、もしくはそれらの組み合わせ等を検討すべきでしょう。宗教や伝統、バイオロジーに対し何ら尊敬を払わない教育者の元に子どもたちを送り出すことはもうやめなければなりません。

 

皆さん、私たちは狂った時代を生きています。狂気の時代です。そして神の民は、恐ろしく倒錯した教説に参与せず、こういったものから自らを堅く引き離す覚悟および決意をしなければなりません。

 

ー終わりー

 

*ジョサイア・トレンハム神父は、LGBTQアジェンダを巡る問題に関し、現在公の場でもっとも明瞭なる「声」を上げている、勇気ある正教司祭の一人です。*1

 

関連記事


【補足】ファシズムに関する公的マルクス主義解釈の問題性について(by G・エドワード・ヴェイス)

 

「時代の教理」ファシスト的伝統(by G・エドワード・ヴェイス他) 

 

ファシズム認識における問題の一つは、それが「保守的なものである」という前提(思い込み)に在ります。シュターンヘルは、いかにイデオロギー研究がこれまで「ファシズムに関する公的マルクス主義解釈」によって曖昧にされ且つ覆い隠されてきたのかを指摘しています。*2

 

マルクス主義はファシズムを自らの対極に位置づけています。つまりマルクス主義が漸進的なら、ファシズムは保守的であり、マルクス主義が左翼なら、ファシズムは右翼であり、マルクス主義がプロレタリアートを擁護しているのなら、ファシズムはブルジョアジーを擁護し、マルクス主義が社会主義支持なら、ファシズムは資本主義支持、、といった具合です。

 

マルクス主義学界の影響により、ファシズムに関する私たちの理解はこれまで深刻に歪曲されてきました。共産主義とファシズムは、社会主義のライバル銘柄です。マルキスト社会主義が国際的階級闘争に基づいているのに対し、ファシスト国家社会主義は、国家統一を中心にした社会主義を促進しています。そして共産主義者もファシストも両者共に、ブルジョワジーに敵対し、両者共に保守層を攻撃しました。

 

それらは両者共に大衆運動であり、労働者たちだけでなく、インテリ知識人層、学生、芸術家たちに特別のアピールをしました。共産主義者もファシストも共に、強固な中央集権化した政府を好み、自由経済および個の自由に関する理想を拒絶しました。

 

ファシストは自らのことを右翼とも左翼ともみなしていませんでした。彼らは自分たちが、両極の最良部分を綜合した、第三翼を構成していると信じていたのです。*3

 

たしかにマルクス主義とファシズムの間には重要な相違点があり、また両者の間には苦いイデオロギー的憎悪・対立があります。しかし互いに対する反目によって、革命的社会主義イデオロギーとしての両者の親近性の事実に、私たちの目が覆われるようなことがあってはなりません。

 

また、「右翼」もしくは「左翼」といった修辞表現、あるいは「反動」「ラディカル」といった人工的構成概念によって、政治的・社会的立場全域に浸透している一つの思想方式の存在がぼかされるようなことがあってもなりません。

 

二つの革命イデオロギーを「相反する両極」と描き出す左翼/右翼のメタファーは、深刻に人を誤らせるものです。ジャロスラヴ・クレジュキーは、左翼 vs 右翼という「一直線上の形象("unilinear imagery")」の不十分性を指摘しています。*4

 

このメタファーは、元々、革命後のフランス議会の議席配置に由来しています。政治的に言って、右側に座っていた議員たちは絶対君主制を支持していました。

 

経済的に言えば、彼らは政府専売および統制経済を支持していました。また文化的には、彼らは人民に対する専制的支配を支持していました。それに対し、左側に座っていた議員たちは、民主主義、自由経済および個人の自由を支持していたのです。*5

 

こういった空間的メタファーは、啓蒙期のデカルト幾何学*6や18世紀の政治的選択にはよく調和するでしょうが、20世紀以降の政治分析のモデルとしてはもはや正常に機能し得なくなっています。

 

元来のモデルで言うなら、より少ない政府干渉を望み、自由経済市場に信頼を置いているアメリカの保守派は、「左翼」ということになります。そして政府主導の経済をより望むリベラル派は「右翼」となるでしょう。*7

 

ですから「リベラル」「保守」という用語それ自体は、相対的用語なのです。ーーそれは人が何を保持しようとしているかによって変わってきます。(自由経済市場および政府統制に対する抵抗を展開した)19世紀における「リベラル」は、20世紀の「保守」です。

 

そしてこれを社会主義のケースで考えてみますと、クレジュキーが指摘しているように、左翼および右翼の領域は意味のないものになります。マルクス主義諸国家は、統制経済および、人民に対する厳格な統制を伴う強固な、権威主義的中央政権を実施しています。ですから本来なら、彼らはフランス国民議会における「右翼」側の席に着かなければなりません。しかしながら、マルクス主義者は、革命主義者であり、それゆえ明確に反保守です。

 

他方、ファシスト社会主義はどうかと言いますと、マルクス主義とのさまざまな相違点を持ち、文化的・知的にラディカルでありつつも、統制経済、強固な中央政権、人民に対する厳格な統制を推進しているという点でマルクス主義に類似しています。「両者の間に存在する多くの類似点にもかかわらず、共産主義者たちは今に至るまで『極左』、そしてナチスは『極右』と見なされ続けているのです。」*8

 

その結果、自分たちのことを「政治的公正さにのっとった左翼」と考えている人々は、「右派」保守層のことをファシスト呼ばわりして彼らを非難していますが、その実、自分たち自身のファシスト傾向には全く盲目なのです。*9

 

ー終わりー

 

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*1: 

*2:Sternhell, p. 316.

*3:Sternhell, pp. 353–354.

*4:Jaroslav Krejci, “Introduction: Concepts of Right and Left,” in Neo-Fascism in Europe, ed. Luciano Cheles, et al. (London: Longman, 1991), p. 7. 

*5:Krejci, pp. 1–2.

*6:Krejci, pp. 1–2.

*7:アメリカ保守派が伝統的倫理観の必要性を強調し、制度的変化に対し懐疑的であるなら、彼らは一応「右翼」という位置づけになります。一方、リベラル派は伝統的価値観よりも個人の自由の方を強調する傾向があり、そのため彼らは「左翼」という位置づけになるのでしょう。ここでの論点はどこに米国リベラル派および保守派を位置づけるかにあるのではなくーー(こういった用語自体おそらく不適切なメタファーであるかもしれません。)私の論点はむしろ、こういった隠喩的モデルにより各立場を分類するという事自体が、過度の単純化および誤解につながるのではないかという懸念です。

*8:Krejci, p. 6.

*9:訳注: