巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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同性婚と倫理的議論の破綻(by ロバート・バロン司教)

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出典

 

Bishop Robert Barron, GAY MARRIAGE AND THE BREAKDOWN OF MORAL ARGUMENT, April 16, 2013(拙訳)*1

 

古典的名著『美徳なき時代(After Virtue)』の中で、哲学者アラスデア・マッキンタイアは嘆いています。ーー現代社会に蔓延している「不道徳」というよりはむしろ、より根本的にして、長期的な目で見てより危険な現象、すなわち、「倫理的諸事項について私たちがもはや真の議論をすることすらできなくなっていること」を彼は嘆いているのです。

 

 

「倫理に関する首尾一貫した対話をかつて補強したところの諸前提はもはや当然のものとみなされず、普遍的に共有されなくなっている」と彼は言っています。その結果として、何が正しく何が間違っているのかに関する問いに関し、私たちは互に話がかみ合わず、しばし怒鳴り合っているのが現状です。

 

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出典

 

同性婚問題に関する最近の最高裁判所の考察記事を読んだ時、私はマッキンタイアの洞察を思い出しました。口頭弁論に触発され、エレナ・ケーガン裁判官は次のように述べています。「法的文脈の中で誰かが倫理的不同意を表明する時はいつでも、『差別』という警戒信号としての赤旗が私の中で掲げられます。」

 

ここで裁判官が「差別」は劣悪な倫理的議論の結果生じるものであるとは言っていないことに注意してください。そうではなく、(彼女によると)倫理性に対するいかなる訴えであれ、それらは事実上、「差別」と同等視されるのです。

 

あるいは、マッキンタイアの言葉を借りるなら、倫理的議論を試みることすら無益な行為であるがゆえに、それを為すことは攻撃/侵害行為として受け取られる他ないということになるでしょう。

 

もしも本当に議論が役立たずのものであるのなら、論争の裁決における唯一の頼みの綱はーー直接的にせよ間接的にせよーー暴力しかないということになります。

 

UCバークレー校(UCPD chief at Berkeley: 'Crowd control situations are different' — Berkeleyside

 

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UCバークレー校(Students Protest Guest Speakers at College Campuses – Boise Highlights 

 

それがゆえに、(特に西欧諸国において)数多くのキリスト教指導者や理論家たちがこの種の思考法に関し、深刻なる懸念を表明しているのです。

 

同性婚に対し倫理的議論をあえてしようと試みる説教者や作家は誰であれ、自動的に‟ヘイト・スピーチ”の調達人として糾弾されるか、偏狭者として激しい非難を浴びせられるか、極端なケースにおいては法的制裁を受ける対象になります。こういった感情むき出しの、暴力的反応は、ーーマッキンタイアがあれほど嘆いていたーー倫理談話のための合理的枠組みの破綻に起因しています。*2

 

こういった破綻の明白なる徴候は、この問いに関する「世論調査の数値」に対する私たちの度を越した執着に表れています。私たちは絶えずひっきりなしに、「多くのアメリカ人ーー特に若者たちーーの間における、同性婚是認/ゲイ関係に対するオープンな態度は増加の一途をたどっている」ということを聞かされています。

 

これは社会学的、政治的な次元で言えば、確かにかなり興味深いことでしょう。しかし、それ自体の内には、正誤に関する問いは全く含まれていません。倫理的には不快ななにかを多数の人が是認するということは大いにあり得ますし、逆に、倫理的に高潔ななにかをほんの一握りの少数派だけが支持するということも大いにあり得ます。

 

例えば、戦争に迅速な結末をもたらすべく日本に原爆を落とすことの公正さに関する世論調査が1945年に行なわれたとします。そうしますとおそらく圧倒的大多数が原爆投下を支持する票を入れていたことでしょう。あるいは1825年に、奴隷制の正当性に関する世論調査が行われたとしたら、ごく少数の米国人しかこの慣習を廃絶しようとの意見表明をしなかっただろうと思います。しかし最終的に、両事例において、その「数値」がどうだというのでしょう?

 

最終的には、議論がなされなければなりません。実際、議論が不在のところにおいて、倫理的問題に関する「数値」の引用は、いじめの形に他なりません。つまり、数の多さによりお前たちに勝った、という言い分です。

 

倫理的議論の破綻のもう一つの兆候は、同性婚問題を感傷主義化(sentimentalizing)させる動きです*3。過去25年余りに渡り、大勢のゲイの人々が自分が同性愛者だと公表しました。それ自体は実際、歓迎されるべきことです。

 

抑圧、欺瞞、病的な自己非難は決して良いことではありません。大勢の人が自分が同性愛者だということを公にした結果、何百万という人が、自分の兄弟、姉妹、叔父、叔母、いとこ、親しい友人たちがゲイであることを認識するに至りました。

 

それにより、同性愛者は、もはや奇妙で謎めいた「他者」ではなく、品行正しい人間であることを人々は知るようになりました。この発展もまた肯定的なことです。同性愛志向のある男性や女性の方々は常に、いかなる状況下にあっても、愛され、大切にされ、敬意を持って取り扱われなければなりません。

 

しかしながら、そうだからといって、品行正しい人が為したり、欲したりすることが全て必然的に品行正しいことであるかといったらそうではありません。説得力ある議論がないまま、ただ単に、「一般に親切で優しい人が選択する行為は、事の性質それ自体によって、正しい」ということは言えません。

 

それゆえに、政治家が、「今、私は同性婚賛成者になった。なぜなら自分の愛してやまない実の息子がゲイであることを知ったから」と言っているのを聞いても私の心は決して動かされません。しかしどうか誤解しないでください。父親がゲイである自分の息子を愛し、愛おしむこと自体は喜ばしいことです。しかしその愛それ自体で議論(論拠)が構成されているかというとそうではありません。

 

注意深い読者の方々は、本稿において私が議論を提供していないことにお気づきだろうと思います。それはまた別の稿で取り上げたいと思います。私がここで明確にしようと努めたのは、この問題をぼかしている靄を除去することでした。それにより、セクシュアリティー一般ーー特に同性婚に関する問いーーについてカトリック教会が教えている内容を、明瞭さと客観性をもってみることができるようになるためです。

 

ー終わりー

*1: 

*2:訳注: 

*3:訳注: