巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

私の辿ってきた道ーーテリー・クラウチャック修道司祭の信仰行程

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目次

 

Fr. Terry Kraychuk: A Catholic Who Returned from the World - The Journey Home (05-17-2004) 拙訳

 

カナダのカトリック家庭に生まれる

 

私は御父の元に帰還した「放蕩息子」(ルカ15章)です。そして現在に至るまで、神との合一の豊満性への道を日々帰還しつつある者です。

 

私はカナダ、ウィニペグの敬虔なカトリック家庭で育ちました。ウクライナからの移民であった私の両親は教会法の上では一応「ウクライナ・ギリシャ・カトリック〔=ビザンティン典礼〕」でしたが、実際には私たち家族はローマ典礼のカトリック教会の方に通っていました。

 

徐々に信仰から離れていく

 

8歳から11歳頃にかけ二つの事柄をきっかけに私は徐々に信仰の世界から乖離していったように思います。

 

一つ目ですが、私はスポーツに入れ込んでいました。特にホッケーに夢中でした。ホッケーに対する熱中はやがて執着といえるレベルにまでなり、私はこの世界で完璧な自分像を見い出そうと必死になりました。そして自分の求める水準に達することができないことが心理的にも心に影響を及ぼし、そこから不安や恐れの念が生じていくようになりました。最高のホッケー選手にならない限り、自分は決して幸福になれないーー。今やホッケーが人生の全てになっていました。つまり、自分にとっての偶像になっていたのです。

 

それからもう一つの出来事は、祖父の死でした。当時私は9歳か10歳でした。祖父危篤の知らせを受け、両親が病院に向かった夜、私は自分の部屋に架けてあった十字架像の前で「神さま、どうかおじいちゃんの命を取らないでください。」と祈りました。

 

翌朝、両親が戻ってきて、「おじいちゃん、亡くなった」と私に知らせました。失望と悲しみの念がどっと押し寄せてきました。子供の私の目に、神様は弱々しい存在として映りました。「神様はおじいちゃんの命を保つことができなかった。。」それまで両親や教会の人々から、神に信頼し祈ることを教わってきたのですが、その日をきっかけに私はもう神に祈る気がしなくなり、まもなく祈りの生活をやめてしまいました。

 

ドラッグと飲酒はじまる

 

15歳の時、私はドラッグとお酒を始めました。薬物とアルコールは私に安堵感をもたらしてくれました。この世界は不安や恐れから私を解放してくれるように感じました。そして俗にいう「グッド・タイム」を過ごすようになったのです。やがてホッケーからも遠ざかり、私はますます薬物とアルコール、そしてそれに付随するサブ・カルチャーの中に浸かっていきました。高校も退学処分になりました。

 

すべては反抗でした。世の中に溢れている不条理なもの、そして自分の中にある嫌な部分に対する反抗でした。そこに変化をもたらしたいと思っていました。しかし今振り返るとそれは虚偽の反抗でした。イエスも対抗されましたが、彼の場合はサタンやサタンの仕組む奴隷制に対する対抗でした。一方、自分の場合の反抗は、監獄、隷属、世の罠の中にそのまま直入するような形での逃避でした。

 

聖ヨハネは、「すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」は滅び去ると言っています(1ヨハネ2:15-16参)が、解放を願い私がもとめていたのはまさにこれらの「世にあるもの」でした。

 

神の存在に関しては疑っていませんでしたが、私は運命(fate)に従っていくことにより、自分の魂が激しく求めているところの自由を得ることができるのではないかと考えるようになっていました。それで私は「運命」に従い、その結果、「運命」はさまざまな方法で私に報いてくれたのです。パーティー三昧の生活が与えられ、ドラッグの取引きも快調に行き、それら全ては私の心に満足を与えるものでした。

 

「全てから自由になりたい。」

 

「全てから自由になりたい。」カナダも何もかも後にし、僕は今後大地をあてどもなく旅する路上の人になろう。そして運命に導かれるままに動いていこう。よし、南カリフォルニアに向かうぞ。あそこはゴールデン・ドリームの地だ。

 

ハーレー・ダビッドソンを購入した私は、いざ出立しました。長髪を風になびかせ、ニュー・メキシコのハイウェイを疾走しながら私は思ったのです。「やった。ついにやったぞ。」

 

今回は故郷のドラッグ仲間たちでさえ後にし、単身、思う存分、自分の心の欲するままにどこにでも行け、何でもすることができるのです。

 

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ハーレー・ダビッドソン(出典

 

大型バイクにはドープ(〈俗〉マリファナ)やスピード(〈俗〉覚せい剤)をどっしり積み、煙草も何百箱と完備していました。「最高の自由だ!」(しかし実際には、私は自分の欲情の鎖につながれていたのです。)

 

南カリフォルニアに着きました。そこでの生活は自分の想像以上にエキサイティングなものでした。時々、留置所に入れられたり、麻薬取引のいざこざで銃撃されたりすることもありましたが、神はその間もずっと私を守り続けていました。

 

小学校の時に、ギデオン協会という団体から無料で新約聖書をもらったのですが、私は信仰を離れた後も相変わらず、その小型ギデオン聖書をかばんの中に入れ、持ち歩いていました。表紙を開くと「聖書を毎日読むと、あなたは祝福されます」と書いてあります。「それなら、これを読めば、警察や、たちの悪いディーラーたちから守られるってことか」と思い、御守り代わりに持ち歩いていました。

 

ある日、疲労を覚えた私は、高速の脇にバイクを止め、そこに座ってギデオン聖書を開きました。すると、イエスが五千人にパンと魚を食べさせたという箇所が出てきました。みると、「イエスは弟子たちに命じ、草の上に(on the grass)人々を座らせた」とあります。

 

「草の上に座らせた?!草(grass)?!おお、ってことは、イエスもgrass(〈俗〉マリファナ)をやっていたということなのだろうか。それならすごいぞ。」このようにして私は自分の読みたいように聖書を読み解釈していました。なぜならこういった解釈は自分のライフ・スタイルにフィットしていたからです。

 

仲間の一人がハリウッドのスタジオに出入りしており、そこでさまざまなパーティを開いたり、ロックバンド、ピンク・フロイドと交友を持ったりしていました。

 

ピンク・フロイドのライブ(1970年)出典

 

ピンク・フロイドを始めとするロック・スターたちは私の人生のバラードを歌うシンガーたちであり、私もまた彼らと交流を持つようになりました。今や私は峰の頂点にいました。*1

 

しかし同じ時期に、コインの裏側というか、なにかしっくりしないものも目の前にちらついてきました。数回、喧嘩や争闘で私は警察に捕まり、また、自分の理想でありアイドルだったロック・スターたちの行動の中に、なにか白々しいもの、嘘っぽいものがあるのに気づき始めたのです。

 

もう何も生きる目的がない。

 

ある冬の日の朝、私は南カリフォルニアのアパートで目を覚ましました。外を見ると雨が降っていました。その時、外界の雨という経験が、窓ガラスを通し、私の内部に入ってくるような感覚がありました。自分は今頂点にいる。何もかも得ることができた。でも、、まだ足りない。

 

実際私の中は空っぽでした。そして自分の中のその空虚をみた瞬間、自殺衝動に駆られました。高峰の頂点にいると思っていたのに、私は今も尚、谷にいました。そしてもうこれ以上、登上可能な山がないという事実がうつろに目の前にぶらさがっていました。暗い絶望、漆黒の闇が私を覆いました。もう何も生きる目的がありませんでした。なにもかも空しい。

 

「聖書を取りて、これを読め」

 

その瞬間、ある声が私に語りかけました。「聖書を取りて、これを読め。」かばんの中にギデオン聖書があるのを思い出し、私はそれを取り出し、ページを繰ると、「ガラテヤ人への手紙」5章でした。聖書を読むというよりは、向こう側から聖句が自分めがけて飛び込んできているようでした。

 

「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。」(ガラテヤ5章19-21節)

 

聖パウロはここで、神の国に入ることのできない人の肉の働きをリスト・アップしていました。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、怒り、泥酔、享楽、、その一覧を一つ一つをチェックしていったところ、それはまさに自分の人生そのものを物語っていました。

 

「わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。」その時分かったのが、自分はこの地上において何も得ず、全てを喪失しているだけでなく、後に来る世においても、自分の生は空(くう)だということでした。

 

「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」(ガラテヤ5章22-23章)

 

いやだ。私は叫びました。「宗教の類とは一切関わり合いたくない。キリスト教なんて真っ平ごめんだ。ジーザス・フリークなんてふざけるな。」しかしその日から1年2カ月の間、御霊は私の上にとどまり続け、私を追いかけました。

 

薬物を売りに行こうとすると、御霊が私に「テリー、お前はその行為の結末がどこにあるかを知っている。お前は自分が空っぽであることも知っている。お前の行為は間違っている。」と罪の自覚を迫ってきました。それは自分の良心の声でもありませんでした。

 

なぜなら当時の自分の良心は、「他の人は自分の所有物(例えば、ハーレー・ダビッドソン)を盗んではいけない。それは大罪である。しかし自分が他の人のものを盗む分には構わない」というものだったからです。私はどんな事でも自分の都合のよいように解釈することができました。しかし罪の自覚を自分に迫ってくるその声は、透明で、清いものでした。

 

こうして1年2カ月の間、御霊が私を追いかけ、私はそれから逃げ回るという、そのような日々が続きました。私はフロリダに行き、そこでしばらく過ごし、その後、カナダに一旦戻り、仲間たちに再会しました。

 

御霊に憑りつかれ、罪の意識を絶えず呼び覚まさせられるこの状態はうつなのではないかと思い、昔の仲間たちと会うことでまた元のように戻れるのではないかと思いました。私はドラッグと享楽の生活を愛し、それを止めたくありませんでした。

 

再び南カリフォルニアに戻った私は、以前に増して覚醒剤とアルコール漬けになり、その結果、私の体は常に痙攣している状態にまでなっていました。

 

心配した周りの人たちが「クラウチャック、お前は自分を殺しつつある。このままでは本当にやばい。どうにかした方がいい。」と勧告したこともあり、私は、「そうだな。それじゃあ、カナダに戻って、少し落ち着こうと思う」と故郷に帰ることを決意しました。そして長距離バスのチケットを買い、その夜、バスに乗り込みました。

 

再生

 

二日目に入り、バスはユタ州とアイダホ州の州境当たりにいました。すると停留所でバイカー・タイプのヒッピーが二人乗り込んできました。彼らは後方座席に座っていた私を見つけると、近くにやって来、こうして私たちは話を交わし始めました。

 

まずは互いの最新冒険談(パーティー、ドラッグ等)を披露し合いました。しかし、その後、なぜだか分かりませんが話は、神やキリストのことに移っていきました。実際、二人の内一人の方は、私と同じような霊的体験をしつつあると私に語ってくれました。彼と話しながら私は鏡をみているようでした。

 

やがて話すことがなくなり、私は自分の席にまた座り直しました。すると、自分の中で何か驚くべき変化が起こりつつあることに気づきました。

 

私に語りかける声はもはや御霊でさえなく、それはキリストご自身でした。キリストは私に言われました。「テリー、お前の前に二つの道がある。そしてお前は自分の道がどこに向かっているのかを知っている。今、お前にわたしの道を提供しよう。決断しなければならない。」

 

私は透き通るような空間に置かれていました。そしてこの御方の前に私は裸同然で立っており、キリストは私の思い、考え全てを見通しておられました。「主よ、分かりました。私はあなたの道を選ぶようトライしてみます。」

 

次の瞬間、ドープやスピードなどの覚醒剤やマリファナのことを思い出しました。私はそれらの薬物をかばんの中から取り出すと、バス後方部にあるトイレに行き、そこのゴミ箱に薬物一切合財を捨てました。そしてまた席に戻りました。

 

そうすると、自分の酒癖やアル中のことが思い出されました。「主よ、この地上に生きている限り、もう金輪際、酒に手を出さないようトライしてみます。」

 

その瞬間、自分の身に起こったことを言葉で表現することは困難です。それまで一度も経験したことのないような種類の深い平安と喜びが私の内面を満たしたのです。

 

私にしつこくつきまとい、ハンマーで打ち付けていた真理は、抽象的真理ではなく、人格(ペルソナ)でした。彼はリアルでした。そしてこの方が真理そのものだったのです。主は私を愛し続けていてくださいました。そう、自堕落の奈落にいた私をも愛してくださっていたのです。

 

外をみると、その時ちょうど雲が裂け、朝の曙光がバスいっぱいに射し込んできました。森の木々や雪が輝いていました。神に関する一切のことは現実であり、真だったのです。

 

後ろを向くと驚くべきことに、さっき共に語り合ったあのヒッピーもまた、私と同じような神体験をしていたのです。そして私たちは我を忘れたように二人で神の栄光を讃え始めました。

 

バスはシーンと静まり返り、乗客は皆、私たちバイカー・ヒッピーたちの語る内容に耳を傾けていました。そこにいるのは実際、自分であって自分でないような感じでした。しばらくすると前方座席に座っていた人々が後方にやって来て、私たちを取り囲み、腰を下ろしました。

 

その中の一人(ウィル・スペンサーという名前の人でした)が言いました。「私は重度の鬱に苦しみ、自殺を考えていたが、今、神の光について語るあなたがたの話を聞いた。そのことについてどうか自分にもっと語ってほしい。」

 

モンタナでバス休憩があり、私はミニ・マーケットに行き、わずかな持ち金でパンと魚の缶詰を買いました。5時間に渡る改宗体験を経、心も体も宙に浮いているような感じでした。座席に戻ると、私は心の中で思いました。「ああ主よ、こんな時、飲み物があったらどんなにいいことかと思います。セブンアップが飲めたらどんなにいいかと思います。」

 

そして横の席をみると、乗客はすでに下車して居なかったのですが、袋をみるとなんとその人は真新しいセブンアップをそのまま座席に残して下車していたのです!自分のこんな小さい心の願いさえないがしろにされない主のこまやかな御配慮に私は素直に感動しました。

 

福音主義教会へ

 

故郷ウィニペグに戻った私は、両親の通うカトリック教区に行ってみたのですが、自分と同じような新生体験をした人々を周りに見出すことができませんでした。そしてこの点で、自分の身に起こったことをより良く理解してくれるのは、どちらかといえば、エヴァンジェリカル界にいる人々であることに気付き、私は福音主義のラジオ放送を聞くようになりました。

 

そしてそこから福音主義クリスチャンたちとコンタクトを取るようになり、最終的に、その中の一つの教派であるブラザレン集会に通うようになりました。その集会は聖書中心であり、キリスト者としての私の歩みを養ってくれました。

 

しかしながら、月に一回行われていた聖餐式(ユーカリスト)で私は葛藤を覚えずにはいられませんでした。ブラザレンの聖書理解では、パンと葡萄酒はシンボルに過ぎないとされていましたが、私はそれが本当に実体変化することを疑うことができませんでした。

 

そして実際、このユーカリストという戸口から、私はその後約1年をかけ、徐々に自分のカトリック・ルーツに戻るべく導かれていきました。

 

しかしこの時点においてはまだ、「キリスト者であること」と「カトリックであること」は自分の中で一つにはなっていませんでした。ですが、この旅路の中で、主は何人かの敬虔なカトリック信者に出会わせてくださいました。

 

あるカトリック青年会で私は開口一番、そこにいた女性に「あなたは救いを受けましたか(Have you been saved?)」と訊ねたのですが、彼女は「はい。私は救いを受け、〔現在進行形で〕受け続けています(I am being saved)」と答え、忍耐をもって私に対応してくれました。

 

また聖人のことなど、福音主義の人々がカトリック教義に対して抱いているさまざまな疑問に対しても、彼らは一つ一つ丁寧に私に回答してくれました。

 

エスキモーたちの元に

 

改宗して一年後、私は、主としてエヴァンジェリカル界のクリスチャンとのコンタクトを通し、宣教師としての献身に導かれました。行き先は赤道直下のエクアドルか、それとも北のエスキモー特別保留地か、そのどちらかでした。

 

ちょうどこの時期、北方マニトバの青年キャンプで救いの証をした時に、そこに居合わせた先住民族の人々から「私たちも同じように主の恵みの中で薬物中毒から解放された。一度、私たちの居留区に来てほしい」と頼まれていたこともあり、私は彼らの住む未開拓森林地を訪れることにしました。滞在は当初3日間の予定でしたが、結局、私はそこに5年間とどまることになりました。

 

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カナダ、イヌイット族(出典

 

そしてエスキモーたちと過ごしたこの5年間の間に私は、教会の本質、教会の権威などについて体得していくようになりました。

 

共に宣教師として活動していた司祭と私はそりが合わず、いろいろと軋轢があったのですが、そんな時、聖フランチェスコについて書かれた子供用の本を読む機会があり、それを通し私は、教皇や司教の前にへりくだり、彼らの権威に従ったフランチェスコの謙遜の模範に自分も倣わなければならないことを感じました。そしてその過程で、自分のキリスト教信仰と、カトリシズムが別個のものではなく、調和した一つの実体となっていきました。

 

修道院へ

 

5年間に渡る宣教師生活の後、私はベネディクト会修道院で一年間、霊的修養の時を過ごしました。そこで私は修道生活の美しさに初めて目が開かれました*2。その後、カナダ西部ブリティッシュ・コロンビアに修道会附属の神学校(Christ the King Seminary)があることを知り、そこに連絡を取りました。そしてそこで7年間、修道生活および神学の学びをしました。

 

またカナダ先住民族の人々との交流を通し、私は自分のルーツである東方キリスト教伝統に対する再発見をしていくことにもなりました*3。前述しましように、ウクライナ移民である両親は教会法上一応ビザンティン典礼でしたが、実際には私たちはローマ典礼の教区に通っていました。

 

神学校での良き師たちの薫陶により、私は東方伝統、西方伝統その両方のすばらしさ、美しさを発見し、卒業を間近に控え、いったいどちらの伝統内で主に仕えてゆくべきか判断しかねました。1995年のことです。

 

そこで私は教皇ヨハネ・パウロ二世に宛て手紙をしたため、「西方のローマ典礼であれ、東方のビザンティン典礼であれ、あなたが御指示なさるところで私は喜んでお仕えします」と書きました。

 

その直後、あるギリシャ・カトリック教会の掲示板に「ヨハネ・パウロ二世、使徒的書簡『東方の光(Orientale Lumen)*4』」というポスターが貼ってあるのに気づき、図書館でこの文書を借り読み始めたのですが、自分で教皇に手紙を投函するまでもなく、なんと教皇ご自身の方から自分に手紙が送られてきていることを知ったのです。そしてこの使徒的書簡「東方の光」により、私は東方典礼の方に行くことに決意しました。

 

(その後、1996年、クラウチャック師はウクライナ・カトリック教会のdeaconとして任命され、2000年に修道司祭*5に叙階されました。)

 

【補足】「イエスの祈り」についてのQ&A

 

質問者:テリー神父、私は15年ほど前に、ロシアの『無名の巡礼者の手記(The Way of A Pilgrim)』という本を読みました。その中で一人の農夫がフィロカリアを通し、「イエスの祈り(イイススの祈り)」を発見していきます。あなたもまた、「イエスの祈り」を実践しておられますか?

 

テリー修道司祭:はい。「イエスの祈り(イイススの祈り)」は、東方キリスト教における霊的伝統の一つです。これはすばらしい祈りであり、「こころの祈り(prayer of the heart)」と呼ばれています。

 

この祈りを通し、私たちは「わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来てその人と共に住みます」(ヨハネ14:23b)と仰せられたイエスの内住という御臨在の深みへと導き入れられていきます。これは実にユーカリスト的祈りであり、あなたの内に内住されるキリストの御臨在というリアリティーにあなたの意識を向かわせます。

 

東方教会の伝統において、救済というのは、主の神的御性質への参入という要素を包含しています*6。そして神の恩寵により私たちは神がお望みになる者へと変えられていくのです。そして「イエスの祈り」はその部分ーー人間存在の尊厳の回復、神の御臨在等ーーにフォーカスを当てた、パワフルにしてすばらしい祈りです。*7

 

私たちは通常、チョトキ(ギ:コンボスキニオン)という祈りの紐を使って祈りますが、ロザリオの祈りのようにイメージや像は用いず、「イエスの祈り」の場合は、キリストのペルソナの臨在にフォーカスを置きます。祈りは次のようになります。「Lord Jesus Christ, Son of God, have mercy on me, a sinner(神の子、主イエス・キリスト、罪びとである私を憐れんでください。)」私たちは修道生活の基準としてこの祈りを日々実践しています。*8

 

ー終わりー

*1:訳注:以下、デイビッド・クラウド牧師の証し「ロック音楽が私の人生に及ぼした影響」より一部抜粋:

「ドラッグとロックンロールにどんな関係があるのか」とお尋ねになりますか?はい、それはもう密接につながっています!ドラッグ中毒の期間を通し、私は文字通り、ロックンロールの中で食べ、眠り、そしてその中で呼吸をしていました。 

ベトナムにいた時、多くの米兵と同じく、私も高価な音楽ステレオを購入し、何百というロック・アルバムを録音しました。兵舎もバーもナイト・クラブもロックンロール三昧でした。悲しむべきことに、ベトナムにおける米兵の国旗はロック音楽でした。そしてその状態は米国でも同じでした。
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ビートルズ、出典 

東南アジアで購入された何トンというステレオ機器はやがて海を越え、全米に溢れるヒッピーたちのアパートへと持ち込まれました。こうして、醜悪なロックンロールという王たちの支配下に置かれた「巣穴」の中で、何千何万という若者たちがドラッグにより心と人生を蝕まれていきました。

ドラッグとロック。ロックとドラッグ。ーーこの二つはシャム双生児のごとく、密接につながっており、これらを媒介とし、悪霊は人々の人生に入り込み、彼らを破壊していくのです。

私がロック音楽を聴き始めたのは中学校の時(60年代初め)でしたが、たちまちのうちに、私の内にあった倫理的および心理的抑制機能が崩壊していきました。

そしてついにドラックの世界に入った時、私はこういったロックがリアルなものとして自分のうちで生きてきたことに驚きました!なぜでしょう。それは、ロックというものが元々、ドラッグ濫用者たちによって作り出されたものだからです。
hippies macahe wordpress com
出典 

ドラッグという疫病は恐ろしいほどの勢いで拡がっていっています。そしてそれに伴い、ロック音楽もますます人気を博し、かつてないほどの堕落ぶりを見せています。

この二つの世界は一つなのです。つまり、ロックの世界はドラッグの世界であり、ドラッグの世界はロックの世界です。ロックは私の抑制機能を打ち壊すことに貢献し、私を薬物乱用(そして反逆と不品行)に誘いました。そしてドラッグ濫用は私をロックへとかき立てました。

*2:訳注:

*3:訳注:

*4:訳注:

*5:修道司祭(hieromonk*, priest-monk, le moine- prêtre, Ἱερομόναχος, Иеромонах)というのは、東方正教会および東方典礼カトリック教会の司祭職の一つです。

*6:訳注:

*7:訳注:

*8:訳注: