巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

ミサとヨハネの黙示録ーー小羊の晩餐(スコット・ハーン、フランシスカン大学)

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Dr Scott Hann, The Lamb Supper(抄訳)

 

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スコット・ハーン(1957-)

 

1970年代に私は聖書信仰のプロテスタント教会で信仰を持ったのですが、その当時、聖書研究会に参加していた仲間たちは皆、ヨハネの黙示録の研究に熱中していました。

 

70年代前半といえば、ハル・リンゼイの『地球最後の日』が発売され、3000万部以上の爆発的売れ行きがあり、私たち学生たちは皆、「反キリストとは誰/何を指しているのか?」「獣の刻印とは何か?」「再臨はいつか?」「千年王国はいつ実現するのか?」等の特定化に余念がありませんでした。

 

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そして片方の目はCNNの国際情勢最新ニュースに、そしてもう片方の目はヨハネの黙示録に注がれていました。各時期にメディアの大見出しで大々的に取り上げられている有名人物が「反キリスト」の候補として挙げられていました。

 

しかし10年余、こうした潮流の中で聖書研究を進めた挙句気づかされたのは、ヨハネの黙示録に対する私たちのアプローチ自体がまずいのではないか、ということでした。

 

というのも、私たちは皆、血眼になってヨハネの黙示録の中に「反キリスト」特定の鍵を見い出そうとしていたのですが、黙示録の中に実は「反キリスト」という語は一度も出てきていないのです。また「獣の刻印」にしても、この語は黙示録13章になってようやく登場してきます。

 

それから千年王国説に関してですが、私は、前千年王国説、無千年王国説、後千年王国説ーー、この三説をすべてトライし、どうにか千年王国観に聖書的整合性を持たせようとしていました。ですが次第に明らかになっていったのは、三説ともに良い洞察点がある一方、それぞれ弱点も抱えているということでした。さらに「千年王国」という観念自体、黙示録の20章にならないと出てきません。

 

そのため、次第に私は黙示録研究に対し意気消沈していくようになりました。正直、この書に真に包括的解釈を施すことのできる人はいるのだろうかと悩みました。それで結局、私は黙示録から一旦距離を置くことにし、こうして1年以上、私の本棚の中の「黙示録」は埃をかぶってそのまま放置されていました。

 

その後私は、改革派教会の牧師職を一旦やめ、マルケット大学院の博士課程で組織神学を研究していたのですが、当時「カトリック問題」があらゆる側面で浮上してきており、さらにこの時期、私は、カトリシズムに対して脅威を感じる以上に、その中にあるものに積極的意義を見い出すようになっていきつつある過渡期にありました。

 

2、3年、教父文書を読み、考察を深めていたのですが、3年目に入り、ある日私はついに一つのことを敢行することに決意しました。ーーそうです、ミサを見学に行くことです。

 

そこで、ある平日の正午、マルケット大学の地下にあるチャペルにそっと忍び込みました。(小脇にノートとペンと聖書をかかえて。)ミサ全体を観察したかったので、席の一番後方部に腰を下ろしました。

 

ミサが始まりました。それまで積み重ねてきた古代典礼および聖書の研究により、今、自分が目の前にみているユーカリスト典礼(=ミサ)が新旧約聖書両方の諸要素を反映していることは疑いようがありませんでした。

 

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しかし一番印象的だったのが、前半部の「みことばの祭儀(Liturgy of the Word)」が終わり、後半部の「ユーカリストの祭儀(Liturgy of the Eucharist)」に入ったところで会衆が、「世の罪を取り除く神の小羊。キリエ・エレイソン(主よ、憐れみたまえ)」と詠唱し始めたその時でした。

 

彼らはこの句をさらに二回唱えた後、跪きました。すると司祭が「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」と唱えました。二分弱の間に、「神の小羊」の句がなんと四回も繰り返されたのです。

 

気が付くと私はもはや地下のチャペルにはいませんでした。ヨハネの黙示録の世界にいたのです!黙示録の中には22章に渡り、「(神の)小羊」という語が実に28回も登場してきています。

 

黙示録の中でイエスはさまざまな称号で呼ばれていますが(例:主の主、王の王、アルファでありオメガなる方)、その中でも「神の小羊」としてのイエスのイメージは他を凌駕しています。他の新約聖書においてはただヨハネの福音書の冒頭で「神の小羊」が二回出てきます。それがどうでしょう。黙示録に入るとなぜかこの語が28回も登場してくるのです。

 

私は長年、黙示録を研究してきましたので、この書におけるイエスの主たる称号が「神の小羊」であることは知っていました。しかし「なぜ」そうなのかはずっと謎に包まれたままでした。

 

私は聖書の一番後ろを開き、黙示録のいかなる文脈で「神の小羊」という称号が使われているのかを調べ始めました。ページを繰りながら前方を向くと、人々が聖体を拝領しようと前に進み出ていました。そこには紛れもないキリストの現存があり圧倒されましたが、そうしながらも私は尚黙示録のページを繰らずにはいられませんでした。

 

ミサが終わった後も30分ほど席に残り、黙示録を読み続けていました。そして帰宅してからもまた聖書を取り出し、黙示録を1章から22章まで全部読み進めていったのですが、それは自分にとって「発見」の瞬間でした。

 

これまで何度も黙示録を読んでいたのに、今はじめてこの書を本当に読んでいる感じがしました。その日の午後、生まれて初めてみたミサ典礼の内容が、黙示録のあらゆるページに編み込まれているではありませんか!千年王国に関する20章でもなく、獣の刻印に関する言及のある13章でもなく、冒頭のパラグラフに次のような描写があります。

 

「わたしは、語りかける声の主を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見え、燭台の中央には、人の子のような方がおり、足まで届く衣を着て、胸には金の帯を締めておられた。」(黙1:12-13)

 

大祭司が祭服を着、エルサレム神殿の犠牲の祭壇横に備えられていたマノラの脇に立っていたということは前から知っていたのですが、突如として私は、続く2章、3章...の中のリトルジカルなイメージ、リトルジカルな機能、リトルジカルな祭具ーー香、歌、祈り、ラッパ、祭壇、七つの封印が解かれた後開かれた巻き物、ぶちまかれた鉢などーーの一切がミサの中に現出していることを知ったのです。

 

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出典

 

その後続けてさらに二回、黙示録を通読しました。そして黙示録の冒頭、中盤、後半、それらすべてを結び貫く一本の金の糸、それが天的典礼(heavenly liturgy)であることを発見したのです。

 

イエスはパトモス島に幽閉されていた聖ヨハネに啓示を与え、その啓示録はアジヤにある七つの教会に送られました。そうすることにより、諸教会で典礼を祝われる際、彼らが実際どこに在たのかということが明らかになるためでした。

 

彼らは天にいました。彼らは天で何をしていたのでしょう。そうです、彼らは御使いや栄化された聖人たちが為していることと同じ事を為していたのです。

 

また彼らは、そういった天的典礼からどれほどの力(ディナミス)が発出されるのかということも発見しました。なぜなら、黙示録の中でイエス・キリストが究極的にサタンに勝利されたのは、ただ単に「終末」の時だけではなかったのです。まさしく小羊の典礼(小羊の晩餐)のただ中において、それは起こっているのです。

 

急にヨハネの黙示録が生きたものとなって私に迫ってきました。「典礼」と「黙示録」の間にこれほどまでに明瞭なる相関性があろうとは全く気付いていませんでした。実に両者は全き調和と一致の中にあるのです。

 

ー終わりー