巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのだろう?ーーデイブ・アームストロング師とテーラー・マーシャル師の論争を概観して

 f:id:Kinuko:20190620003357p:plain

目次

 

デイブ・アームストロング師とテーラー・マーシャル師の意見の対立

 

約1カ月前に、カトリック弁証家であるテーラー・マーシャル師(元聖公会司祭)が、『Infiltration: The Plot to Destroy the Church from Within(潜入:内部から教会を破壊しようとする企み)』という本を出版しました。(序文は、アタナシウス・シュナイダー司教が執筆。)

 

そして本書の内容に対し、同じカトリック弁証家であるデイブ・アームストロング師が激しく反論しています。*1*2

 

 

アームストロング師の反論のポイントは、「テーラー、あなたは10年前、私と同じ弁証的立場に立っていた。しかしその後、あなたは次第に教皇を含めた教会権威に対し批判的になっていき、その結果、アングリカン主義的教会論に再びUターンしつつある。あなたは教会法上、一応カトリック教徒ではあるが、あなたは真正なるカトリック教徒のようには思考していない。」というものです。

 

ここでアームストロング師のいう「真正なるカトリック教徒」というのはどういう人々のことを言うのかというと、信仰をもって教導権および教皇の教説の正しさ*3を信じ、「ハデスの門も打ち勝てない」教会の不可崩壊性(indefectibility)を信じる人々です。また、第二バチカン公会議は神の御心のうちに開催された会議であり、過去の公会議との完全なる連続性の内にあり、信頼に値するものであると信じる人々です。

 

調和のない二つの異なる声

 

アームストロング師の主張と、マーシャル師の主張は、私の中に存在している二つの異なる声をそのまま代弁しているかのようでした。前者は、主として私の論理や弁証部分に強く訴え、後者は、私の実感や心に強く訴えてくるのです。

 

そしてかつての友であったアームストロング師とマーシャル師が現在激しく対立しているように、私の「頭」と「実感」も乖離し、互いの間を結ぶふさわしい連絡通路がみつからない状態にあります。

 

頭の部分に関していえば、私は、Called to Communionのブライアン・クロス教授が、教皇ベネディクト十六世時代に書いた弁証諸論文から大きな影響を受けました。*4

 

しかし残念なことに、クロス教授は教皇フランシスコ時代になり、次第に公での弁証活動の場から遠ざかるようになり、現在、主として沈黙を保っておられます。私としては、今こそ、彼の強靭なるカトリック理論(特に「教導権」や「解釈的権威の所在」に関する彼の弁証)が、教会の現実にどのように適用され、現状をどのように解釈するのが妥当であるのかを彼に示していただきたかったです。

 

私の推測ですが、純粋に理論的弁証という見地でいえば、おそらく、クロス教授は、マーシャル師よりも、アームストロング師の立場を支持なさるのではないかと思います。「でも、、彼の中で、理論と現実との間の乖離・相剋はないのかなあ?」そんなことを考えています。

 

また、アームストロング師やマーク・シェア師の反論文を読んで、私は、B神父様の立っておられる立場や見地*が以前よりもずっと理解できるようになりました。

 

B神父様は、私が「マキャリック」「ビガーノ大司教の証言」「中国・バチカン暫定合意」というキーワードを出しただけで、(私に「あなたはそれらの情報を具体的にどこのリソース源から取得しているのですか?」と訊ねることは一切されず)、それらが「教会の敵共によって作られた」「虚偽リソース源」であると断定されました。

 

そのリアクションもよくよく考えてみますと、論理的・弁証的見地からは確かに筋が通っているとは思うのです。教皇無謬説や教導権の真が一貫性をもって証明されるためには、確かにアームストロング師やB神父様のように教皇フランシスコの教説の正しさをどこまでも信じ、それを強く擁護することが理論上、正道なのかもしれません。

 

そしてその見地からいうと、プロテストするアタナシウス・シュナイダー司教やビガーノ大司教やマーシャル師等は、神が、教導権を通し、教皇を通し、教会を正しく導かれるという大原則に(やや or かなり)違反している、と捉えられてもある意味仕方がないのかもしれません。

 

忘れられない一言

 

こういう「頭」と「心」の乖離をどうしたらいいのだろうと悩み、私は、キリスト教界のフーテンの寅さん的異色の哲学者キメル神父*に相談してみることにしました。彼は慈愛と謙遜にあふれた正直な分かち合いをしてくださり、その中で特に忘れられない一言を言ってくださったのです。

 

「〔教皇無謬説にかかわる事項の煩雑さに関して述べた後〕。それらは弁証のためには確かに重要性を持っているのです。ですが、私は、あなたが、ご自分の信仰人生を、弁証モード(apologetic mode)で過ごすことのないよう願っています。」

 

過去に徹底的に「弁証モード」であることにコミットしてきた彼だからこそ、その助言には長年の経験から生み出された先人の智慧と慰めが詰め込まれていました。なにか言葉には表現できない深い安堵感が私の「頭」と「心」、その両方に沁みわたっていきました。

 

とにかくいろいろな事に不慣れで、まっすぐに歩もうとしても、そして人に迷惑をかけないようにしても、失敗やへまばかりしています。鳥瞰図がまだ把握できていないので、各セクターにどういうタブー事項があって、どういう事を言ったらいけないのかとか、そういう事も分からないので、これまた意図せず、地雷を踏んでしまいます。

 

日々、成長してゆくことができたらと願います。そして、神の御恩寵の道を辿って行く中で、やがて、「頭」と「心」が調和し、やすらぐことのできる霊のホームに行き着くことができたらと願ってやみません。

 

ー終わりー

*1:それから、下は本書に対するマーク・シェア師の反論

ジェフ・ミラス師の反論

*2:昨日までデイブ・アームストロング師の批評レビューはアマゾンに載っていたのですが、なぜか今日、消えていました。

*3:

*4:日本語記事1記事2記事3記事4記事5記事6記事7記事8記事9記事10記事11記事12記事13記事14記事15記事16記事17記事18記事19