巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

そもそもなぜそこに「フェンス」が建てられたのか?(by G・K・チェスタートン)【教皇フランシスコと世界統一宗教】

Pope Francis prays with religious leaders after meeting Rohingya refugees from Myanmar during an interreligious and ecumenical meeting for peace in the garden of the archbishop's residence in Dhaka, Bangladesh, Dec. 1. (CNS/Paul Haring)

宗教間対話(interfaith dialogue)出典

 

G.K. Chesterton, The Thing, "The Drift from Domesticity," 1929(拙訳) 

 

(「変形」させることとは一線を画し)何事かを「改革」することに関してであるが、ここに明白にして単純なる一つの原則がある。おそらくこの原則は逆説と呼ばれるかもしれない。

 

ある制度や法律が存在している。説明を分かりやすくするため、仮にここで、道を横切り、フェンスや門が建てられていると仮定してみることにしよう。

 

出典

 

モダン・タイプの改革者がそこにやって来て陽気に言った。「このフェンスは何のためにここにあるんだ?用途がちっとも分からない。さあ撤去しようじゃないか。」

 

それに対し、より賢明な改革者が次のように答えた。

 

「何のためのフェンスかその用途が分かっていないのなら、君は決してそれを撤去してはならない。家に帰って頭を冷やしよくよく熟考してみるがよい。そうして後、再びここに戻って来、私にその用途が何であるのかを言えるようになった暁には、それを取り壊すことをあるいは君に許可するかもしれない。」

 

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「そもそもなぜフェンスがそこに建てられたのかを知らないうちに、それを取り外そうとしてはならない。ーー決して。」G.K. Chesterton

 

ー終わりー

 

以下、末日聖徒イエス・キリスト教会(=モルモン教会)HPより一部抜粋

「末日聖徒イエス・キリスト教会のラッセル・M・ネルソン大管長はローマ現地時間2019年3月9日土曜日、末日聖徒の大管長としては初めて教皇フランシスコとバチカンにて会見を行った。会見はネルソン大管長がローマにおける最初の神殿の奉献式の前日に行われ、十二使徒定員会会長のM・ラッセル・バラード会長が同席した。 バラード会長によると、彼らはこの二つの教会において人道的支援に取り組む密接な関係について話し合ったと述べた。「私たち二つの教会は密接に協業し、43カ国以上においてカトリックの支援事業にて共に働いていることを聖下にお伝えしました。人々の苦しみを緩和するために肩を並べていることをお話すると、聖下はとても興味を持っておられました。」

 

「私はここにただ一つの種類の‟エキュメニズム”しか見ていない。第二バチカン公会議によって推進されている種類の‟エキュメニズム”は、偽りの諸宗教に敬意を払い、それらと協同することを強調しており、その際に、偽りの諸宗教は教会と同じ足場に位置づけられている。これは聖伝とは真っ向から矛盾する、新奇な概念であり、私たちはこれを受け入れるよう無理強いされている。かくして、元来の‟福音宣教”教会に代わり、新しい‟エキュメニカル”教会が出現したのである。アッシジでの会合はこの新教会を認可した。これはなんというスキャンダルであろうか!」ルフェーブル大司教

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A.W. Tozer, Some Things Are Not Negotiableより抄訳

 

「新しい十戒」というのが、近年、クリスチャンによって導入された。これによれば、十戒の第一条は、「汝は何事にも不賛成の意を表すことなかれ。」である。そして、山上の垂訓は、「すべてを『寛容に』受容する者は幸いである。なぜなら、その人は自らの内に何一つ責任を負うことなく生きていけるからである。」と始まっている。

  

宗教間の違いについて公に話し合う時にも、現在では次のような暗黙の了解がなされている。つまり、「話し合うことは差し支えない。が、その際に、相手を説得しようとしたり、相手の信条の内に見いだされる誤謬を指摘したりするのはご法度である。話し合いの目的は、真理に向き合うことにあるのではなく、あくまで、他の宗教の追従者がどんな事を信じているのかを知り、彼らの視点から何かを学ぶ(そして願わくば、彼らもわれわれの信仰から何か益となるものを受け取ってほしい)というスタンスでなされるべきである」というのだ。

 

人というのは、自分にとってさして重要でないと思える事がらに関してだけは、これを寛容に受容する。しかしひとたび事が自分やわが子の生死に関わる問題となると、もうその時には寛容などではいられなくなるのだ。それと同様、自分の永遠の行き先に決定的な影響を及ぼすような信仰問題に関しては、彼は悠長に「協議」などしていられなくなるのである。

 

想像してみてほしい。「金の子牛」の事についてイスラエルの民と話し合うべく、パネルディスカッションの席につくことに同意したモーセの姿を。もしくは、バアルの預言者たちの隣に紳士的な居ずまいで腰を下ろし、彼らと話し合いをしているエリヤの姿を。あるいは、パリサイ人との見解の違いを乗り越え相互に歩み寄るべく、彼らとの座談会の場を求めている主イエス・キリストの姿をあなたは想像できるだろうか。あるいは、より高度なレベルでの一致をもたらすべく、アリウスとの間の見解の違いを超越しようと努めるアタナシウスの姿を。

 

(尊敬を受けるとまではいかなくとも)少なくとも人に好かれたい、好意を得たいという願いは、およそ人間の性格の中に存在する大きな弱点である。しかしイエス・キリストに仕える僕にとっては、こういった弱点は決して大目に見ることができない。

 

最近もてはやされているのは、「いつも笑顔で、愛想のよい、無性の宗教マスコット」としての神の御子のイメージである。そしてこのマスコットはやわらかい手で誰彼となく握手を交わし、どんな問題に関してもいつも「そうですよ、そうですよ。」と相槌を打ってくれるのだ。

 

しかしこのようなイメージは、真理としての御言葉の中には見いだされない。平和をつくる者(マタイ5:9)には神の祝福が約束されている。しかし宗教的な「交渉人」は自らの歩みに十分気を付けなければならない。神の家にいるメンバーの間のいざこざを解決し、平和をもたらすという能力は、天的な賜物であり、それらは十分に育まれるべきものである。祈りと御言葉によって、仲たがいしている友人たちの間に和解をもたらすことのできる思慮深い魂の価値は、ダイアモンドにも匹敵する。

 

確かにそれはそうである。しかし、真理を犠牲してでも一致をもたらそうとする試みとなると俄然、話は違ってくる。キリストの友であろうとしていない人々と親交(友情)を深めようとすることは、とりもなおさず私たちの「主に対する背信行為」となってしまうだろう。闇と光というのは、話し合いによっては、決して一つにはなれないのだ。そう、ある事柄については「交渉の余地なし」なのである。

 

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