巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

アングリカン主義の自己破壊作業はほぼ完了した。(by ブライアン・クロス、マウント・マースィー大学)

英国国教会内の団体Women and the Church(出典

 

Bryan Cross, Anglicanism Nearly Finished Destroying Itself, 2008

 

現在アングリカン信者に残されている選択は、①各人が、自分と同見解を持つ(南米やアフリカ等)どこかの司教を見つけ出し、そうした上で今後もバラバラに分解し続けていくか*1、もしくは、②ローマ教皇庁との和解および再会を検討するか、そのどちらかです。それ以外の選択肢はありません。

 

「存在」と「一致」の間の関係性を理解していない人は、「一致」を喪失することが「存在」を喪失することである事実を認識できないでしょう。バラバラに分解することは死することです。

 

換言しますと、公同性(catholicity)を失うことは、存在することの終焉を意味するということです。死体の形骸が崩れていくのが時間の問題に過ぎないのと同様、彼らにおける「存在の終焉」ももはや時間の問題です。

 

「存在」が「非存在」に由来し得ないように、「一致」も「非一致」に由来し得ません。聖トマス・アクィナスは "ab uno derivatur unitio"[uniting is derived from unity;結合させることは一致に由来する] と述べています*2。それゆえ、エキュメニズムはエ・プルリブス・ウヌム(多数から一つへ;"E Pluribus Unum")ではあり得ないのです。なぜなら、「一致」というのは「多数(plurality)」からは由来し得ないからです。

 

単なる「多数」からは「多数」が出て来るのみです。なぜなら、ーー「存在」が「存在」から発出しているようにーー「一致」は「一致」からのみ発出してきます。「一致」は「多数」から出てきません。なぜなら、「多数」は授与すべき「一致」を何ら有していないからです。実に「多数」は「一致」の欠乏です。

 

そして有していないところのものを授与することはできません。「一致」は、「一致」から発出した「多数」に授与されます。また、「多数」を、既に存在している「一致」へと包含させることにより、「多数なるもの」を「一致」へと為さしめるべく「一致」が授与されます。

 

1コリント10:17には次のように書いてあります。

ὅτι εἷς ἄρτος, ἓν σῶμα οἱ πολλοί ἐσμεν, οἱ γὰρ πάντες ἐκ τοῦ ἑνὸς ἄρτου μετέχομεν.(ギリシャ語)

Quoniam unus panis, unum corpus multi sumus, omnes, qui de uno pane participamus.(ラテン語)

パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。

 

私たちは多数であっても、一つのパンを共与することにより一つにされ(ヨハネ6章)、その御方は一(いつ)です。(ヨハネ10:30)。この一なる御方の中にあり、一なる御方に与ることによってのみ、多数である私たちは、一つにされるのです。

 

1コリント12章で、聖パウロは、バプテスマの中で私たちが一つのからだへとバプタイズされると説いています〔εἰς ἓν σῶμα; in unum corpus〕。(1コリ12:13)。

 

バプテスマにより、私たちは既に存在している「一致」、すなわちキリストの御体へと参入します。なぜキリストの御体には多くのメンバーがいるにも拘らず、それは依然として一(いつ)なのでしょうか。なぜなら、御体なる教会のかしらであるキリストは一なる御方だからです。(エペソ5:23)。

 

教会のかしらであるキリストが一であるがゆえに、そして教会に息を吹き込む御霊が一であるがゆえに、教会は一です。神的性質の「一致」は、その他すべての「一致」の源泉であり、それは「一致」の源泉を何ら所有していません。なぜならそれはそれ自身で完全なる一致(つまり、非原因の一致;uncaused unity)だからです。その他すべての「一致」は派生による「一致」(a derived unity)、すなわち「一致」からの「一致」です。

 

いかなる「多数」も、既存する「一致」に組み込まれることなしに、実際的一致となることはできず、私たちが組み込まれ得る唯一の神的一致は、キリストのいのちであり、それは、主ご自身がお建てになった教会である御体の内に見い出されます。

 

その他いかなる共同体といえども、それらは模倣であり、本質的にフラグメンテーション(分解)化する性質を持っています。なぜなら、それは神人であるイエス・キリストによって建てられていないからです。「そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。」(マタイ24:23)。キリストは、キリストがお建てになった教会(Church)におられるのであって、単なる人間たちによって設立された各種ソサエティーの中におられるのではありません。*3

 

つまり要点は何でしょうか。バベルの塔的エキュメニズムは、ーー「存在」が「非存在」から来得ないのと同様、「一致」もまた「多数」から来得ないという形而上学的真理によってーー失墜する運命にあります。

 

耐久し得る唯一の種類のエキュメニズムは、かしらであり礎石である、受肉されたキリストご自身によって建てられた既存一致に参与することです。

 

自らをカトリック(普遍)教会から分離することは、とりもなおさず、教会の中に存在するキリストの「一致」およびいのちから自らを切り離すことを意味します。

 

それゆえに、5月にヴァチカンが警告したように*、今や聖公会主教たちには二つの選択肢しか残されていません。すなわち、教皇庁との和解および再結合を求めるか、あるいは、プロテスタンティズムに不可避的に付随するところの終局的完全分解の道を進むか、その二つです。

 

アングリカン主義の一翼はすでにプロテスタンティズムの道を選び取りました*4。アングリカン主義の皆がローマ聖座との和解および再会の道を求めるよう、共に祈っていきましょう。

 

ー終わりー

*1:訳注:J・I・パッカーは最近、カナダ聖公会(Anglican Church of Canada)を離脱し、南米聖公会司祭(South American Anglican bishop)と提携する決断をしました。

Image result for Theologian Packer quits Anglican Church of Canada

↑カナダ聖公会指導層内の同性婚是認およびリベラル化問題により、教団離脱を決意をしたJ・I・パッカー(source).

*2:ST I Q.60 a.3 ad 2

*3:here.

*4:訳注: