巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

キリストはへりくだって(♪ Christus factus est pro nobis)【グレゴリオ聖歌】

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まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く小羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。イザヤ書53章4-7節

 


フィリピ人への手紙2章8-9節

Christus factus est pro nobis obediens usque ad mortem mortem autem crucis.

キリストはへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

Propter quod et Deus exaltavit illum: et dedit illi nomen quod est super omne nomen.

このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。

Christus factus est pro nobis obediens usque ad mortem mortem autem crucis.

キリストはへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 

主の苦しみにあずかって(by マザー・バジレア)

 

私は花婿イエスと共に歩み始めた時、見捨てられた孤独な御方としての主を知るようになったのです。そして、主は私にあたかもこう問いかけておられるかのようでした。「あなたはわたしと共に歩み、私の苦難の道とそれに必然的に伴うすべてを共にしないか。私の貧しさ、自己放棄、辱め、謙遜を共にする意志があるか」と。主に苦しみにあずかることこそ愛の業であり、たとえその道が茨に満ちたものであろうとも、花婿の道を進んで共に歩むのが愛です。

 

今日の私たちは殉教の時代に向かっています。以前からキリスト者は抑圧する政権の下に苦しめられ、そして、今やいわゆるキリスト教国においても、新しい法律によってキリスト教の価値観を守ることはますます困難になってきました。キリスト教に対する敵意はやがて世界中に広まるでしょう。

 

それは、終わりの時に起こることとして、イエスが既に預言しておられました。「その時、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる」(マタイ24:9)と。ですから、私たちがイエスに対する愛に生きているかどうか、主の苦しみに与っているかどうか、というのは最も重要な問いです。もしこの愛に生きていないとすれば、私たちには主のために苦難を耐える力がないことになります。

 

イエスを愛する人々に命の冠が与えられる(ヤコブ1:12)と記されています。イエスを愛する人々は、最も深い苦難と殉教のただ中においても勝利を得るのです。

 

御苦しみの主イエスよ、慰めさせたまえや。十字架の道を共にひたすら歩ませたまえ。

御苦しみの主イエスよ、慰めさせたまえや。ゆく道 知らずしても御そばにおらせたまえや。