巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

私の辿ってきた道ーーダグラス・M・ボウモント師の信仰行程【最終回】今壊れているものはやがて元のように修復される

その1】【その2】【その3】【その4】【その5】からの続きです。

 

出典

 

目次

 

Douglas Beaumont, ed., Evangelical Exodus: Evangelical Seminarians and Their Paths to Rome, 2016 / Douglas Beaumont – Former Evangelical, CH Network, 2016(抄訳)

 

岸まで犬かきする

 

私は自問しました。「もしもこれまでに生存した歴代のクリスチャンたちが来週の日曜日、この世に一斉に戻って来て、自らの教会に行くとしたら、僕はどの教会に集いたいと思うだろう?」

 

イグナティオス、アンブロシウス、ヒエロニムス、アウグスティヌス、アンセルムス、アクィナス、ダンテ、J・R・R・トールキン、G・K・チェスタートン、ジョン・ヘンリー・ニューマン、エティエンヌ・ジルソン、マザー・テレサ、フラナリー・オコナー、フランシス・ベックウィズ、エド・フェイザー、ピーター・クリーフトの通う教会がやっぱり良さそうだ。

 

歴代を通し存在してきたそういった偉大なキリスト者たちーー彼らはキリスト教信仰を生き、教え、それを死守してきましたーーが、(プロテスタントがそう信じているように)信仰に関し大間違いをしてきたということがあり得るでしょうか。

 

知的に優れ、倫理的に傑出し、霊的に輝くキリスト者という宝を生み出してきたカトリシズムがーー、ことキリスト教自体に関して言えば、それを全く勘違いしてきたということがあり得るでしょうか。

 

この時期、私はトマス・アクィナスの以下の文章に出会い、彼の説明を通し、私は自分の中に潜む神学的自律性(theological autonomy)の問題を確信するに至りました。

 

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聖トマス・アクィナス(出典

 

 「信仰に関する形式目的は第一真理であり、それはーー第一真理に由来するーー聖書および教会(Church)の教えの内に顕されている。従って、不可謬にして神的基準に関し、(聖書に顕されている第一真理より発生している)教会の教えに従わない者は誰であれ信仰の性質を持しておらず、信仰によるもの以外のなにか別の信心を有している、、、不可謬なる基準に関してであるが、教会の教えに従っている者は、教会が教えている内容に同意している。

 

 それとは対照的に、仮にある人が(教会の教えに関し)自分の信じたい部分だけを選り好みし、信じたくない部分に関してはそれらを拒絶しているとしよう。その場合、その人はもはや不可謬の基準としての教会の教えに忠実であるのではなく、単に自分自身の意志に固執しているのである。」*1

 

異端者たちがいかに神学を取り扱っているかに関する上記のアクィナスの描写は、恐ろしいほど自分のそれに酷似していました。実際、私は本当に自分自身の考えや経験に信頼を置いていた(そして間接的に他の人たちにもそれを教授していた)と思います。

 

原則的にはそれを拒絶してはいたものの、そこから抜け出るのは至難の業でした。カトリックになるということは、自分自身ではなく教会の判断の方に信頼を置くという選択をすることを意味しており、両者の歩調が合わない時もあります。

 

正直にいって私は、カトリックになるということに完全に平安を見い出すという地点にまでは達していませんでした。ですが、おそらく神は、ーー自分の個人的趣向に従う形での、キリスト教の一形態から別の一形態への移動というものではなくーー真に「信仰に裏打ちされた」決断を私に求めておられるのではないかと考えるようになりました。

 

やっとの思いでテヴェレ川の土手まで辿り着く

 

こうして2014年の復活の徹夜祭(Easter Vigil)の時期に、私は、くたくたに疲れ、重い足を引きずりながら、やっとの思いでテヴェレ川の土手までわが身を運び、こうしてカトリック教会とのフル・コミュニオンに受け入れられました。

 

私は「全米中でもっとも打ちひしがれ、気乗りしない不承不承のカトリック」というわけではありませんでしたが、そうかといって完全に至福であったとも言えませんでした*2。しかし、ともあれ、私はついに堅い地盤に辿り着いたのでした。

 

おわりにーー共に旅を続けている仲間たちへ

 

最後になりますが、「福音主義者やその他の非カトリック信者たちは皆地獄行きだ」とかそのようなことを私は考えていない、ということを申し上げておきたいと思います。この探求の期間、私は一つの現象に気づきました。

 

それは何かといいますと、元カトリックで成人後福音主義者になった人たちが往々にしてカトリック教会を憎み(そして誤解している)のに対し、元福音主義者で後にカトリックに改宗した人たちは一般に福音主義の中の多くの部分に感謝の意を表明し(且つ正しく理解している)という傾向です。

 

最初の内、なぜこういう現象が起こるのか理由がよく分かりませんでした。なぜ(カトリック以外の信仰背景から)カトリックに改宗した人たちは自分の霊的過去に対し腹を立てていないのでしょうか。

 

次第に分かってきたのは、自分も含め、多くの人々にとり、カトリシズムというのは過去の信条に対する「拒絶/排斥」というよりはむしろ、その「発展/成熟」なのだということです。ですからカトリックになることは、「放棄/断念」というよりは、豊満性に対する「受容」なのだろうと思います。

 

最終的に、同胞クリスチャンの友たちの多くとは異なる岸に辿り着くことになりましたが、私は今でも彼ら一人一人に感謝し、彼らを尊敬し、そして愛しています。もし今あなたが、かつての自分のように遥かなるテヴェレ川の岸を遠望しているのでしたら、私は橋渡しとしていつでもあなたのお役に立てたらと願っています。*3

 

その事を以下のようにリチャード・ジョン・ノイハウスが美しく表現しています。

 

「過去に共に旅してきた友たちよ、知ってほしい。私たちは今も尚、共に旅を続けているのだということを。キリスト、そしてキリストの教会の神秘の中にあっては、何をも失われておらず、今壊れているものはやがて元のように修復され、癒されていくだろう。もしもキリストの教会との私のコミュニオンが今や(自分が確信しているように)その豊満性の中に置かれているのだとしたら、そこから導き出されるのは、今やキリストの内にある全ての人との私のつながりはいよよ強められたということだ。そう、今も尚、私たちは共に旅を続けているのである。」*4*5

 

ー完ー

*1:Summa Theologiae II-II, 5.3.

*2:キリスト教に回心したC・S・ルイスの描写を文字っています。

*3:Blog | Douglas Beaumont | Christian Theology, Philosophy, Apologetics.

*4:故リチャード・ジョン・ノイハウス師は、元ルーテル派の教職者です。

*5:訳注: