巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

いつまでも変わらない友情

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出典

 

今朝、東方典礼カトリック教会の方から私宛てに批判の書き込みがあり、それによると、私は ‟真摯な求道者” を装いつつ、その実、(ローマのスキャンダルを騒ぎ立てる)ラジオ・ショーと実質変わらない「ローマ叩き」をしているとのことでした。

 

私はその方に、私は確かにローマ教会の腐敗や現教皇体制に批判的ではあるけれども、決してAnti Catholicではない、どうかそれを信じてほしいと書きました*1 

 

東方正教ワールドでは私はあまりにもプロ・カトリックすぎるそうで、それをどうにかしなければいけないと注意され、他方、カトリックの方から見れば、私はアンチ・カトリックなんだなあと思い、ますますhomeless感が増し加わりました。

 

それで両者の中間にある東方典礼カトリックに身を寄せるというのはどうかなあと思いましたが、今日、お便りをいただいて分かったのが、この地帯の忠実な方々からみれば、私はあまりにもプロ・正教すぎて、それは「ローマとの一致」を大切にする東方典礼カトリックの根本精神をおびやかすものである、ということでした*2。そうかぁ、やはりここでも私はなにかと奇妙で腹立たしい存在なんだなあと感じ、とても寂しい思いになりました。

 

そんな中、ふとみると、昔からの友人である福音主義の友だちからお手紙が届いていました。24日の記事の中にあった天使ミサのグレゴリオ聖歌に心動かされた、というお分かち合いや、普段の生活で感じたことなどが素直に書かれてありました。

 

私が福音主義から離れた後も、彼女は変わらぬ友情と愛をもって私との交わりを続けてくれています。ある特定教会や共通の主義にコミットできている、できていないということに関わりなく、彼女はただ私が私であるというその理由だけで、信じられないほどの愛といたわりを自分に示してくれています。

 

人が安定した「家」に住むことができるのは神の恵みであり、また、何かの事情で、その人が路傍をさまよわなければならない悲しい状況に陥ったとしても、それでも神の恵みは変わらずその路傍人の上に注がれ、神はその人を決して見捨て給わないということを、主は、友人の変わらぬ友情を通し私に顕してくださっています。現在私と同じような状況に置かれている読者の方がいましたら、どうか主よ、その方にもあなたの変わらぬ愛と恵みを注いでくださり、その方を支え続けてください。

 

ー終わりー

*1:懺悔の涙 

*2:この点、もしかしたら、ビザンティン・カトリシズムは、アングリカニズムの広教主義(latitudinarianism)に似た要素を内包しているのかもしれないなあと思いました。私は広教主義の是非は分かりませんが、東方典礼カトリックの兄弟姉妹と話し合いをする中で時々感じるのが、東西神学の差異を差異足らしめている要素や原因をとことん突き詰めていこうとする態度はこの世界ではあまり奨励されていないようだということです。これに関しては正直、自分自身が迷いのただ中にいるので、どう考えていいものやら途方に暮れています。仮に神の聖意図の中で、あるものが繊細に建て上げられているのだとしたら、それを自分の無知と誤信によってぶち壊すようなことだけは是非とも避けたいです。祈りと信仰における成長が必要なのだろうと思います。私のために祈っていただけたら幸いです。