巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

カンタベリーからローマへの軌跡ーーテーラー・マーシャル師(元聖公会司祭)の信仰行程

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目次

 

Taylor Marshall, My Canterbury Trail to Rome, 2011(拙訳)

 

「テーラー、地獄に落っこちちゃうよ。」

 

8歳の時、一番仲の良かった友だちが私に言いました。「テーラー、君は地獄に落っこちちゃうよ。だってまだ洗礼受けてないでしょ。」

 

彼は、敬虔なルーテル派ミズーリ・シノドの家庭に生まれ育った子であり、幼いながらも、バプテスマを通し人はキリストに属するのだということを知っていたのです。

 

他方、私はといえば、ノン・クリスチャンホームで育ち、当然、洗礼も受けていませんでした。それで、子供心ながらに思ったのです。僕は救われていなくて、しかも救われることが可能な環境にもいないと。バプテスマはその後も自分にとってミステリアスで到達不可能ななにかとして自分の中に残り続けました。

 

私の家族はクリスチャンではありませんでしたが、徳を重んじる良い環境の中で育てられました。母は幼い私たちに有害だと思われるテレビの番組や映画などに気を付けていました。また嘘や盗みがどんなに悪いことであるかも教育され、伝統的な諸価値が良いものとして家庭内で保持されていました。

 

しかしそうは言ってもやはり宗教は欠落していました。母方の祖父は、教会の牧師が什一献金のことで彼を公に戒めた時、子供時代からのルーテル派信仰を破棄しました。また母方の祖母は、ある神父がーー未婚で妊娠してしまい助けを求め教会に駆け込んだ友人を叱り飛ばしている姿を目撃しーー子供時代からのカトリック信仰を破棄しました。一方、父方の祖父は私の父が幼い時に亡くなっており、そのため、父は全く宗教的教育を受けることができませんでした。

 

その結果、両親共に、霊的孤児の状態にありました。それゆえに、ルーテル派の友だちが指摘した通り、私は洗礼を受けておらず、永遠の滅びに向かって進んでいました。

 

御言葉を通しての救い

 

しかし12歳の時、そんな私に一大変化が訪れました。野球チーム、テキサス・レンジャーズのダリル・ポーター選手の自筆サインをもらったのです。彼は自分の名前の下に、"Rom 10:9"と書き込んでいました。

 

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出典

 

「Rom 10:9というのは何の暗号だろう?」私はポーター選手が私に残してくれた秘密のメッセージが何かを知りたくてどうしようもありませんでした。そしてついにこの暗号がバイブルの聖句箇所を表すものであることを発見し聖書を開いてみました。

 

そしていろいろページを繰った挙句、Romというのが「ローマ人への手紙(The Book of Romans)」の略称であり、10:9というのは、ローマ人への手紙の10章9節であることが判明しました。

 

「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。」(ローマ10章9節)

 

「あなたは救われる!」私は嬉しくなりました。ああ、僕もついに救われるための方法を発見できたと思いました。

 

そこで私は声を上げ「イエスは主である」と言ってみました。生まれて初めての神への祈りでした。そして続けて「神様がイエス・キリストを死者の中から復活させられたと僕は信じます」と告白しました。それがどういう意味なのかはよく分かりませんでしたが、とにかく子供心に私は救われたかったし、また、バプテスマなしに救われる方法があるんだということをこの時知ったのでした。

 

そうするとキリスト教についてもっと知りたいという思いが湧き上がってきました。バプテスト派というのは何だろう。ルーテル派というのは何だろう。メソジスト派というのは何だろう。カトリックというのは何だろう。

 

その後しばらくすると家族が皆そろって近くの教会に通い始めました。メソジスト教会でした。この時期、私は、神が自分を牧師に召しておられるのではないかと感じていました。

 

ある日、善意に満ちた福音主義プロテスタントのキャンプ相談員が私に言いました。

 

「テーラー、毎日、聖書を読まなくちゃならない。というのもね、反キリストがまもなく到来して、地上に残っているすべての聖書を押収するようになるからなんだ。患難期に突入すると、自分たちが持てる唯一の御言葉というのはね、心の中で私たちが暗記してきたものだけになるんだ。」

 

16歳だった私は、彼のこの勧告を真剣に受け取り、その後2年の間に、創世記から黙示録まで聖書全体を3回、通読しました。

 

この頃までに私は、キリスト教界には、「リベラル派」と「保守派」の二種類があることに気づいていました。「『リベラル派』の諸教会は理性に倣い、それに対し、『保守派』の諸教会は聖書に倣っている」と信仰の先輩たちから聞かされていましたので、「僕は聖書に従う忠実なクリスチャンになる!」と心の中で決意しました。

 

ある日私はカリスマ派の集会を訪れ、いわゆる「祭壇からの招き(“altar call”)」と呼ばれているものに遭遇しました。

 

「祭壇からの招き(“altar call”)」

 

その教会では、毎回、説教が終わった直後に、牧師が会衆に向かい「皆さん、目を閉じ、こうべを垂れてください」と言いました。

 

そして「この中に、イエス様のことを未だ心に受け入れていない方がおられますか?あるいは、かつて受け入れたけれども再度、キリストに自分の人生を明け渡したいという思っていらっしゃる方がおられますか?それらの方はどうぞ前の方にお進みください。」と招きました。BGM音楽のボリュームも大きくなり、前に進み出た悔悟者たちは泣いていました。私自身も感動していました。

 

ヒルソング教会、「祭壇からの招き(“altar call”)」

 

しかし3カ月ほどした後、私は、同じ顔触れの人たちが来る週も来る週も前に進み出、繰り返し「救いを受け(“got saved”)」ている現象に気づきました。そしてこれはますますマンネリ化した型通りのものとして私の目に映っていきました。

私の心は何かもっと深いものを求め、彷徨い始めました。

 

ヨハネ・パウロ二世ーー反キリスト?

 

テキサス大学に進学した私は、哲学を主専攻に、そしてギリシャ語とラテン語を副専攻に選びました。そしてその時までに私はすでにカリスマ派の世界を去り、どこか他の場所に道を求め模索していました。

 

そんな中、私は「聖書教会」に出会いました。聖書的で、保守的で、バランスの取れた集会を見つけることができたのです。またキャンパス・クルセード・フォー・クライストの学内活動にも積極的に参加し、夏休暇には皆で中国に宣教に行き、機会があるごとに、未だキリストを知らない人々に信仰を分かち合おうとしていました。

 

この時期、私の中でアンチ・カトリック主義は確固たるものとなっていき、カトリック教徒たちは「救われていない」ということを確信するに至っていました。カトリック教徒に「あなたはイエス・キリストを自分の‟個人的救い主そして主”として知っていますか?」と訊くとたいがいの場合彼らはぽかんとした顔でただ私を見つめていたり、あるいは言葉に詰まりしどろもどろの回答しかできていませんでした。

 

また、福音主義プロテスタントである私の観点からみると、カトリック教徒たちは十字架像をただ首に下げているだけで、実際には十字架につけられた主を個人的に知ってはいませんでした。

 

カトリックの動向をより知るにつけ、彼らが「ユーカリスト」(←自分にとって聞きなれない言葉)に異常なまでに固執しているように思われました。そして彼らがそのユーカリストをキリストご自身であるかのように(勘違いして)それを拝んでいるということに気付き私は驚愕しました。また彼らは一丸となって「教皇ヨハネ・パウロ二世」に熱中している風でした。

 

カトリック信仰に関する当時の私の知識は、以下に挙げるただ三つの事実によって成り立っていました。①カトリック教徒は「キリストに対する信仰」が何であるかを理解していない。②カトリック教徒はパンを拝んでいる。③カトリック教徒は教皇ヨハネ・パウロ二世を熱愛している。

 

元聖公会司祭であった(初期の)ジョン・ヘンリー・ニューマンの如く、私もまた「カトリック教会はヨハネの黙示録に出てくる『獣』であり、教皇は反キリストである」という結論に飛び付きました。

 

この結論に至る私の理由づけは次のようなものでした。「もしも教皇がイエス・キリストを愛しているのなら、彼は、キリストに信仰を持つよう自分の民を教えるはずだ。ーーパンを拝んだり、御言葉をないがしろにさせるような方向に民を導くのではなく、キリストを愛し、キリストに近づくよう彼らを訓育しているはずだ。」

 

私の見解は固まりました。ピューリタン作家リチャード・バクスターがいみじくも言っていたように、「もしも教皇が反キリストでなかったとしたら、可哀想になぜ彼はかくも反キリストのごとき様相をしているのだろう。」ーー私も全く同意していました。

 

彼は金と宝石で身を飾り、彼の周りには紫と緋の衣を着た人たちがはびこっています(黙示録17:4参照)。そして群衆は彼を絶賛しています。また彼は国連のことに言及しており、各国の大統領や首相たちが彼を表敬訪問し、彼の指輪に口づけしています。そしてパンを拝むようにと、彼はそれを高く掲げています。私にとって、ヨハネ・パウロ二世という人は反キリストに他なりませんでした。

 

信仰と理性の和合

 

カトリック教会が「反キリスト的」宗教であるということが自分の中で確かなものとなった後、私はその確信をさらに裏付けてくれるような神学体系ーー「改革派」神学ーーを発見しました。

 

福音主義の友人たちの間で改革派神学は人気があり*1、彼らはよく互いに集まってジャン・カルヴァンや改革派神学伝統内のその他の神学者たちについて議論していました。

 

そこで私も、カルヴァンの『キリスト教綱要』を購入し、読み始めました。感動しました。実に生まれて初めて、私は、知的に一貫性があり聖書に忠実であると主張しているキリスト教体系に出会ったからです。

 

それ以前には、ーーちょうど「保守的キリスト教」が「リベラル派キリスト教」に反立しているようにーー「信仰」は「理性」に反立しているのだと考えていました。しかし今私は、「信仰」と「理性」が互いに相補的な関係にあり、「信仰」は「理性」を完成させるものであるということを知ったのです。*2

 

哲学専攻の学生として道を模索していく過程にあって、プロテスタンティズム内の改革派は、保守的且つ、アンチ・カトリックであり、知的に私を満足させるものでした。

 

カルヴァンおよびその他の改革派神学者たちの文献に当たっていく中で私は次の四つの事を発見しました。

 

一番目の点として、私は、サクラメント(秘跡)の重要性を学びました。カルヴァンは自分が想定していた以上にサクラメントを重んじていました。また彼は幼児洗礼および週ごとの聖餐についての強力な弁証をしていました。カルヴァンのサクラメント理解は多くの点で深刻に誤っているにも拘らず、彼の著作を通し、秘跡というのが神的に聖定された恵みの手段であることに私の目は開かれていきました。*3

 

二番目に、改革派神学を通し、私は、いかに神が、人類の贖罪史を契約的(covenantally)に聖定されておられるのかを知るに至りました。救済史は重要であり、新約聖書は旧約聖書との連続性の内に立っています。この頃までに私はすでにディスペンセーション主義を拒絶し、旧約聖書を新約の光の中で読むようになっていました。*4

 

三番目に、教父たちーー特にアウグスティヌス、ヨハネス・クリュソストモス、アンブロシウスーーとの出会いがありました。そして彼らの教説により洞察のための多くの新しい戸が開かれていきました。

 

それから最後に、カトリック教理というのが自分がそれまで想像していた以上に問題をはらんだ教理体系であると確信するに至りました。プロテスタント宗教改革者たちは、義認、権威、ユーカリストにおける犠牲*5、聖母マリア等に関する「ローマ主義者たちの誤謬」をさらに明らかにしていました。

 

「ローマ主義」に対するそうした根強い偏見にも拘らず、教父文書を読み始める中、私は教父たちが典礼的であり、ユーカリストが彼らの礼拝の中心を占めていたということをも理解するようになっていきました。また私は教父文書の中に司教ー司祭ー助祭という古代の三階制を発見し、そこから使徒継承の真理性へと導かれていきました。*6

 

依然として伝統的プロテスタント主義の特徴である「信仰のみによる義認」および「聖書のみ」の教理は信奉していましたが、日を追うごとに私はますますサクラメンタルになっていきました。

 

そして大学を卒業後、私は改革派の名門であるウェストミンスター神学校(米国フィラデルフィア)に入学しました。私は思いました。「もしもウェストミンスターの教授たちが、サクラメント志向になりつつある私を矯正し癒すことができなかったら、その際には、‟合理的な” 選択をしよう。そう、その時にはカンタベリーへの街道を進み、アングリカンになろう!」と。

 

アングリカン司祭になる

 

この時期私は後に妻となる女性、ジョイに出会いました。彼女はバプテスト家庭で育ちましたが、私と同じように「サクラメント的長老派信者」になりつつあった人であり、私たちは共に、米国長老教会(PCA)のメンバーでした。

 

初めてのデートの時、彼女はユーカリストのことを話してきました。そして二回目のデートの時には使徒継承のテーマを持ち出してきました。見よ、ここに自分が探求してきたのと同じ問いを問い、同じ問題意識をもった女子学生がいたのです。「この人こそ私の妻になるべき女性だ。」私は確信しました!そして一年後、私たちは婚約しました。

 

ウェストミンスター神学校はすばらしい学びの場所であり、私たちは信仰において成長していきました。しかしますます顕著になってきたのは、改革派/長老諸教会は私たちにとって余りにも「プロテスタント色」が強すぎ、一方の、カトリック教会は、まあ、何と言いましょうか余りにも「カトリック色」が強すぎる、ということでした。そこで私たちは中庸(via media)路線を行き、アングリカン信者になることにしました。

 

こうして聖公会に入った私たちは、『聖務日課』を絶えず祈り、日々の聖餐に参加し、年配の聖公会司祭から霊的指導を受ける、喜びに満ちたスタートを切りました。長男ガブリエルが生まれ、アングリカン伝統に従い洗礼を受けました。さらに私たちはウィスコンシン州にあるナショタ・ハウス神学校に進学しました。*7

 

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ナショタ・ハウス神学校(ウィスコンシン州)出典

 

ナショタ・ハウスは聖公会の中でも「アングロ・カトリック色の強い」神学校として有名です。「アングロ・カトリシズム」というのは、アングリカン伝統ーー特にアングリカン祭司制ーーの中においてよりカトリック的理解の方に重きを置いているアングリカン主義内の一翼です。

 

私の司教は「あなたの神学教育は申し分ないが、ただリトルジーおよび霊操においてもう少しカトリック伝統に近づくよう努めてほしい」と私におっしゃいました。(例えば、詠唱を唱えたり*8、幼児に洗礼を施したり、葬式を行なったり、祭壇に香をたいたり、告解をきいたりすること等)。そして私は単なる「牧師」ではなくそれと同時に「司祭」になることも期待されていました。

 

気がつくと私はカトリック教会が完全に悪であるとはもはや考えなくなっていました。そしてある人々が「カトリック不安(“Catholic angst”)」と呼ぶところの経験をしていくようになりました。換言すると以下のようになります。

①今や私は喜々としてカトリック的伝統を受け入れ採用しつつある(のだろうか?)↓

②それでなぜだか分からないがカトリック教会の方向へ吸い寄せられていっているような気がする。不安。

 

こういった現象についてG・K・チェスタートンが次のように説明しています。「カトリック教会と反対方向に綱を引くことをやめるや、その人は向こう側から逆に自分がぐいぐい引っ張られていっているのを感じることであろう。」

 

ナショタ・ハウスでの学びの期間、私は触知的なあり方でカトリック的敬虔性に触れていくことになりました。朝、昼、夕とお告げの鐘がなる中、私たちはーー中世の修道院を髣髴させるーー手彫りの聖歌隊席から聖務日課書を祈り詠唱しました。

 

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ナショタ・ハウスの聖所(出典

 

私は毎日黒いカソックで身を包み、神学校での授業や祈りの日課に臨みました。また校内には聴解司祭もおり、毎朝、アングリカン式のユーカリストが執り行われていました。時には司祭が古いラテン・ミサに倣い東の方角を向くこともありました(アド・オリエンテム)。また聖体降福式も奨励されていました。

 

またしばしカソック姿で森の中にわけ入り、そこで霊操的書物を読んだり、沈黙の内に祈りの時を持ったりしました。この時期よく読んでいたのは、聖大バシレイオス、それからナジアンゾスの聖グレゴリオスの著作でした。当時を振り返ってみますと、この時期は、後にやって来る険しく困難な時期を乗り越えるべく備えられた不可欠なる準備期間だったと思います。

 

教皇が死んだ!

 

2005年4月2日、教皇ヨハネ・パウロ二世死去の知らせが入りました。帰宅した私の顔色が悪いので妻は「どうしたの?何かあったの?」と心配そうに訊ねました。あたかも異言を話しているかのように私は「パパ モルトゥース エスト」(羅:教皇が亡くなった)と言うや泣き出してしまいました。みると妻も泣いていました。

 

かつて私はヨハネ・パウロ二世のことを「反キリスト」呼ばわりしていました。それがどうしたことでしょう、今や彼のことを自分の父親のように愛慕するようになっていたのです。一度も会ったことのない人物に対しなぜこのような愛慕の情が生じたのか不思議でした。ナショタ・ハウス神学校でも、「一人の偉大な人間がこの世を去った」ということで皆が教皇の死去を知っていました。

 

そこで私と妻は、ヨハネ・パウロ二世への敬意と追悼の念を表すべく、地元のカトリック教区のミサに参列することにしました。そこに行けばおそらく彼に関する感銘深い追悼メッセージを聞くこともできるだろうと思いました。そこでその週の日曜日、私たちは地元のカトリック教会を探し出し、現代風な建物の中に入っていきました。

 

ミサが始まりました。しかしそこの教会の神父はヨハネ・パウロ二世のことについてはほとんど何も言及せず、それどころか「第一ペテロの手紙も、第二ペテロの手紙も、聖ペテロが著者ではない」という旨の批評さえしていました。さらに、奉献の祈りの時、彼は人々を前にやって来させ、祭壇の周りに彼と共に立たせました。

 

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出典

 

そうした上で神父は自作の「聖体の祈祷文」(韻を踏んだ祈り文)を次のように唱え始めました。

 

死ぬ前の夜、

イエスは両手にパンを取った、、、」

 

妻と私はゾッと震え上がりました。劣悪であるだけでなく、この自作祈禱文は、冒涜的かつヨハネ・パウロ二世の生涯およびーーキリストに対する全き従順というーー彼のメッセージに矛盾・対立しているように思われてなりませんでした。私たちはカトリック教徒であったヨハネ・パウロ二世を愛していましたが、リベラルな司祭たちや陳腐な押韻で溢れるこの地元教区につまずき挫折してしまいました。*9

  

私にローマを指し示した一人のラビ

 

数週間後、私は聖公会助祭に叙階されました。そしてその後時を置かずしてアングリカン司祭に叙階されました。

 

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聖公会司祭となったテーラー・マーシャル氏(出典

 

こうしてテキサス州フォート・ウォースにある聖アンデレ聖公会の助任司祭に任命された私は、大いなる喜びの内に、説教し、秘跡を執行し、司牧活動を行なっていきました。そしてある日、司祭として初めて病院訪問をするよう言い付けられたのです。

 

教区司祭は私に地元の病院で手術を受けることになっている一人の女性を訪問するよう言った上で私にその人の名前を書いた紙を手渡しました。まさかその日、あるラビと会話することになり、それが自分の人生全体を新しい方向に導く決定打になろうとは当時夢にも思っていませんでした。

 

病院に着いた私は、祈祷書を腕にかかえ、「聖職者用駐車」の付け札を受け取り、手を洗った後、上階にある待合室へと向かいました。待合室は、愛する家族の手術が終わるのを待つ人々で溢れていました。デスクに行き、受付係の人に微笑むと私は言いました。

 

「私の名前はテーラー・マーシャル神父です。ジョアンナ・スミスさんが手術室に入る前に彼女に面会しようとうかがいました。」

「左様でございますか。それなら向こうのドアからお入りください。」

 

振り向くとそこには医療ドアがありました。

「あそこからですか?」

「はい、そうです、神父様。そのまままっすぐお進みください。スミスさんはすでに麻酔専門医の方と共におられます。」

 

ドアの横にボタンがあり、それを押すとドアは自動的に開きました。中に入るとそれは後ろ手に閉まりました。大きな部屋がありそこには八つのベッドがありました。

 

「どの方をお探しでしょうか?」一人の看護士が微笑みながら訊ねました。

「ジョアンナ・スミスさんです。」

「彼女はベッド一号におられます。麻酔専門医もすでに来ていらっしゃいます。スミスさんはおそらくもう眠っておられるのではないかと思います。」

「あ、それでも結構です。」私は言いました。「彼女のために祈れればと思って。」

 

ベッド一号の方に近づくとはたしてその女性はすでに術用ガウンを着て眠りに入っていました。私は『共通祈祷書』の中の病人訪問のセクションを開くと、自分の右手を眠っている女性の腕の上にやさしく置きました。

 

すると彼女の目が急に開きました。「誰?」おびえた表情で彼女は訊ねました。麻酔がまだ完全には効いていなかったのです。

「ああ、すみません。テーラー神父と申します。手術室に向かわれる前にあなたとお祈りしたいと思ってうかがいました。」

 

彼女は私の祭服と襟を見ると叫びました。「私、ユダヤ人ですけど。」

「えっ、そうですか。ごめんなさい。人違いしてしまったのかもしれません。私はジョアンナ・スミスさんという方に面会にきたのです。」

「ジョアンナ・スミスなら私です。」彼女は、キリスト教の聖職者が一体なぜ祈祷書を片手に自分のベッドにかがみ込んでいるのか皆目見当がつかないでいる様子でした。

 

私も度肝を抜かれてしまいました。「これってもしや、先輩司祭たちが新米司祭を茶化すためにやる一種のジョークなのだろうか?」私は思いました。ともあれ心を落ち着け直し、私は彼女に訊ねました。

 

「どうしましょうかねえ。手術室に行かれる前にお祈り差し上げても差し支えないでしょうか。」

「ええ、ぜひ祈ってください。お願いします。」

 

そこで私は再度、彼女の腕に自分の右手を置くと、彼女が手術中守られるよう祈り、その後、慰めの言葉を与えました。彼女の目はうつろになっていき、やがて眠りに落ちました。

 

待合室に戻ると、そこに髯をたくわえた一人のラビが座っていました。そこでキリスト教司祭(←私)はユダヤ教ラビの方に歩み寄ると「ジョアンナ・スミスさんに面会予定ですか」と訊ねました。

ラビは答えました。「あ、はい。そうです。」

「それなら、こちらのドアからお入り、廊下を左手に進んでください。ベッド一号目です。彼女はもうまもなく手術室に入ると思います。」

 

ラビはけげんな表情をたたえ、私を見つめていました。おそらく彼は次のように考えていたことでしょう。「なんでこの司祭はジョアンナに関する一切合財を知っているんだろう?」ともあれ、彼は私に礼を言うと自動ドアの向こうに消えて行きました。

 

その直後、私は待合室に知り合いを見つけました。うちの教区の信徒であるスミス氏でした。「ああ、なるほど、だから私はユダヤ人女性の元に遣わされたんだ。」ようやく合点がいきました。ジョアンナはスミス氏という聖公会信者の男性と結婚していたのです。

 

それまで私はスミス氏の妻がユダヤ人であることを知りませんでした。彼は妻の手術のことを憂慮しており、私たちはしばらく互いに言葉を交わし合いました。するとあのラビがまた待合室に戻ってきました。スミス氏は私たちを紹介し、その後私はラビと共に、典礼や詠唱の重要性などについて短い会話を交わしました。

 

と、やみくもに、ラビはスミス氏に非常に珍奇な質問をしました。「ジョアンナの母親のヘブル語での名前は何ですか?」

夫はしばらく考えあぐねていました。「えーと、何でしたかねえ。分かりません。どうしてそれをお訊きになるんですか?」

「ジョアンナ本人に母親の名前を訊こうと思っていたのですが、彼女はもう眠ってしまっていました。」

「なぜ彼女の母親の名前を知る必要があるんですか?」彼女の夫は訊ねました。

 

するとラビは説明しました。「私たちユダヤ人は、誰かが〔病気等で〕苦しんでいる際、祈りの中で彼・彼女の母親の名前に祈願すると、神はその人に対する私たちの執り成しをより慈悲深く聞いてくださる、ということを信じているのです。」

 

「それって迷信じゃないかな。」とっさに私は思いました。しかしラビのこの回答を黙想している内に私はその信心の深遠性にはっと気づかされたのです。つまりこのラビは、(その子ゆえに)母親に対し祈願がなされる時、神は特に慈悲深くあられるということを信じていたわけなのです。

 

アングロ・カトリック伝統の中で訓練を受けた聖公会司祭として、私は聖母マリアに対し、ほんわりとした発芽程度の信心を抱いていましたので、すぐにその含意(implications)に気づきました。

 

マリアは重要だと思っていました。なぜなら、彼女は真に、私たちの主イエス・キリストの母であり、それゆえ、セオトコス(Θεοτόκος "God-bearer"、神の母)です。神は人間であるこの女性を、ご自身の受肉された御子を宿す、清く純潔なる器としてお選びになりました。

 

もしもユダヤ人が、「その人の母親に祈願することで神はより寛大に執り成しに答えてくださる」ということを信じていたのなら、マリアの名は祈願するに値するのではないでしょうか。彼女の息子であるイエス・キリストは、私たちを贖うため受難のしもべとなってくださったのではないでしょうか。

 

さらに、マリアは単なる普通の母ではありませんでした。彼女は御父なる神に語りかけ、"our Son”と言及することのできた唯一の被造物でした。

 

「なるほど、、」私は唸りました。マリアに対するカトリックの信心は健全なキリスト論的諸議論を基盤にしているだけではないのです。またマリアへの信心は教父学的であるだけでもありません。そうです、教会が聖母を敬い、彼女の名に祈願するのは、それが、ーー一家の母親の果たす霊的役割に対する深遠なる崇敬を示すーーユダヤ的慣習を継承するものであるからなのです。

 

この気づきは自分にとり、カトリックの諸慣習が神および神の民に関するユダヤ的理解に根付いているということに対する驚くべき確証となりました*10。私は旧約聖書の観点からみたカトリック伝統について研究を始め、連続性の解釈学(ベネディクト十六世*11.)が明瞭にカトリックであるところの真正なるキリスト教を開示していることを発見しました。*12

 

 

カンタベリーからローマへの行路

 

妻と私はその年、ローマを訪問しました。そしてローマにいる間、教皇ベネディクト十六世と共に聖ミサに与る機会を持つことができました。

 

私はアングリカンのカソック姿でサン・ピエトロ大聖堂の中にたたずんでいました。そしてこのままの状態では自分は前に進み出、御聖体を拝領することができない事実を前にしていました。私の魂は教皇ベネディクト十六世と共なるコミュニオンの関係の中に入れられることを切望していました。

 

そしてその瞬間、私は自分がシスマ(分裂)の状態にあること、そしてキリストが神的に聖定された教会とのコミュニオンから離れた状態にあることを悟ったのでした。*13

 

翌日、私はモンシニョール・ジェームズ・コンレイ神父に会い、彼はすぐさま私をウィリアム・バウム枢機卿に紹介してくださいました。サン・ペテロ大聖堂をみわたす枢機卿の部屋の中で一対一で向かい合いながら、彼は数多くの教理について私に訊いてこられました。秘跡、マリア、ユーカリスト、祭司制、教会、典礼等、、こうして一連の問答を終えると、彼は目を閉じ、深く息をつきました。

 

「息子よ。」彼は私に言いました。「あなたはカトリックです。もう家に戻る時です。」

 

枢機卿は私を励まし、共に祈ってくださいました。彼はまた私に、かつて教皇ベネディクト十六世が使っていたロザリオをくださいました。その後、私たちは聖堂に行き、御聖体ーー主イエス・キリストの前で共に祈りました。わが進むべき道は明らかになりました。たとい今後どんな喪失があろうとも、どんな犠牲を払うことになっても私はカトリックになる道を選ぶことを決意しました。

 

ローマから帰るとすぐに私はフォート・ウォースカトリック教区のケヴィン・ヴァン司教に面会に行きました。彼はあたたかく私を迎え入れてくれ、その後、キリストにある自分の真の父になりました。そして三カ月後、私は聖公会の司祭職を降りました。

 

聖公会の中には数多くの古のキリスト教慣習が保存されています。しかし私が認識するようになったのは、16世紀に生じたアングリカン・シスマ(分裂)および、プロテスタント宗教改革一般は、新約聖書元来の軌道を反映していないということでした。教会(Church)はキリストの御体であり、神の民の神殿です。

 

旧約聖書の中において、イスラエルの民には、「新しいイスラエル」を作り出したり、「改革派イスラエル・グループ」等の新しい教派を形成したりする自由勝手は許されていませんでした。

 

どんなに祭司やユダの王たちが堕落しても、神の契約は依然として有効でした。その意味で、宗教改革というのは(使徒行伝や聖パウロの書簡の中で明らかな概念としての)「一致した可視的教会」に対する拒絶であったと考えるに至りました。

 

こうして2006年5月23日、ヴァン司教を介し、私たち家族はカトリック教会とのフル・コミュニオンに受け入れられました。勿論、司祭職を放棄することには苦しみが伴いました。しかしそういった一切の困難があっても尚、私はカトリックになる道を選びました。*14

 

なぜなら、カトリック教会とは違い、聖公会教派は、その教理、典礼、慣習、モラリティーをーー聖地を一団のユダヤ人弟子たちと共に歩かれたイエスという名の1世紀ラビと共にーーその起源にまで辿ることができないからです。

 

カトリック・クリスチャンとして、今、(かつてラビ・サウルであった)使徒パウロと共に、私は「アブラハムの信仰を共有している。なぜなら、彼はわたしたちすべての父だから」(ローマ4:16参)と言うことができます。

 

訳者によるエピローグ

 

カトリック改宗後、彼は、①Personal Ordinariate of the Chair of Saint Peter*の特別枠でカトリック神父になるか*15、あるいは②カトリック信徒となり、司祭職とは別の方法で神にお仕えするかについて悩み、熟考し、相談し、そして祈りました。特に彼は高校の時から牧師職への召命を感じていたため、聖職者職から離れるということは神の召命に背くことになるのではないかと苦悶しました。しかし最終的に、家庭の状況やその他いろいろな事を考慮した上で、スコット・ハーン氏の助言をも受け入れ、信徒(学者、弁証家)としてのヴォケーションで神に仕えていく道を選び、大学院に戻って哲学博士号を取得しました。そして現在、New Saint Thomas Instituteの学長として、カトリック教義学、弁証学、トマス神学などを教えておられます。(Dr Taylor Marshall - YouTube )

 

ー終わりー

 

*1:訳注:New Calvinism - Wikipedia 

*2:訳注:「信仰」と「理性」の関係について

*3:訳注:現在の福音主義は、宗教改革者の元々の教理からもかけ離れている.

*4:訳注:

*5:訳注:

*6:訳注:司教制(episcopacy)というのは本当に聖書的なのだろうか?ーー私の探求 .

*7:訳注:ナショタ・ハウス神学校

*8:訳注:ナショタ・ハウス神学校、詩篇歌の歌い方

*9:訳注:

*10:訳注:

*11:Benedict XVI, Jesus of Nazareth

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連続性の解釈学についての関連記事:

*12:訳注:

 

*13:訳注:

*14:訳注:

*15:詳しくは南十字星の聖母の属人教区「カンタベリーの聖オーガスチン会衆」のHPをご覧ください。

The Right Reverend Harry Entwistle, Promonotory Apostolic

The Ordinary 教区長 
Monsignor Harry Entwistle, Protonotary Apostolic
ハリー・エントウィッスル

 Fr. Kajiwara

司祭
ラファエル梶原史朗
Fr. Raphael Kajiwara
e-mail: raphael@td5.so-net.ne.jp

 

それから下は、元聖公会司祭の方々の人生の証です。

①ジェフリー・スティーンソン元聖公会主教(Msgr.)の証し

②ピーター・ゲルダード元聖公会司祭の証し

③レイ・ライランド元聖公会司祭の証し

 

④クリストファー・フィリップス元聖公会司祭の証し

⑤ダグラス・ローリッグ元聖公会司祭の証し

⑥フィリップ・ウェブ元聖公会司祭の証し

⑦ジョン・リップスカム元聖公会主教の証し

⑧エリック・ベルグマン元聖公会司祭の証し

⑨リチャード・スミス元聖公会司祭の証し

⑩マイケル・ワード元聖公会司祭の証し

⑪ダグ・グランドン元聖公会司祭の証し

⑫ユルガン・ライアス元聖公会司祭の証し

⑬ウィリアム・オディー元聖公会司祭の証し