巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

あゝ、歴史的典礼はなんと美しく、深く、躍動的であることでしょう!

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The Rorate Caeli Mass〔ローマ典礼〕(出典

 

 「過去の歴史をもってキリストは、彼の秘跡において、時を旅する途上にあります。私たちはその出来事に取り込まれました。その出来事は一方で、過ぎ去る時を乗り越え、教会の秘跡執行において、私たちの間に現存します。

 歴史全体がキリスト論的に収斂していくことは、歴史の典礼的伝達であると同時に、復活した方の現存の中に受け入れられたために、過去と現在、未来にかかわる時の新しい経験の表出です。...典礼的現在は常に同時に、その中に終末論的希望を担っています。」(ヨーゼフ・ラッツィンガー*1.)

 

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出典

 

「終末論的な舟を象徴する聖堂の中央(中堂)は、ドームでおおわれている。このドームは、新たな創造、キリストによって創造主と結び付いた宇宙をあらわしている。...ドームと聖堂内部との結びつきは、天上の世界が地上に垂直に降りてくることを示し、神・人としての教会の神秘をあらわしている。」(オリヴィエ・クレマン*2.)

 

「聖堂全体が『神の王国』をかたどった、一つのイコンでなければならない。古代の聖使徒規則は、聖堂は東に向かって建てるように定めている。『東』は永遠の光が立ち昇るところであって、聖バシレイオスも言っているように、信徒はいつも東に向かって祈らなければならないのだから。」(オリヴィエ・クレマン*3.)

 

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The Rorate Caeli Mass アド・オリエンテム(東向性、"Facing East")〔ローマ典礼〕(出典*4

 

 「このキリスト教的祈りの『東向性』は、いろいろな意味合いと結びついています。東を向くことはまず、キリストを神と人との出会いの場として見つめることを単純に表示しています。それは私たちの祈りのキリスト論的基本形式を表します。

 人がキリストを、昇る太陽に象徴して見ることは、終末論的に規定されたキリスト論を示唆し、太陽は、歴史の終局的な日の出である主の再臨を象徴しています。また東を向いて祈ることは、来るべきキリストを迎えに出ることを意味しています。

 ...東に向けられた典礼は、いわばキリストにおいて私たちを迎える、新しい天と新しい地を目指す歴史の未来への行進に入ることです。それは希望の祈願であり、その受難と復活が私たちに示すキリストの生命に向かう途上の祈りです。」(ヨーゼフ・ラッツィンガー*5.)

 

聖霊への祈願であるエピクレーシス。〔ビザンティン典礼〕*6

 

 「エウカリスチア〔=ユーカリスト〕は、、天上の典礼に加わり、イエス・キリストが捧げる崇拝の行為と同時化することであり、そこにおいて、キリストはその体を通してこの世の時間を取り込み、同時に絶えず自己の殻を破ってそれ自体を超えさせ、永遠の生命の交わりに導き入れます。

 それで祭壇は、東である方が、集められた者たちの共同体に入っていくことと、また共同体がこの世の牢獄のしがらみから出ていくことを意味します。それは今や、開かれた垂れ幕を貫き通り、過越に参与し、キリストが拓いたこの世から神への『橋渡し』を通して出ていくことです。...祭壇はいわば、天が開かれる場です。それは教会空間を、閉じるものではなく、永遠の典礼の中へと開くものです。」(ヨーゼフ・ラッツィンガー*7.)

 

ー終わりー 

*1:ヨーゼフ・ラッツィンガー著『典礼の精神』

*2:オリヴィエ・クレマン著『東方正教会』

*3:オリヴィエ・クレマン著『東方正教会』

*4:トリエント・ミサ。司祭の動作に注目してみてください。何一つとして無意味でランダムなものがなく、そこには宇宙的秩序と静寂さが満ちています。深い神への畏敬のうちに執り行われる典礼は、聖別された司祭の祈りを介し、私たち一人一人をキリストの神秘の深奥へと導いていくのだと思います。

*5:ヨーゼフ・ラッツィンガー著『典礼の精神』

*6:この祈りの中で、司祭は私たちのもとに聖霊を遣わし、この聖霊によって、パンとぶどう酒が救世主の体血になるように祈願します。VTRは、ルーマニアの正教会でのDivine Liturgyです。

*7:ヨーゼフ・ラッツィンガー著『典礼の精神』