巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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生きがい喪失者の心の世界(by 神谷美恵子)

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出典

 

目次

 

神谷美恵子著『生きがいについて』(みすず書房)より一部抜粋

 

生きがい喪失者の心の世界

 

破局感と足場の喪失

 

この破局感は今まで安住していた心の世界が突然、「音を立てて」「ガラガラと」くずれ去り、「こなごなに」こわれてしまうところからくる。地盤が急に足もとからなだれ落ち、「底知れぬ闇の中に無限に転落していく」のである。

 

...人間というものが皆なんらかの足場を持って生きているということは、これを失ってみてはじめて愕然と意識されるのである。...この闇のなかでひとは方角もわからず、どこまで堕ちて行っても確固たる地盤に達することもなく、ただ宙にただよっているほかはない。

 

いったい自分はどうなるのか、どうしたらいいのか、それを知る手がかりになるものは何一つなく、なにかわからぬものに四方八方からおびやかされている。

 

価値体系の崩壊

 

心の世界がこわれ、足場が失われるということは、とりもなおさず、その世界を支える柱となっていた価値体系も崩れ去るということである。つまり、今まで生存目標としていたものが失われるとき、ひとはもはや何のために生きて行くのか、何を大切に考えるべきか、その判断の基準も分からなくなる。

 

疎外と孤独

 

...生きがいを失ったひとは、みな一様に孤独になる。つまりこういうひとは、人生の明るい大通りからはね出され、それまでそこにはまり込んで暮らしていた平和な世界は急に自分から遠のいてしまい、皆のにぎやかな、忙しそうな生活は自分と何の関係もなくなり、自分はまったく仲間外れとなる。もはや社会にも家庭にも、自分の入り込みうる隙間もない。

 

第一、皆のよろこびや悲しみが自分には少しもピンを来なくなってしまった。もはや何一つ心に訴えるものがなくなってしまった。...自分の所属している集団からの疎外感は、やがて人生全体からはみ出しているという感じをも生む。

 

無意味感と絶望

 

...すべて生きがいをうしなったひとの心の世界では、未来は行きづまりとなり、時間は歩みを停止している。生きていても、自分の内外に何も生成発展するものがない。

 

自己との関係

 

生きがいをうしなったひとは、自己との関係もそれまでとは変ってくる。ふつう家庭や社会の中で「りっぱに」生きているとき、大抵のひとは、自分の値打ちとか、自分の存在の必要性とかについて、なんとはなしに自信を持って暮らしている。

 

しかし、たとえばもしこういうひとたちがひとたび癩(らい)にかかって、ひそかに名前を変え、行方をくらまして療養所にはいったとしたらどういうことになるであろうか。所内の社会では、もはや上層部にどっしりとかまえていることもできないであろう。

 

なぜならここの社会にはべつの価値基準があり、病気の進行程度や肢体不自由度の軽いひとほど価値が認められる。そのほかに問題になるのはせいぜい人格特徴ぐらいで、社会での前歴などは無視される。...このような中に入ってみて、入園者は以前の生活で支えになっていたものをみなはぎとられ、裸の自己に対面することになる。

 

これは少し極端な例かもしれない。しかし、何かのことで生きがいを見失なうような状況にあるひとは、大抵の場合、孤独の中で「自己そのもの」と相対することを余儀なくされると思われる。しかもその自己とは、生存目標を失い、統一原理をうしなった存在であったから、これほど無力でみじめなものはない。

 

...自己に対するこの深刻な嫌悪の泥沼から、どうやってひとは這い上がるのであろうか。自己への憎しみのあまり自殺してしまうひともある。酒や麻薬や享楽に耽溺するひともある。どうせこんなものさ、となれないの形で、すべてを浅くごまかして暮らして行くひともある。発見した自己をそっと隠し、再び仮面をつけて生きて行くひともある。きびしく自己をみきわめ、あるがままの自己をなんの自己弁解もなく、受け入れるほかなくなるひともある。

 

いずれにしても、ここでひとが自己に対してどのような態度をとるかにより、その後の生き方に大きなひらきが生ずるであろう。

 

不安

 

生きがい喪失状態には必ず不安が伴う。そのなかには生理的に起こるもの、社会的状況から起こるものも混ざっているにちがいないが、それらすべての不安といりまじり、つながりあいながら、それよりさらに深いところからきている不安、いわゆる「実存的不安」または「世界観的不安」がほとんどすべての場合に認められる。

 

...このような根源的な不安は、ほかの人間がいいかげんな気持で操作すべきものではない。ごまかさずにこれを経過することによって大きな精神的飛躍がもたらされることもあるのだから、たとえ精神科医でも、慎重に、敬意をもってこれに近づかなくてはならない。むしろ人間はたったひとりでこの不安に直面し、対決しなければならないのである。

 

苦しみ

 

...精神的苦悩は他人に打ち明けることによって軽くなる。なぜであろうか。きいてくれる相手の理解や愛情にふれて、慰めや励ましをうけるということもあろう。しかし何よりも苦しみの感情を概念化し、ことばの形にして表出するということが、苦悩と自己との間に距離をつくるからではなかろうか。

 

...苦悩をまぎらしたり、そこから逃げたりする方法はたくさんある。酒、麻薬、かけごとその他。仕事に異常に没頭することもその一つであろう。しかしただ逃げただけでは、苦悩と正面から対決したわけではないから、何も解決されたことにはならない。従って古い生きがいはこわされたままで、新しい生きがいは見い出されていない。もし新しい出発点を発見しようとするならば、やはり苦しみは徹底的に苦しむほかないものと思われる。

 

悲しみ

 

苦しみにおいては何かしら動いているものがある。これに反し、悲しみの世界では、もはやひとは抵抗することもやめ、あがきからも身を引いている。もがくことをやめた瞬間に、悲しみは潮のように流れ出て心の中のあらゆるものにしみわたり、外界にみえるものまですべてを哀愁の色に染めてしまう。

 

苦しみは精神の一部しか占めないことが多いが、悲しみは一層生命の基盤にちかいところに根をおき、したがってその影響は肉体と精神全体にひろがって行く。ゆえに深い悲しみにおそわれたひとは、何をすることも考えることもできなくなってしまう。苦しみはまだ生命へのあがきといえるが、悲しみは生命の流れそのものがとどこおり始めたことを意味する。

 

ゆえにつきつめてみるならば、悲しみは死と虚無を志向するものといえる。...いずれにしても、深い悲しみに打ちのめされた者の心の眼には、すべてが「死の相のもとに」見える。時間は停止し、未来は真暗な洞窟のようにみえ、どこまで行っても決して明るいところへ出られそうにもみえない。咲く花も、とびかう蝶も、みな空しいではないか。子どもたちの笑い声も、恋人たちのささやきあいも、なんとそらぞらしく響くことであろう。

 

営々として家庭を築いてみても、心血を注いで仕事をしてみても、死はすぐ背後に迫って来ているのではないか。かつては希望や野心に燃え、愛情にもあふれているように思えたのに、もはや荒れ果てた砂漠のように夢も匂もない。人生はすべて虚妄にすぎず、自分もまた生きているかいないものだ。どんな努力もみな無駄としか思われない。

 

...長い年月をかけてなんらかの方法と経路によってこの世界からぬけ出られたとしても、ひとたび生きがいをうしなうほどの悲しみを経たひとの心には、消えがたい刻印がきざみつけられている。それはふだんは意識にのぼらないかもしれないが、他人の悲しみや苦しみにもすぐ共鳴して鳴り出す弦のような作用を持つのではなかろうか。

 

さらにこれは現世や自己に対する一種のニヒリズムをかもし出し、それがそのひとの価値判断にも知らぬ間に影響を及ぼしていると思われる。そのニヒリズムは、ともすれば現世の事物や人間との結びつきをゆるくするから、そこに愛の心の生み出すあたたかさが不足すると、冷たいシニシズムや皮肉な態度や厭人的な心の姿勢がうまれるであろう。しかしもしそこにあたたかさがあれば、ここから他人への思いやりが生まれるのではなかろうか。

 

...しかしもし、ブラウニングがいったように、深い悲しみが生の流れに投ぜられた石だとしても、流れは常にその石にせかれてしまいはしない。たとえその石を動かすことができなくとも、これをのりこえてやまないのが生命の力であろう。こうしてひとは性(しょう)こりもなく悲しみの中からまた立ち上がり、新しい生き方を見い出し、そこに新しい喜びすら発見する。しかしたとえ発見しえたとしても、ひとたび深い悲しみを経て来たひとの喜びは、いわば悲しみの裏返しされたものである。

 

その肯定は深刻な否定の上に立っている。自己をふくめて人間の存在のはかなさ、もろさを身にしみて知っているからこそ、その中でなおも伸びてやまない生命力の発現をいとおしむ心である。そのいとおしみの深さは、経てきた悲しみの深さに比例しているといえる。

 

苦悩の意味

 

...苦悩がひとの心の上に及ぼす作用として一般に認められるのは、それが反省的思考をうながすという事実である。苦しんでいるとき、精神的エネルギーの多くは行動によって外部に発散されずに、精神の内部に逆流する傾向がある。

 

そこにさまざまの感情や願望や思考の渦がうまれ、ひとはそれに眼を向けさせられ、そこで自己に対面する。人間が真にものを考えるようになるのも、自己にめざめるのも、苦悩を通してはじめて真剣に行なわれる。

 

...いずれにしても自己に課せられた苦悩を耐え忍ぶことによって、その中から何ごとか自己の生にとってプラスになるものをつかみ得たならば、それはまったく独自な体験で、いわば自己の創造といえる。それは自己の心の世界をつくりかえ、価値体系を変革し、生存様式をまったく変えさせることさえある。ひとは自己の精神の最も大きなよりどころとなるものを、自ら苦悩のなかから創り出しうるのである。

 

知識や教養など、外から加えられたものとちがって、この内面から生まれたものこそいつまでもそのひとのものであって、何ものにも奪われることはない。中世紀の、あのひなびた味のする聖フランシスの『小さき花』にある通りである。

 

「苦しみと悲しみの十字架こそ、われわれの誇りうつものである。なぜならば『これこそわれらのもの』であるから。」

 

ー終わりー

 

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