巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

私たちは皆、自分が ‟礼拝” しているものに成っていく。(by ジェームス・K・A・スミス)

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人は、自分が ‟礼拝” しているものに造形されていく。

 

目次

 

We are All Becoming What we Worship | James K.A. Smith, The Veritas Forum, 2017(拙訳)ミシガン大学での講演記録、Worship, 2015(拙訳)、フラー神学校でのインタビュー

 

私たちは皆、自分が‟礼拝”しているものに成る。

 

私たちの習性的性向(習慣的性向;habitual disposition)というものは無意識なものであり、通常、私たちはそれを意図的に思惟しているわけではありません。そればかりか、習性化のプロセス(つまり、習慣が彫り込まれていくところの過程)自体が、往々にして無意識下にあるのです。

 

言い換えますと、私たちは皆、リズムや日常的繰り返しの動作(routine)、諸行為の中にどっぷり浸かりつつ、現在進行形で学び、習得しつつあり、それらは微妙に、ひそかに、そして無意識的に私たちの心的習性、切望、願望、渇望を養成しつつあります。そしてそれらはみな、私たちの認知レーダーの表面下に進行しています。

 

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 氷山(出典

 

それゆえに、私たちは自分が何に打ち込み、何に時間やエネルギーや心を割いているのかによくよく注意する必要があります。スプリングスティーンは正当にも、「皆、飢え渇いた心を持っている」と言いましたが、私はそれにディランの「私たちは皆、誰かに仕えている」という洞察内容を付け加えたいと思います。

 

私たちは誰しもなにかを愛する者であり、飢え渇いてやまない ‟願求する被造物” です。言い換えますと、人間であるということは、なにかに対して自分自身を明け渡す被造物であるということを意味しています。それは人間であることの一要素です。

 

礼拝について

 

インタビュアー(トッド・ボルシンガー教授):神学校で私たちが教えている中心内容の一つは、礼拝および祈りにおける実践概念です。この点に関するあなたの意見をお聞かせください。

 

ジェームス・K・A・スミス教授:礼拝に対する私たちキリスト者のアプローチはやや狭小すぎ、また、還元主義的であるように思われます。私たちはしっかりとした根拠づけなしに、「礼拝とは主として〔自分が神に向かって〕表現する試み(expressive endeavor)である」と前提しています。

 

ですからまず第一に、「Worship(礼拝)」と聞いて、ほとんどの人は「音楽」をイメージします。そしてこの時点で、礼拝という概念はかなり狭まったものになっています。私たちの多くは、礼拝というのは、神に対する崇拝や賛美の念を表現する場であると考えていると思います。勿論、それはその通りです。

 

しかしながら、聖書の中でも、キリスト教伝統(聖伝)の中においても、礼拝というのはまず第一義的に、「神が御働きになる場」と捉えられています。ですから、それは、私たちの側から神に示すボトムアップ的表現であるだけでなく、実際には、神の民が、ご臨在の元に呼び入れられ、それにより、神ご自身が私たちの上に御業を為されるーー、というのが重要なポイントです。こうして神は礼拝の中で、私たちを造形し、鋳型していかれます。

 

それゆえ、いかなる造形プロジェクトであれ、その中心には「礼拝」という要素があります。そして礼拝という培養器の中で、神は御霊の力により、私たちを作り直し、練り直していってくださるのです。

 

だからこそ、私たちは、礼拝のかたちや形態(forms of worship)によくよく注意を払わなくてはなりません。事実、礼拝の形態は私たちの上になにがしかの影響を与えています。

 

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聖体礼儀(出典

 

なぜなら、それらは私たちの骨髄・血肉に、一つのストーリーを深く埋め込み、刻みこんでいくからです。こうして福音は、頭の知識として教えられるというよりはむしろ、‟捕えられる(caught)”のです。そうして後、礼拝の場から遣わされる私たちは、その心象(imagination)をさまざまな召命の場にもたらしていきます。

 

ー終わりー