巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

試練の祝福(by マザー・バジレア)

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バジレア・シュリンク著『試練の祝福』より一部抜粋

 

荒れ野の道のり、困難な道、懲らしめの道、、、そのような時に私たちのだれが神を理解することができるでしょうか。私たちの心が叫びをあげます。「なぜ、このような道に導かれるのか。私はもうだめだ」と。

 

破綻した結婚、子供たちによる尽きない悩み、耐え難い孤独、重い病と高度の障害、深い失望、あるいは精神的な悩み、、、。私たちは皆、希望を失った荒れ野の道をよく知っています。それでも、まだすべてが失われたわけではないのです。

 

暗い夜空に輝く星のように、かつて荒れ野の困難な旅路をたどり、耐え難い試練を通った神の民の上に明るい光が輝きました。この暗い道のりの意味が彼らに明らかにされたのです。神は彼らに「後に訪れるもの」、すなわち懲らしめの道の喜ばしい結末について語られるのです。

 

神は「あなたを、、ついには幸福にするために」(申8:16)苦しめて試すと言われます。苦しみと懲らしめの道は、それで終わるのではありません。苦しみは最終的な結末ではないのです。暗い旅路は明るい光にたどり着きます。これは深い悲しみに沈み、心の葛藤に悩む民にとって、なんとすばらしい訪れでしょう。事実、神は私たちをあらゆる罪、その他、不幸にするすべてのものから救うためにその最愛の独り子を引き渡されました。

 

私たちが苦しみのゆえに絶望してしまう姿を見たいと、目を光らせている者がいます。それは悪魔、私たちの一生の敵です。悪魔は私たちの心に不信の種を蒔き、そのため私たちは神の慈愛を期待することも、それを体験することもできなくなり、代わりに不幸を得てしまいます。

 

私たちは進んで懲らしめや苦しみを受け入れずに、たとえ無意識のうちにでも、それらに逆らうようにと、悪魔はできる限りの手段を用います。堕天使である彼は、私たちが神の玉座においていただくはずの栄光をねたんでいます。その栄光とは、彼自身が失ったものであり、イエスの贖いによって、今や私たちのものになるはずのものです。

 

苦しみと懲らしめの道は、私たちをこの栄光にあずかるようにと整えるものです。懲らしめが私たちの人生にもたらす祝福を、悪魔は失わせようとできる限りのことをします。彼は失望、苦しみといったようなもので私たちを捕えようとします。悪魔はイエスを誘惑した時、飢えの苦しみを用いて、打ち勝とうとしましたが破れました。

 

ーーーー

悪魔は私たちが罪を軽視するようにと、あらゆる手段を尽くします。すると、私たちは全力で罪に抵抗しようとも、懲らしめを受け清められようとも思わなくなります。その結果はどうなるのでしょうか。ーー罪にとどまることによって、私たちは不幸になります。

 

悪魔が私たちに対して力を得、それは私たちが神の国に入ることの障害となります。これらすべてを知っている悪魔は罪に対して私たちの目をふさぎ、罪を無害と見せ、そのため信者の私たちはいわゆる小さな罪を犯し続けても、もはや悪いとは思わなくなってしまいます。

 

けれども、たとえ私たちが罪に対して盲目であったとしても、神はそうではありません。そして愛されるがゆえに、神は私たちが罪のうちに死ぬことを望まれません。罪にうちに死ぬとは、この人生では不幸になること、死後には敵が私たちに対して権利を持つ罪のゆえに永遠に滅ぶということです。それを避けさせるために神は私たちを懲らしめ、罪が私たちのうちに生い茂り、苦しんで不幸になるのを止めようとされるのです。

 

恐らく私たちは皆、罪の実りを味わったことがあるでしょう。例えば、人を赦せずに苦々しい思いに満ちていると、どうなるでしょうか。気持ちはふさぎ、心は引き裂かれ、夜も眠れないことでしょう。あるいは、妬みや野心が心をむしばみます。罪とはーー嫉妬、嘘、高慢、欲望、その他私たちが抱いている罪が何であろうとーー常に不幸をもたらすものです。罪は人類の幸福の敵である悪魔に私たちを縛ります。

 

私自身の人生で体験した多くの懲らしめについて、ただ一つ言うことができます。それは、神が慈しみ深い愛ゆえに、罪深い性格から私を解き放ち、幸福な人にするために、それらをくださったということです。

 

ですから、私の人生において最も神に感謝すべきことは、この懲らしめです。そうです。私がこんなにも幸福になったのは、懲らしめの道で主が私の人生のさまざまな罪深い分野に働きかけてくださったからだ、ということを告白しなければなりません。

 

以前、私は落胆し、不幸になった頃がありました。なぜなら、私は嫉妬深く、神経質で短気で、他人から不正を受ければ傷ついたり恨みを抱いたりしたからでした。すると主は私を鍛え始められました。主は他人に失望させるという体験を与えられました。私は気難しい人と合わせられたのです。

 

主は繰り返しその人を用いて、私の心から愛が生まれるように、私のかたくなで罪深い部分に一撃を与えられました。痛みを覚えて自分が抱いている苦々しい思いへの罪深い執着に気づくようになってから、贖い主なるイエスが私をそれから解放してくださるように、イエスに向かって叫ぶことを学びました。

 

そして、イエスはその叫びを聞き入れてくださいました。私のうちにこの切なる願いを呼び起こしたものは、神の懲らしめであり、この願いはやがて聞き入れられました。神は赦しの恵みと憐れみの心をくださり、私は不幸な状況から解放されたのです。

 

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かつてゲルハルト・テルステーゲンが、ある聖歌の中で私たちのこの世の人生は「ただの小道に過ぎない」と描写したことがあります。小道がどこかに至る。小道が私たちを目的地へと導く。そして、この場合の私たちの最終の目的地は永遠です。

 

私たちに懲らしめに耐える力を与えてくれるものとは何でしょうか。この世の短い人生で懲らしめに対して「はい」と言えるように助けてくれるものとは何でしょうか。それは永遠を覚えることです。天国は現実であると同様に、死の国と地獄も現実です。地上での私たちの生き方次第で、死の国へ引き渡されるか、永遠の光と栄光の国へ入れられるかが決まります。選択は私たちにあります。

 

祈り

 

愛する天のお父様、

 

私たちを成長させるために、あなたが惜しみなく労苦してくださることに感謝します。罪深い私たちに対するあなたの愛の深さをあがめます。私たちが数えきれないほどあなたを失望させてきたにもかかわらず、あなたは疲れることなく私たちに働きかけ、愛してくださいます。懲らしめがその目的に到達するまで、休むことのないあなたの愛を感謝します。その目的とは私たちを御子の似姿に変え、栄光へと導くことです。あなたの愛がなければ、私たちは裁きを受け、永遠に失われた者となってしまうでしょう。

 

ですから、あなたが愛ゆえに私たちの道を軌道修正なさった時に、私たちはしばしばあなたに反抗したことを、御前でへりくだり、あなたの赦しを求めます。あなたの私たちに対する計らいはすべて最善です。私たちの一人一人をふさわしい方法で成長させるために、あなたはそれぞれに独特な計画をお持ちです。あなたから私たちを引き離す、自分たちに絡みついたさまざまな罪から解放されるように。

 

愛する父よ、私はあなたの子であり、あなたの愛に信頼します。ですから、私を鍛錬し、懲らしめてください。私に対する御心が成るために、また私の人生のうちにあなたが愛の実りを見い出すために、どのようなことでもなさってください。アーメン。

 

ー終わりー

 

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