巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

良き師の思い出

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出典

 

以前の記事の中で少し触れましたが、私はこれまで正式な神学教育をほとんど受けてきていません。望んでいてもその機会に恵まれなかったためでしょうか、私は常に師に飢え渇き、訓育の場に飢え渇いていました。

 

「何が聖書的なのか?」という問いは、次第に私を解釈学の方向に引っ張っていき、いつしか私はヴェルン・ポイスレス先生(新約解釈学、ウェストミンスター神学校、73歳)の著述に親しむようになっていきました。最初にポイスレス教授のことを知ったのは、ジェンダー包括語訳問題を取り扱った論文のリンク集を通してでした。

 

その当時私は、「なぜエヴァンジェリカル界には無数の解釈が乱立しており、しかも各陣営が心中、『自分たちのグループの解釈がやはり最もバランスが取れた聖書的な解釈』と考えているのだろう?どのようにしたら、各個人がそのように考えることと、外界に存在する解釈的アナーキズムの両者を和合させることができるのだろう?」という疑問を持っていました。

 

アナーキー(anarchy)というのは、アルケー(αρχη;〔宇宙の〕根源的原理、はじめ、始源、原初、根拠)が無い(接頭辞「ἀν-」)状態を指しており、それは、「アルケーとして(=Ἐν ἀρχῇ, 最初から、根源的原理として)ロゴスが存在していた」(ヨハネの福音書1章1節)を宣明された神の属性、神のご計画それ自身と矛盾しているように思えてなりませんでした。

 

ポイスレス教授はそんな自分の問いに正面から取り組んでおられました。彼は、釈義の説明にとどまらず、各釈義の根底に横たわる哲学的前提に目を向けるよう学生たちを導いていました。彼の説明を聞いていると、この世界の混沌の彼方には確かにアルケー/宇宙的秩序が存在し、それが受肉されたロゴスであるイエス・キリストにおいて最も美しい形で顕現しており、従って、どこかにこの解釈的混沌からの脱出口があるに違いないという希望を私は持ち続けることができました。

 

また、解釈学というのが究極的には、神の御手の中で、より良い神理解/隣人愛につながっていくのだということをポイスレス教授は理論と実践その両方をもって私に示してくださいました。他者理解において彼が常々言っておられたのが、「自分とは異なる見解を『内側から』同情心を持って見ようと努めることの大切さ」でした。著書『ディスペンセーション主義者を理解する』の第一章で彼は次のように書いています。

 

 「相手側の見解はあまりに馬鹿げて見えるので、ついつい彼らの見解をヤジるようなことを言ったり、あるいは怒りを感じたり、反対の陣営にいる人々と話すことさえ止めてしまうこともままあります。

 しかし、親愛なる読者の方々、もしもあなたが今、相手の立場を馬鹿げているとお感じになっているのなら、その立場内にいる人々もまた同じように、あなたの立場のことを馬鹿げていると思っているとお考えになって間違いありません。

 この論争において、皆が正しいことはあり得ないでしょう。一つの立場が正しく、もう一つの立場は間違っているのかもしれません。あるいは、一つの立場が大半において正しいけれども、もう一つの立場の持ついくつかの価値ある点からも何か有益なことを学ぶことができるかもしれません。ですから、大切な何かを見逃してしまってはいないか確かめる上でも、私たちは一つ以上の見解に対し、これらに真剣に耳を傾けようとする姿勢が大切だと思います。

 人間というのは、ただ単にある神学的「立場」を代表する人として以上の価値があります。ですからここには単に私たちの立場を決める以上のことがかかっているのです。私たちはまた、自分たちとは意見を異にする人々といかにして最善なるコミュニケーションをとり、そして私たちのできる限りにおいて純粋に、彼らの心に寄り添うよう努めるべきだと思います。

 相手のアプローチは、『内側から』同情心を持って見る時、たしかに『理に適っている』のです。そしてそれはちょうど、あなた自身のアプローチが、『内側から』同情心を持って見た時に『理に適っている』のと同じなのです。」(引用元.)

 

相手の解釈体系を、「内側から」「同情心をもって」見てみるーー。これは言い換えると、相手の身になってものを考えてみる、相手の‟内側からの視点”では世界はどのように見えているのだろうということに思いを巡らせてみる、ということではないかと思います。

 

相対主義や信仰の不可知論に陥らずにこういった事は果して可能なのでしょうか。私がポイスレス教授から学んだのはそれは実際可能であるということでした。なぜなら相手の見解を内側から同情心をもって見ようとする行為の源泉は、キリストの愛から溢れ出る兄弟愛/隣人愛に他ならないからです。

 

「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」マタイの福音書22章37節ー40節

 

実にこの愛こそが認識の地平を縦横に広げ、自分の「個」の領域を超えたところで相手と出会い、扉を開く鍵なのだということを知りました。

 

千年王国諸説(無千年王国説、後千年王国説、前千年王国説)を一通り概説された後、ポイスレス師が言った言葉を私は今も忘れることができません。彼は「自分自身は無千年王国説を支持しているけれども、三つの諸説ともそれぞれが良い洞察と弱点を抱えている。それで私は思ったのです。なぜ主はこのようになさったのだろうと。おそらくですが、千年王国諸説に関し決定的回答が与えられていないのは、私たちが異なる説を支持する兄弟たちを愛するようにとの、神のご計らいによるものなのかもしれません。」

 

そして実際、彼のこの同情心をもった解説により、私は初めて後千年王国説を支持する人々(特に改革派陣営内のfederal vision学派)の契約観やサクラメント観に理解がいくようになりました。そしてなぜある人々が幼児洗礼という慣習を受容しているのか、その内側の論理というかロジックにも理解がいくようになりました。そして幼児洗礼の是非の議論においても、やはり「聖書のみ」の原理だけでは回答はもたらされ得ないのではないかと考え始めました。

 

ポイスレス教授の推薦で、私は聖公会の学者であるアンソニー・ティーセルトン(ノッティンガム大学)の著述も読むようになりました。両者の著述や人物像に触れて私が思ったのが、偉大な解釈学者はまた、偉大な人格者でもある、ということでした。そしてこういった偉大な人格者たちとの接触を通し、人は、普遍的真理という彼方の光を仰望するのだと思います。

 

またティーセルトンの『Hermeneutics: An Introduction』、『Systematic Theology』を読み進めていた期間、私は古典的プロテスタンティズムの信仰義認論から、教父学的な義認論/カトリック・正教的な義認論へと見解におけるシフトを経験していきました。

 

現代思想との取り組みという点でも、私はポイスレス、ティーセルトン(それからジェームス・K・A・スミス、ロバート・バロン司教等)から多くの事を学び、現在に至るまで学び続けています。

 

桂冠詩人テニスンは「I am part of all that I have met.(私は、自分がこれまで出会ってきたすべての一部である)」と詠いました。私たち人間は、歴史から、他者から、事象から、神から離れた孤立存在ではなく、よいものであれ悪いものであれ、自分がこれまで出会ってきたもの、見、聞き、経験してきたものすべてのものからなんらかの形で影響を受けつつ、有機的な織りなしのうちに形成されてきた存在であるということを表しているのだと思います。

 

その意味において、今の自分はこれらの偉大なる師たちの存在なしには考えられず、さらに言えば、師たちの営為もまた、聖伝という悠久の流れと積み重ねの中に重層的に織りなされているのだろうと思います。風のとおり道のようにどこまでも果たしなく続く歴史的教会の営みの中でーー。

 

ー終わりー