巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

私の辿ってきた道ーーアルバート・ホールダー氏の信仰行程

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目次

 

Albert Holder: Former Reorganized Church of Jesus Christ of Latter Day Saints, 2012(抄訳)

 

復元末日聖徒イエス・キリスト教会(RLDS)宣教師家庭の子として

 

私は、「復元末日聖徒イエス・キリスト教会」(The Reorganized Church of Jesus Christ of Latter Day Saints:RLDS、現名称「コミュニティ・オブ・クライスト」)の宣教師家庭に生まれました。

 

父はRLDS七十人会長会(The Seventies)の役員として、1960年代後半から70年前半にかけホンジュラス、ブラジル、メキシコ等で開拓ミッションに従事しており、兄と姉はブラジルで生まれました。私が生まれる直前に両親はRLDSの本部ミズーリ州インディペンデンスに再召喚されました。

 

「末日聖徒イエス・キリスト教会/モルモン教会」と「復元末日聖徒イエス・キリスト教会」の共通点と違いについて

 

「末日聖徒イエス・キリスト教会(モルモン教会:LDS)と、あなたの復元末日聖徒イエス・キリスト教会(RLDS)は同じですか?それとも両者は違う団体なのですか?」とお尋ねになる方がいるかもしれませんので、まずはこの二つのグループの起りについて簡単にご説明したいと思います。

 

まず、LDSもRLDSも共に、ジョセフ・スミスを宗派の創始者とみなしています。そして両者共に、「使徒たちの死後、初代教会は大いなる背教の時期に入り、19世紀になって神が預言者ジョセフ・スミスを起こされ、真の教会および、メレキゼデク・アロンの祭司制が回復された」ということを信じています。*1

 

Peter, James. and John conferring the priesthood on Joseph Smith

末日聖徒イエス・キリスト教会HPより*2

 

ジョセフはニューヨークで「啓示」を受け、その後、信奉者たちと共に西部へと移動して行きます。この時期におけるモルモン教とフリーメーソンの相互関係は有名です*3。1844年、ジョセフは暴動罪により収監され、イリノイ州カーセージの牢獄で武装した暴徒によって暗殺されました。その結果、グループ内に権威の空洞が生じ、十二使徒定員会のブリガム・ヤングがその空洞を埋める形で教団後継者の座に就きました。

 

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ブリガム・ヤング(1801-1877)

 

しかしながら、ジョセフ・スミスは暗殺される前に、(ブリガム・ヤングではなく)自分の息子であるジョセフ・スミス三世を後継者として任命するとの預言を残していたのです。実際、旧約の祭司制に則ったスミスの啓示および教えによれば、真の祭司制においては血統が非常に重要なのです。

 

それゆえ、スミスの正妻エマ及び息子ジョセフ・スミス三世らは、ブリガム・ヤングたちのグループと共にユタ州には行きませんでした。しかし当時スミス三世はまだ14歳の少年であり、後継者としての任務を果たすことができませんでした。

 

ですがそれから12年後、彼が26歳になった時に、スミス三世はついに、本来の教会を「復元;reorganize」し、こうして復元末日聖徒イエス・キリスト教会(RLDS)が発足したのです。

 

ですから平たく言いますと、

★「ブリガム・ヤング」のフォロワー=モルモン教徒(LDS)

★「ジョセフ・スミスの息子」のフォロワー=復元末日聖徒イエス・キリスト教徒(RLDS)

という具合になります。

 

そして前述しましたように、両者共に、ジョセフ・スミスの教説および「モルモン書」に対する共通した信奉を持っていますが、相違点も幾つかあります。

 

例えば、LDSと違い復元派は、創立当初から一夫多妻制教義を否定してきました。またLDSは「モルモン書」「教義と聖約」「高価な真珠」を三大聖典としていますが、RDLSは、「高価な真珠」を聖典とは認めていません。*4

 

一方、共通点としては、オープン聖典制が挙げられるかと思います。3-4年毎に私たちの「預言者」が預言的言明としての神託を神から受け取り、それを公表します。

 

ですが興味深いのは、預言者が3-4年毎に受けるそういった「新しい啓示」は、人々の「投票」によって採決/否決されるのです。ここには、モルモン主義における「預言システム」と、「アメリカ的民主主義」とのコンビネーションがあると思います。またブリガム・ヤングがジョセフ・スミスから教示されたという「アダムー神 セオリーAdam-God theory」も有名です。

 

それから、三位一体説をLDSが否定していることは周知の事実ですが、復元派の間ではそれほど教義が明確化されていなかったと思います。

 

というのも、ブリガム・ヤング派は規模においても組織化においても、私たちの復元派よりもずっと大きく、創立後200年の間にそれなりに教義の合理化がなされてきたのに対し、少数派である復元派は草の根的存在で、より素朴な形で聖書やジョセフ・スミスの文書に当たっていたように思います。ですから私の属していた教会の中には三位一体説を信じる人もいれば否定している人もいました。

 

さて、父はその後もテキサス、オクラホマ、ルイジアナ等で開拓ミッションを続けており、私たち家族は2年おき毎に移動していました。しかし1980年代に入り、父は「私はモルモン主義福音に対し深い懸念がある」ともらし始めました。

 

実は70年代後半から父は日曜説教の時にその他のモルモン聖典を引用することを差し控え、説教のほとんどを聖書だけから為すようになっていました。(但し、私たちが使っていた聖書は、霊感訳聖書〔ジョセフ・スミス・ジュニア訳*5〕でした。)

 

「大いなる背教」

 

父はC・S・ルイスを長年愛読していました。そのためでしょうか、宣教活動の初期から彼の中には、「復元末日聖徒イエス・キリスト教会が主張している『大いなる背教*6』説は本当なのだろうか?」という一抹の不安があったようです。というのも、「大いなる背教」があったということは私たち皆の前提でしたが、それが具体的にいつ起こったのか(4世紀のコンスタンティヌス帝のバプテスマの時だったのか、それよりももっと早い時期だったのか)ということを誰一人特定化できていなかったのです。

 

でもとにかくどこかの時点で「背教」があり、暗黒時代がやって来、使徒時代の光が消えたことは確かなはずでした。そしてジョセフ・スミスの到来によって再び光が灯されました。そしてそれこそがモルモン主義の存在目的に他ならなかったのです。つまり、モルモニズムの光の到来によって、再びこの地上に真の福音、そして真の教会が回復されたのです。*7

 

「新しい啓示」

 

1980年代前半、私たち家族は開拓宣教のためにブラジルのサンパウロに派遣されました。それから一年した後、教会の代表者である「預言者」に新しい啓示があり、それによると今後、祭司制が女性にも開かれる(→女性への神権授与)とのことでした。また、聖餐を他宗派の人々にもオープンにすべき(→閉鎖コミュニオンからオープン・コミュニオンへの方針変更)との新啓示も下りました。

 

これを聞いた父は、「これはリベラリズム、そして偽りのエキュメニズムではないだろうか?」と非常に懸念し始めました。復元派の指導層がメインストリームキリスト教と足並みをそろえる方向に向かおうとしている徴候が伺われました。

 

父は読書と研究により、ジェンダー問題を巡って聖公会でどのような事が起こっているのかをよく知っていました*8。こういった諸問題に関し、父は、クリスチャン作家であるシェルダン・ヴァヌーケン(Sheldon Vanauken)と書簡でのやり取りを始めました。

 

ヴァヌーケンは無神論者でしたが、苦しみを耐え抜き召天していった信仰者の妻の死に様を通し、キリストへの信仰に導かれ、聖公会信者となりました。しかし聖公会が女性司祭制を導入したことを契機に彼はローマ・カトリックに改宗しました*9

 

おそらく、父は、聖公会内でのジェンダー問題についてヴァヌーケンの書いた論文を読み、彼に連絡を取ったのではないかと思います。そして「祭司制」の本質探求はさらに、父を、アンリ・ドゥ・リュバック、ブイエなどのカトリック神学者たちの著述に導いていきました。

 

復元派内での分裂

 

こうして1984年に、女性祭司およびオープン・コミュニオンが新啓示として導入されたことにより、復元派内にいわゆる「リベラル派」と「保守派」の分裂が生じました。

 

父はサンパウロでの宣教活動を続けながらも指導者層との間での軋轢に悩み、教理問題で苦しんでいました。そしてある日父はヴァヌーケンからの返答を受け取ったのですが、その書簡の最後に、「いっそのこと、母なる教会(Mother Church)に戻られてはいかがですか?」と書き添えてありました。

 

「母なる教会。。。」父は息をのみました。後に父はこの時の事を回想し、「自分の目を覆っていた鱗が落ちた瞬間だった」と述べています。

 

そうこうする内にも指導者層のリベラル路線はますます明らかになっていき、父はもうこれ以上この文脈の中にとどまることができないと限界を感じ始めていました。こうしてついに彼は長年務めてきた職業的宣教師のポストを降り、無職となって私たち家族を引き連れ、米国に引揚げることに決意したのです。

 

末っ子だった私は当時まだ13歳でした。自分は覚えていないのですが、父は今後自分たち家族が直面するであろう生活や人間関係上での激変に子ども達が果たして順応できるのかどうかを案じており、一番幼かった私に、「お父さんはね、宣教師であることをやめて、皆でアメリカに戻ることにしたんだ。アルバートはそれについてどう思う?」と訊いてみたそうです。すると、私はわっと泣き崩れたそうです。

 

私は生まれた時から宣教師の子として、復元末日聖徒イエス・キリスト教会の小さく、親密なコミュニティーの中で育ってきました。父の宣教師仲間のことを私たち子供は「アンクル(おじちゃん)」と呼んでおり、全ての人間関係は、RLDSを中軸にし、織りなされていました。

 

父、宣教師をやめ、一家で米国に引き揚げる

 

米国に引き揚げた後、父は学校教師の職に就き、それと同時に大学院で英語学の修士課程を始めました。(そして大学院でますます多くのカトリック思想家の著述に親しんでいくようになり、少なくとも知的なレベルにおいてカトリシズムの真理を確信するようになっていきました。)

 

一方、復元派教会の混乱は続き、(ユタ州のブリガム・ヤング派モルモン教会に比べ)ただでさえ規模の小さかった私たちの教派は、この分裂によりさらに小さくなり、その結果、私たちは南テキサスにある自宅でRLDS伝統派の人々と共に主日礼拝を行なうようになっていました。(60家族位がわが家に集まっていました。)

 

私たちの群れは、一切の制度的教会から離れ、いわゆる「分離派グループ」となっていましたので、アイデンティティーの確立および自己存在の正当化というのが目下、焦眉の問題となっていました。

 

それゆえか、群れの中で、いろいろと「霊感」を受ける人々が起され始め、「ヨハネの黙示録に書いてあるように、神は真の教会を『三日の間』地下に隠される」とか、「三年の間、それは続く」とか、様々なことが語られました。

 

「ゆるしの秘跡」の必要性

 

1988年(家庭での集会が始まって4年目)、父は30年来の役員仲間である信仰の友と腹を割っていろいろなことを話し合っていました。その時、祭司制についての話の中で、父の友が、「君が言っているのは、つまり、祭司には罪をゆるす権威があるっていうことではないだろうか?」と父に問いかけたそうです。

 

「この問いかけがなかったら、私はさらに決断を10年延ばしていたかもしれない。」と父は後に述懐しています。カトリック改宗の可能性は84年から父の脳裏にあったものの、父は子ども達のことを案じ、「子供たちが成人するまでこのまま待とう」と考えていたそうです。しかし友人の問いは父に、ゆるしの秘跡の必要性を確信させました。

 

こうして父は、復元分離派の教会を牧会しながら、カトリック教会でのRCIA(入門講座)に通い始めました。私の母はカトリック家庭で育ちましたが、いろいろな経緯があって復元末日聖徒イエス・キリスト教に改宗していました。

 

父は、当時婚約者であった母が、カトリックの女性修養会の中で、「あなたはカトリック教会を離れてもかまいません。なぜならあなたが今導かれようとしている教会(=RLDS)こそ真の教会であり、カトリック教会はバビロンの大淫婦です」というお告げを聞いたと(彼女から聞いたと)思っていました。そのため、母はカトリック教会に戻ることに大抵抗するだろうと覚悟していたそうです。

 

しかし打ち明けてみると、母はむしろ喜び、しかも、そのような「お告げ」の体験はしていなかったと父に確証したのです。(父は母の話を願望的解釈で読み込んでいたらしいのです。)こうして89年の復活徹夜祭に、両親はカトリック教会に入りました。

 

父の「裏切り」

 

当時、私は高校三年生で、すぐ上の兄は大学院生でした。私にとって両親の改宗劇は、大地を揺るがすような大惨事でした。私は父がこのような形で自分たちのことを裏切り、見捨てるとは思ってもいませんでした。父がカトリック教会に入る実に二カ月前まで私たちは以前と変わらず自宅でRLDSの主日礼拝を捧げていたのです。

 

そして前述しましたように、当時の集会メッセージは、小さくなった私たちの分離派グループの自己存在正当化にますます集中していきつつありましたので、「自分たちのグループは正しく、他の全ての群れは間違っている」というメンタリティーが群れに充満していました。

 

こうして私の中で、神の主権のテリトリーが、普遍的キリスト教会→モルモン教会→復元派教会→復元派分離グループという風にどんどん縮小されていっていました。

 

父がRCIA(カトリック入門講座)に通い始めた頃、集会の中のある人々は(善意から)母に父との離縁を勧めていました。それによって霊的に彼を正気に戻させ、再び正道(=モルモン主義)に立ち返らせるためです。そして私たちにも「あなたのお父さんはね、残念なことに今、悪霊の影響下にあるの」と言っていました。ですが、(父に対して腹は立てていたものの)彼が悪霊に憑かれているという風にはどうしても思えませんでした。

 

独りぼっち

 

高校を卒業した私は、上の兄二人がいるユタ州ソルト・レイクシティーの大学に進学し、兄たちと一緒に暮らし始めました。父と離れて、また生活は元通りになると思っていました。

 

それなのに、6カ月後、一番上の兄がRCIAを受講し始め、カトリック教会に入り、翌年には二番目の兄もカトリックに改宗しました。皆が自分を見捨てていっているように感じました。

 

そこで私はこう思ったのです。「神というのは、全ての宗教よりも大きい方である。従ってどれか一つの宗派だけが排他的に正しいということはない。皆それぞれ良い洞察点がある。だから自分は今後、どの制度的教会にも関わらないことにする。そして自分なりに最善を尽くし、それぞれの宗派の良い部分を折衷的に取り入れ、神信仰を保持していくことにしよう」と。

 

しかしそうは言いつつも私は内的に幸せではありませんでした。なぜなら幸福は、結局のところ、神に捧げられた人生の中に見い出されるということを知っていたからです。しかし当時の私は、神との間に一種の壁を作らずにはいられませんでした。そしてその状態が数年続きました。

 

恵みへの戸口

 

私の専攻は数学および工学でしたが、人文科学系の課目も一つ履修しなければならなかったので、時間割の都合に合う「西洋中世詩講読」というコースを取ることにしました。蓋を開けてみるとそのコースの講師ウェーリング氏は敬虔なカトリック教徒であり、彼はジョン・ヘンリー・ニューマンに関する博士論文を執筆している最中にありました。

 

こうして私は、ジョン・ダン、ホプキンズ等、カトリックの詩人たちの作品に触れ、それが自分にとって恵みへの戸口となりました。というのも、当時の自分のメンタリティーは、弁証的アプローチを拒んでいましたが、「詩」の世界を通し、神は私にカトリシズムの美しさを見させてくださったからです。

 

コースが終了する頃までに私はウェーリング教授と親しくなっていました。そして彼は私に「もしも中世思想や詩を学びたいのなら、こういう州立のマンモス校ではなく、こじんまりとした私立のリベラル・アーツ大学に行った方がいい。なぜなら州立大では、トマス・アクィナスであれ何であれ、〈フェミニズム〉のレンズやら、〈脱構築〉のレンズやらで読まなきゃならないプレッシャーがあるが、私立なら比較的そういったものから自由に源泉資料に当たることができるから」と助言をくださいました。

 

私立のリベラル・アーツというと、カトリック系か、プロテスタント系か、どちらかを選ばなければなりません。私の偏見的イメージではプロテスタントは「イエスを心に受け入れるよう」私に改宗を迫ってくるのに対し、カトリックは各自をそのまま放置し好きにさせてくれている感じがしていたので、それならカトリック系の大学のほうがましかなと思い、その旨を父に伝えました。

 

すると父は、フランシスカン大学スチューベンビル校を勧め、夏に二人で学校見学に行きました。休暇中で大学はガラガラでしたが、事務局の計らいで、私たち父子は、フランシスカン大学で組織神学を教えているスコット・ハーン教授の家を訪問しました。

 

私はスコット・ハーン氏がいかなる人物なのか全く知りませんでしたが、彼が「この学校に来てごらん。君は、thriveするだろう」とおっしゃった時、何か分からないけれどもその一言が光となって心の中に射し込んできました。そしてこの大学に進学することを決意しました。

 

エピローグーー「おお主よ、あなたはそこにおられるのですか。」

 

1992年10月、聖フランシスコの祝日に私は大学のチャペルで行なわれていたミサに参加していました。頭の中では教義的な葛藤が尚も続いていました。でもある瞬間に目を上げ正面の祭壇をみた時、神の恩寵により、私はそこにキリストの現存があることが分かったのです。「おお主よ、あなたはそこにおられるのですか。」

 

こうして1993年の春、私はカトリック教会に入りました。

 

ー終わりー

*1:ジョセフ・スミスは、1820年の春、近くの森に行き、ひざまずいて祈ったところ、神より示現を受けたと主張しています〔ジョセフ・スミス―歴史1章16-17節〕。

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ジョセフの主張によると、示現の中で、父なる神とイエス・キリストがジョセフ・スミスに現れ、イエスはジョセフに「すべて間違っている」ため、どの教会にも加わらないように告げ、イエスと使徒の死後、長い間失われていた「神権」(儀式を行うための神の権威)と「教義」を回復するためにジョセフが神から選ばれたとされています。またモルモン教会の信条によると、1829年、23歳になったジョセフ・スミスの元にバプテスマのヨハネが現れ、ジョセフ・スミスと同僚のオリバー・カウドリにアロン神権(洗礼を行う権威)を授けたとされています。さらにペテロ、ヤコブ、ヨハネが現れ、ジョセフ・スミスとオリバー・カウドリにメルキゼデク神権を授け、初期キリスト教会と同じ権威を回復され、さらに1830年、同じ神権の権能により、初期キリスト教会と同じ組織が回復されたとされています。参照.

*2:以下、「回復のメッセージ」(末日聖徒イエス・キリスト教会HPより引用)「永きにわたって確立された主の規範によれば、主の教会が回復されるにあたり、いくつかの鍵となる出来事が起こる必要があるのです。

1820年に最初の示現を通して、鍵となる第一の出来事が起こりました。天は開かれ、ジョセフ・スミスは天の御父とその御子、イエス・キリストの真の神性を学び、御二方より指導を受けたのです。 

第二の鍵となる出来事は、モルモン書の出現でした。モルモン書はイエス・キリストの神性を証明する第二の証であり、ジョセフ・スミスが預言者であることを確認するものです。

最後の鍵となる出来事は、救いに欠かすことのできない儀式を執行する権能を要する、アロン神権およびメルキゼデク神権の回復です。 

「わたしたちは地上にイエス・キリストの完全な福音が回復されていることを世界に宣言しています。」L・トム・ペリー長老

*3:関連記事: フリーメーソンとモルモン教Mormonism and Freemasonry、Pres. Anthony W. Ivins, The Relationship of "Mormonism" and Freemasonry, 1934 (online).

*4:ただし、『高価な真珠』の中の、「モーセ書」と、「ジョセフ・スミスーマタイ」の二書は聖典として認めています。訳注:Pearl of Great Price

*5:聖書のジョセフ・スミス訳(末日聖徒イエス・キリスト教会のHPより).

*6:訳注:「大いなる背教」に関するモルモン教会の解説記事およびビデオ。末日聖徒イエス・キリスト教会のHPより。

*7:訳注:「初代教会背教→暗黒時代→回復運動」という教会史観についての関連記事

*8:訳注:

*9:詳しくはSheldon Vanauken, A Severe Mercy