巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ジョーダン・ピーターソンとサム・ハリスの対談をきいて(by ロバート・バロン司教)

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ジョーダン・ピーターソン(左)とサム・ハリス(右)出典

 

目次

 

Bishop Robert Barron, LISTENING TO JORDAN PETERSON AND SAM HARRIS(拙訳)

 

ピーターソンとハリス

 

昨年のクリスマス休暇の間、私は時間を割きジョーダン・ピーターソンのYoutubeビデオを集中的に観ました。

 

ジョーダン・ピーターソンという名前を初めて聞いた方もおられることでしょう。この人はトロントの大学で心理学を教えている学者なのですが、ソーシャル・メディアを媒介とし、彼は文化評論家、知識人として一大疾風を巻き起こしている人です。*1

 

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ジョーダン・ピーターソン(Jordan Peterson, 1962-)

 

数多くあるピーターソンのビデオの中でも特に私の興味を引いたのが、サム・ハリスとの対談でした。

 

 

サム・ハリスは、いわゆる「新無神論界の四天王」の一人であり、今日おそらく最も辛辣なる宗教批判者として名をとどろかせている人物です。*2

 

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サム・ハリス(Sam Harris, 1967-)

 

今回、番組側がなぜハリスをピーターソンに引き合わせたのかというと、最近、ピーターソンが、驚くほど鋭敏に、聖書ストーリーにおける心理学的・元型的(archetypal)重要性に関し、人々に説き始めているからなのです。

 

それゆえに、ピーターソンは暗黙の内に、ハリスを始めとする新無神論者たちの「宗教完全却下論」のスタンスに疑問を投げかけているわけです。

 

ハリスの宗教批判

 

ディスカッションの中で、ハリスは、ーー故クリストファー・ヒッチェンズやリチャード・ドーキンズといった彼の仲間たちと同様ーー、「宗教というのは、その独断主義および自己批判アレルギーにより、これまで無数の形態の抑圧や暴力を引き起こしてきた」という点を強調しています。

 

たしかに、こういった点を私たちは聖書それ自体の中に見い出すことができるでしょう。そして一見したところ、それは奴隷制を容赦し、大量虐殺を黙認し、女性酷使を助長し、被征服民に対する残虐なる殺戮行為を許可しているようにみえます。

 

そしてハリスは、「宗教史全体を通し、異端審問所、魔女狩り、ポグロム等の表現にそれは現出している」と論じています。「こういったあらゆる暴力行為の背後にあるのは」と彼は続けます。「信仰をベースにして物事を受け取り、批判的理性を脇にやり、権威主義を受容する宗教志向に他ならない」と。

 

二つの極端

 

この手の典型的批判への応答として、ジョーダン・ピーターソンは、歴代を通し知的・倫理的営為を悩ませてきた二つの極端について言及しています。ーーすなわち、「ファンダメンタリズム」と「混沌とした相対主義(chaotic relativism)」という二つの極です。

 

ピーターソンは言います。無批判、抑圧的、傲慢、暴力的な前者(=ファンダメンタリズム)は確かに、(ハリスが正当にも糾弾している種類の)非常に否定的なものを生み出し、今日に至るまで生み出し続けている。

 

しかし、錨なく漂流し、無力/不能かつ倫理的真剣さを持たない後者(=混沌とした相対主義)もまた前者に引けを取らないほど危険なものであり得る、と。それゆえ、責任ある倫理行為者および知的探求者は、この二つの両極の狭間を生きる必要があるとピーターソンは言っています。

 

おそらくここでピーターソンは、ハリスやその他の無神論陣営にいる論者たちが、「(不可避的に宗教に付随しているところの)いわゆる独断的・原理主義的『影』」と「宗教それのみ」を同一視する罠に陥ってしまっているのではないかとの懸念を表明しているのだと思います。

 

それゆえ、「彼ら無神論者たちは往々にして、宗教思想家や諸媒介がこれまで果たしてきた、本質的にして非常にポジティブな貢献を見落とす傾向にある。実際、宗教思想家や諸媒介は、ーー特に究極的諸問題に関しーー、全き相対主義がもたらすカオスを回避すべくわれわれを介助してきた。」と彼は述べています。

 

この点において私は大いにピーターソンに同意しています。というのも、宗教が人類文化に果たしてきた厖大なる貢献内容を全く無視し去るという見解はやはりまともに受け取ることが難しいと思うからです。

 

それと同時に私はハリスの言い分にも同情する部分を感じています。たしかに、キリスト教に対する啓蒙主義側からの批判があったからこそ、教会は強いてそれまでの自らの行動パターンや聖書解釈におけるストラテジーを反省・再考するようになったという部分があり、この点において、謙遜に、そして感謝の念をもって、私はハリスの指摘を認めたいと思います。

 

私たちは、(ハリスが正当にも特定しているところの)「影」の部分を取り除くべく啓蒙主義の光明のいくつかを実際、必要としていたのです。

 

ピーターソンの宗教観

 

それではジョーダン・ピーターソンは宗教に関し具体的にどういった見解を持っているのでしょうか。これに関してはやや曖昧で正確なことは分かりません。その理由の一つに、彼の曲がりくねってとりとめのない黙想的言説があります。

 

元型論(アーキタイプ)的心理学を前面に打ち出しているという点で彼は間違いなくユング学派ですが、今回、ビデオを観ながら自分の中で明らかになったのが、彼のアプローチがいかに深くカント的であるかということでした。

 

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イマヌエル・カント(1724 –1804)

 

18世紀の偉大な哲学者であるイマヌエル・カントは、私たちが理論的理性の行使を通しては神の存在を認識することができないと論じていました。ここにおいて、宇宙論および形而上学的推論を通した、神への古典的形而上学的アプローチは排除されています。(詳しくは『純粋理性批判』を参照のこと。)

 

「しかし」とカントは続け、いわゆる実践理性と彼が呼ぶところのものを通し、私たちは神に関する一種の知に到ることができると説いています。

 

カントによれば、最高善(summum bonum)としての神という思想は、倫理的行為を行なうという可能性への諸条件の一つです。言い換えますと、暗黙の内に「神が存在する」という前提を受容していない限り、私たちはいかなる善行をも試みることができない、ということです。

 

その意味で、(カントによれば)、イエスのストーリーは、「完全に神の目にかなう人物の原型」を提示しており、従って、少なくとも西洋人に、倫理的取り組みのためのナラティブ基板を提供しているとされています。そしてカントによればその際、福音書が伝達している内容の歴史的正確さについて特に心を悩ませる必要はありません。なぜなら、ここで肝要となっているのはそのストーリーだからです。

 

現代におけるカント的アプローチの復興

 

ピーターソンは、こういったカント的アプローチを現代に復興させていると思います。彼は通常、神存在に関する形而上学的思弁から身を引いています。またピーターソンは第一原因(causa prima)のための古典的議論に対し余り関心を持っていないように見受けられます。

 

他方彼は、通常ナラティブ形式で表現されるところの神に関する原型(アーキタイプ)が、倫理的思想および倫理的言動のために必要不可欠なものであるということに関しては確信を持っているようです。神への献身や神の意志に従うことに関連した聖書言語は、こういった初期段階の前提(inchoate supposition)を反映し、それに表現を与えているのです。

 

おわりに

 

それではここから何が言えるのでしょう。私見では、ジョーダン・ピーターソンは、サム・ハリスや彼の無神論陣営の仲間たちによって打ち出されている(必要ではあるけれども)片寄った批判を超える一つの大きなステップを提示していると思います。

 

そして彼は、ーー空論的世俗主義によってこれまで奇形的に思想づけられてきた数限りない人々が、聖書および偉大な宗教的伝統の中に織り込まれている真理に対し心と精神をオープンにすることができるようーー、彼らを助けてきました。

 

しかしながら彼は依然として、カント的分断の片面から先に進めていないように思われます。彼にとって、人格的にして生ける聖書の神は、未だ元型であり、一つの思想であり、ヒューリスティックな手段にとどまっています。将来的に、ピーターソンとの対談の機会が与えられた際には、この点を詰めていけたらと思います。

 

ー終わりー

 

関連記事

 

ロバート・バロン司教の記事

*1:訳注:

↓ソビエト恐怖政治について

↓ ポストモダニズムと文化的マルクス主義について

↓ジョーダン・ピーターソン vs キャシー・ニューマンのディベート【ジェンダー問題】

*2:訳注:サム・ハリスのキリスト教批判

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