巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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「カトリック教会はプロテスタント改宗者が過去に与ってきた『聖餐』をどのように捉えているのですか?」Q & A(by ブライアン・クロス、マウント・マースィー大学)

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主の晩餐(The Lord's Supper)出典

 

Bryan Cross, Ecclesial Consumerism vs. Ecclesial Unity, 2007(拙訳)

 

質問者:カトリック教会は、プロテスタント改宗者のことをーーその人がプロテスタント時代に受けていたところの「聖餐(eucharist)」に共に与ってきた者ーーとして捉えていますか。もしそうでないのなら、主の晩餐が祝われる時に毎週プロテスタント教徒が行なっている行為は何なのでしょうか。そこにどんな意味があるのでしょうか。

 

回答:ジョンさん、こんにちは。ユーカリスト(=エウカリスチア)の共与者になるためには、そこにユーカリストが存在しなければなりません。

 

ですから最初に問われるべきは、次の問いではないかと思います。「カトリック教会の教えによれば、実際のユーカリストはどこに存在するのだろうか?」と。形式と質料に関連した諸要件がありますが、ここで検討中の要件は、この秘跡を行なう聖職者に関連したものです。

 

それゆえ、「実際のユーカリストはどこに存在するのだろう?」という問いは第二の問いに依拠しています。「誰が聖別する力を持っているのだろう?」カトリック教理によると、「聖別の力は、有効に叙階された司祭のみに存します。」*1

 

これはなぜかというと、「わたしを覚えてこれを行ないなさい」というキリストの御命令は、カトリック教会によると、使徒たち及び、彼らの秘跡的後継者たちに限って言及されてあるからです。またオットによると、「聖伝は常にこの権能を、使徒たちおよび司祭職に就く彼らの後継者たちに授けています。」

 

私が調べた限りにおいては、「司祭だけがユーカリストを聖別することができる」という教理は、ワルド派の人々によって初めて拒絶されました。第四回ラテラノ公会議(1215)〔第12回全地公会議〕は、ワルド派に対し次のような宣言をしています。

 

「イエス・キリストご自身が使徒たちおよび彼らの後継者たちに献上した教会の鍵に従い、有効に叙階された司祭以外、誰もこの秘跡を執行することはできない。しかし教会(Church)の形態の中で誰かにより合法的に授与された(神への祈り、すなわち、御父、御子、御霊という分かち得ない三位一体神への祈りにより、水の中で執行される)バプテスマの秘跡は、小さい者にも大人にとっても救いに至らしめるに当たり有効である。」

 

1208年、教皇インノケンティウス三世は次のように書いています。「どんなにその人が実直、篤信、聖潔、良識的であったとしても、彼はユーカリストを聖別することができず、また聖別してはならない。また祭壇の犠牲〔奉献〕を執行することもできず、してはならない。それができるのは、可視的にして認知可能な司教によって規定通りに叙階された司祭だけである。以上のことをわれわれは堅く信じ、また告白する。」

 

それゆえ、これは強いて次の問いに私たちを至らしめます。「カトリック教会によれば、合法的叙階には何が必要とされているのだろう?」以前にも話し合った通り、合法的叙階のためには使徒継承(apostolic succession)が必要である、というのがカトリック教会の回答です。それゆえに、司祭や助祭の合法的叙階のために「合法的に叙階された司教」が必要とされているのです。*2

 

それゆえに、あなたの第一番目の質問に対する答えは、「否。」です。だからこそ、カトリック教会はプロテスタント諸共同体を「教会("Churches")」と見なしていないのです*3。なぜなら、合法的叙階および使徒継承が欠如している場はどこであれ、そこにユーカリストは不在だからです。そしてユーカリストなしに、教会(Church)は存在しません。

 

二番目のご質問に関してですが、プロテスタント教徒が主の晩餐を祝う時、プロテスタントはキリストを礼拝している、とカトリック教会は認識していると思います。カトリック教会の目に見える境界外で見い出される「可視的要素*4」は、「成聖と真理の要素」であり得ると認識しています。

 

たとい実際の聖別がなかったとしても、主の晩餐は、福音や、キリストの犠牲、私たちに対する主の愛の顕れとしての役目を果たしています。そのようにして、主の晩餐は、ーー説かれた御言葉が恵みの聴解による手段であるのと同じようにーー、恵みの可視的手段であり得ます。しかしそこに合法的叙階がないゆえに、パンと葡萄酒が実体変化したり、あるいは、(二、三人が主の御名によって集まる時に主が共におられる仕方以外のあり方で)キリストが現存するということは考えられないと思います。

 

ー終わりー

*1:訳注:『カトリック教会のカテキズム』1411 有効に叙階された司祭のみがエウカリスチアを司式し、キリストのからだと血になるようにパンとぶどう酒を聖別することができます。

*2:トリエント公会議canon 7, Session 23 を参照。

*3:訳注:

*4:"visible elements"『カトリック教会のカテキズム』819