巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

時間と創造(by ニコライ・ベルジャーエフ)

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出典

 

ベルジャーエフ(氷上英廣訳)『孤独と愛と社会』(白水社)p.179-194一部抜粋

 

時間の問題は、人間実存の根本問題である。人間実存の運命は、時間の中に具体化し、時間の刻印を帯びる。時間が実存の諸変化を包括し決定する枠だとみる素朴実在論の時間理解はあやまりである。本当は、変化は時間の所産でなくて、時間が変化の所産なのである。

 

能動性があり、創造があり、非存在(nichtsein)から存在(sein)への移りゆきがあるゆえに、時間はあるのである。しかしこの能動性、この創造は分裂的であって、完全的でなく、永遠に住していない。時間は諸実在や本質や実存が変化することによって生み出されるのであって、その逆ではない。それゆえに時間は克服され超えられるのである。

 

われわれの世界の堕ちた時間は、実存の深所で生ずる頽落の所産である。それは客体化の所産である。いっさいが客体的世界となった不完全な、決定論的な相を帯びた世界の所産である。

 

ハイデッガーの哲学は、究極において、「現存在」の哲学であって、「実存」の哲学ではない。それは懸念の哲学であって、創造の哲学ではない。そのためにハイデッガーには、たんに時間の一方の相貌しか開示されないのである。われわれの未来への関係は、懸念と不安によって決定されるばかりではなく、創造と希望によっても決定される。

 

ここに時間の二つの相貌、その二重性がある。時間には懸念とともに創造が結びつく。ベルクソンもハイデッガーもこの時間の二重性を十分に重要視していない。この二重性は、人間本性の静的相貌および動的相貌のいずれをも決定的なものとして選ぶことができないということに基づいている。

 

前者を選べば、不断の更新、たえず自己を新たにする創造を否定することになる。後者を選べば、変化を貫いての人間本性の不易な恒常性を否定することになる。人格の構造そのものに、こうした二重性が変化するものと変化せざるものの結合として存在しているのである。

 

時間は二つの種類の変化を含む。生の高昇による変化と、死による変化である。われわれが未来と呼ぶ部分においては、時間は、不安と希望、恐怖と歓喜、懸念と解放である。時間は逆説であって、われわれはその二元性においてこれを理解しなければならぬ。

 

彼らは、時間は非実在であり、幻覚であり、空しきもの(vanitas)であり、永遠からの脱落であるとする。これはインド哲学、パルメニデス、プラトニズム、またエックハルトの見解である。

 

これに対して、時間は存在論的意義を持ち、時間によって「意味」が露呈されるとする、ーーこれはキリスト教の見解であり、キリスト教はそれによって歴史のダイナミズムを基礎づける。

 

一方は変化を空しい幻覚と見、変化しない不動のもののみを存在論的に実在だと見る。他方は、変化そのものを実在と見、創造的能動性によって、新しき獲得が生じ、存在の意味が増すと考える。人間実存の真の哲学は、第二の立場によってのみ築かれるのである。

 

アウグスティヌスの『告白』は、時間についてのすぐれた思想を含んでいる。時間がいかに逆説的で、虚妄的であるかを、アウグスティヌスは痛切に理解していた。彼によれば、時間は過去と現在と未来にわかれる。しかし過去はもはや存在しない。未来はいまだ存在しない。ところで現在はたえず過去と未来に崩れ落ちて、これを捉えることができない。

 

アウグスティヌスは三つの時間があるという結論に到達した。過去の事物の現在、未来の事物の現在である。時間はいわば割れ落ちた永遠であって、その割れ落ちた部分のいずれによっても永遠を捉えることができない。過去も現在も未来も、永遠を捉えることができない。人間運命はこの割れ落ちた永遠の中に、このおそるべき時間の実在性の中にあって、同時に過去・現在・未来の幻影の中に現成する。それゆえ人間運命はかくも無常なのである。

 

ベルクソンは時間と持続(ドゥレ)を区別する。持続において真の実存が開示されるものと、かれは見る。ベルクソンは世界の二元性はきわめてよく理解している。

 

私のいわゆる「客体化された世界」ーーすなわち、堕ちた実存の世界ーーは、ベルクソンにあっては空間的世界である。しかしこの空間的世界は、ハイデッガーの考える「時間的」世界と本来同一なものである。割れ落ちた永遠は客体化された世界に変わるのであり、そこでは過去と現在と未来は引き裂かれてある。

 

時間の問題は、哲学にとっても芸術にとっても根本問題となった。それは宗教にとって、ことにキリスト教にとって根本問題であった。罪の告白とゆるしの秘義、死と復活の秘義、終末の秘義、黙示録の秘義は、時間の秘義、過去と現在と未来の秘義である。

 

時間の病気とその絶望的な悲哀は、何によるのであろうか。現在の充溢と歓喜を、永遠の達成として体験することができないということ、どんなにそれが価値の高い、歓喜に満ちたものであろうと、現在のこの瞬間においては、過去と未来の毒、過去の悲哀と未来への不安から免れることができないということーー、それによるのである。

 

瞬間のよろこびは、永遠の達成としては体験されない。それは、ひたむきに去りゆく時間によって毒されている。瞬間は、去りゆく時間の分子として、時間の悩乱と苦悩そのもの、過去と未来への永遠の分割を含んでいる。そしてただ永遠への参入としてのみ瞬間は別個の質を持っている。

 

いっさいが無常で、迅速にうつろいゆくという思想には、深い憂愁がある。過去を想うこと、未来を想うことは、憂愁に人を沈める。人は憂愁なしでは、いな恐怖なしでは未来を想うことができない。この憂愁この恐怖は、未来を考えるとき、打ち勝つことができない。ただ現在の創造的能動性においてのみ、未来が運命として、必然的な決定力としてではなくあらわれる時にのみ、克服されるのである。

 

過去と未来、病める時間の引きちぎられた部分は、お互いに永遠に関してはなんの優先もない。聖なるものは、永遠に関与する瞬間の内部にあるのであって、過去と未来の客体的なあるいは社会的な形成の中にはない。*1

 

われわれは、時間と関連する最後の問題が死の問題であることを見るであろう。死は時間をたずさえて来る。そして死は時間の中で起こる。未来に対する不安は、まず第一に死に対する不安である。死は生そのものの内部の出来事である。そして死は生の終末である。しかし死は客体化の極限的な成果である。死は時間の中の、客体の中の内的運命のたんなる一瞬間にすぎない。

 

過去の時代のすべての死んだ人々がわれわれに実存せざるものと見えるのは、そうした過去が単に客体として把握され、われわれが自己自身を客体の中に数え入れる時のみである。

 

記憶は、いかなる本質も実存も単に客体の世界に属するもののみでないという、内的実存から生じた徴であり、それらが他の秩序に属するという徴である。伝統は時間の力との闘いであり、歴史の秘密への参与である。

 

しかし、過去の回帰と、それがただかつてあったという理由のみによる過去の永遠化は、客体化された世界に君臨する死に対する勝利をまったく意味しない。むしろそれは時間の力を意味する。時間の無敵王国、時間化された存在の、身の毛のよだつような幻影は、ニーチェの永遠回帰の幻影である。

 

ー終わりー

*1:孤独の克服の問題は、性において最も先鋭化されるのである。共産主義にとってはこの問題は消滅する。社会的集団の生活のために、集団意識によって人格意識が代替されることのために、あらゆる「われ」が解消することによって、孤独は徹底的に克服される。「われ」の実存は徹底的に客体化され、社会構成の過程の中に編入される。性生活は、社会集団に、社会機構に完全に従属せしめられる。ここから出てくるものは、優生学の意義、性の機械化と技術化、人格的愛の完全な否定である。これは畜産制度であり、それによって性のあこがれと、それに結ばれている孤独は、最後的に窒息せしめられるはずである。経済と技術は恋愛を殺す。それと同じものを、われわれはナチス・ドイツの人種至上主義に見る。客体化と社会化という方法で、まさにあらゆる客体化と社会化の限界のかなたにわれわれを導く当の問題、われわれを実存的な結合と共同体の前に立たすその問題を解こうとするのである。同著.p.169-170