巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

愛ゆえに、愛しているがゆえに。

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「あら、ここはどこかしら?」

気がつくと、巡礼者は見知らぬ森の中に入り込んでいました。。。

 

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福音主義の友人からお便りが届きました。彼女は私が教派問題で悩んでいることを知っており、それを深く理解してくれた上で、しかしなぜ彼女の中ではすでに「カトリック問題は解決済みであるのか」について詳しく書かれてありました。そして探求の末、いずれ私もカトリック問題に関し、‟クリアーな回答” が与えられ、平安が与えられるようお祈りしますと書き添えてありました。

 

また、正教の修道士の方は、現在の私を見て、「カトリシズムの罠に陥り、にっちもさっちもいかず、身動きの取れない状態にある」と表現されました。そしてこの方も私が迷いの状態から解放され、神よりの‟クリアーな回答”と導きが与えられるようお祈りしていますとおっしゃいました。

 

カトリシズムを経由せず、福音主義から直接、東方正教に改宗した方々もまた、私とは違って、カトリック問題に関し、比較的淡白で割り切った態度を取っておられるようにお見受けします。

 

それで私は思いました。自分はやっかいな森に迷い込んでしまったのかな。そして本来、好きになる必要はなく、好きになるべきでもなく、好きになってはいけないものを私は愛し始めたのかしら。そしてこの愛に捕われてしまった私は不幸なのかしらと。

 

その時、ふと、テニソンの詩句、「一度も愛したことがないよりは、愛して失った方がどれほど良いだろう。"'Tis better to have loved and lost than never to have loved at all."」を思い出しました。

 

現在、最大の危機にあるといわれているカトリック教会に対する、不思議で超自然的な愛ゆえに、私は後ろに戻れず、さりとてあっさり東にも向かえず、文字通り、にっちもさっちもいかない窮地に追い込まれ、ただもう苦しみあがくしかないという状態に置かれています。

 

でも、結末がどうであれ、テニソンが美しく表現しているように、一度も愛したことがないよりは、愛した方が最終的には幸せなのかもしれないと思いました。憎しみではなく、愛ゆえに、愛しているがゆえに、教会問題で窮地に陥るのはそれはそれでよいのかもしれないと。

 

そしていつの日か自分にも何らかの形で ‟クリアーな回答” と弁証的導きが与えられたとしても、愛することにおいては、どこまでも不器用で、そして、一途でありたいです。

 

ー終わりー