巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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私の辿ってきた道ーーダグラス・M・ボウモント師の信仰行程【その4】東方正教会に通い始める

その1】【その2】【その3】からの続きです。

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ロシア正教会(出典

 

目次

 

Douglas Beaumont, ed., Evangelical Exodus: Evangelical Seminarians and Their Paths to Rome, 2016 / Douglas Beaumont – Former Evangelical, CH Network, 2016(抄訳)  

 

東方正教会の門をくぐる

 

ひとたび古代教会(ancient Church)がキリスト教会(christian Church)であるということに対する確信が与えられるや、新しい問いが噴出してきました。

 

カトリックも正教も共に、自らのアイデンティティーに関し、合法的にして歴史的な主張をしています。ですから、「カトリックか、もしくは、正教か?」の識別は、プロテスタント諸教派間の識別作業と同じ風にはいかないのだということに気づきました。

 

私としては断然、東方正教会の方に好意を寄せていました。正教はまず美しく、古にして、使徒的、そして正統的です。また正教には、カトリックについてまわる雑多な荷物(例:教皇、十字軍、ガリレオ、異端審問、宗教改革)がないため、尚のこと、私にとって魅力的でした。

 

私は何人かのすばらしい正教司祭たちに会い、いろいろと質問をし始めました。そして正教会の深遠なる典礼にも参加するようになりました。そして最終的に、南部福音神学校の友人たち何人かと共に、正教入門講座を受講することになりました。(その中の3人はその年のうちに正教に改宗しました。)

 

外的、内的な文化的分断状況に直面して

 

こういった一連の経験はどれも良いものでしたが、中に入ってみて分かったのが、東方正教がーー外的にも、内的にもーー文化的に分裂しているという現状でした。その外的諸分裂は諸教会の名称からも一目瞭然です(例:ギリシャ正教、ロシア正教など)。

 

こういった現象は、福音主義/プロテスタント諸グループのような意味における分裂ではないとしても、さまざまな正教共同体が「他のどの正教諸教会が真に正教なのか?」を巡って互いに意見を違わせているほどにやはり深刻なものでした。*1*2

 

それゆえに、そして、これらの諸教会が西方教会とシスマ(分裂)の状態であり続けているがゆえに、正教会においては、権威的にして、普遍的に拘束力をもつ公会議を召集することが絶えてしまいました。(公会議召集というのは教会の機能として重要な部分であるように思えました。)

 

また内的には、そこにある種の〈文化的派閥メンタリティー〉というようなものが存在し、それが自分たちの共同体の外側にいる人々を排除する要因となっている感がありました。*3

 

「仮に(転勤などの事情で)私たち家族が地元にあるこのすばらしい正教会を離れなければならなくなったとして、、、その新しい地域には、西洋人を受け入れない種類の正教会しか存在しなかったとしたら、、、その時はどうなるのだろう?」

 

また、東方正教会に関し私が魅力を感じている部分の多くは、東方典礼カトリック教会の中に見い出すことができるということも発見しました。*4

 

それから、自分の神学が西方世界の偉大なる思想家たちによって形成されてきたということを私は認めなければなりませんでした。この点に関し、トーマス・ハワードがいみじくも次のように言っていました。「私が大シスマを引き起こしたわけではないし、おそらく私はそれを解決できない。そして良くも悪くも私は西洋思想家である。*5*6

 

ああ、もう選択肢がない!

 

しかしそうなると、残る選択肢は一つしかないということになってしまいます。ーーカトリック?まさかこの自分が?本当に想像したことすらありませんでした。

 

ABC鉄則(「カトリックだけは御免こうむる!"Anything but Catholic!"」)の禁を犯し、自分はローマに向かわなければならないのだろうか。なんとかそれを回避できないだろうか。しかし結局、使徒継承、教義的一致、普遍的権威を保持しているキリスト教実体はカトリック教会しかないように思われました。

 

そこで私は、古の河川の二支流を隔てている砂州に泳ぎつき、そこからはい出、テヴェレ川の河岸に向かい歩いて行きました。

 

テヴェレ川につま先で触れてみる

 

ある人は思うかもしれません。「選択肢をここまで絞れたのだから、彼にとっての最後の泳ぎは容易なものであったに違いない」と。本来ならそうだったのかもしれません。しかし自分の目にテヴェレ川は教義的、倫理的障壁が散乱しているように見えました。

 

カトリシズムの偶像礼拝やら、律法主義やら、放縦は一体どうなるのでしょう。教皇制、外典、煉獄などとてもじゃないが自分には受け入れられないと思いました。それに、十字軍や、異端審問所や、(彼らによって殺された)殉教者たちの血の責任などを自分も負うことになるのでしょうか。

 

もちろんカトリック教会には、アウグスティヌスやアンセルムスやアクィナスがいます。ですが、この教会はフスやルターやガリレオの件に関してもまた申し開きをしなければなりません。それに、25年間に渡る自分のカトリシズム批判に今さらいかにして背を向けよというのでしょう。

 

こういった諸問題に関しては紙面の関係上、通り一遍の回答さえできませんが(別の場所で詳しく取り扱っています)、ここで一つだけ言いますと、検証を進めていく中で、〔プロテスタント時代に自分が得てきた〕これらの問題に関するバックグラウンド情報の大半が実は誤っていたということを発見したのです。

 

カトリシズムが自分にとって差し迫った重要事でなかった時には、私は(非カトリック教徒の書いた)二次資料に無批判に依拠していました。しかしテヴェレ川の深みにどんどん沈みゆく自分を見い出す中で、私は差し迫って一次資料を読み始めました。ーーそうしたところ、それまで自分が思い描いてきたものとはかなり違うカトリシズムが自分の前に現出してきたのです。

 

実際、想像以上に、自分はカトリシズムの多くの部分にすでに同意していたことに気づきました。彼らが実際に何を教説しているのかということを知った時、多くの‟疑わしい”カトリック諸教理が以前に比べずっと納得できるものとして捉えられるようになりました。

 

また当初、反論の余地があると感じていた事柄の多くが、実際には、(福音主義者として自分がすでに保持してきた)諸原則に則って容易に弁証され得るということにも気づいたのです。

 

例えば、化体説は、変化に関する哲学的説明(例:なぜ牛がハンバーガーになり、そしてさらには私の肉になり得るのだろうか?ーー一見したところ、それらは同じ物質であり続けているように見えるのに。)、および、ユーカリストに関するイエスの字義主義の聖書的説明(参:ルカ22:19-20、ヨハネ6:48-68、1コリ11:23-32)から納得がいくようになりました。

 

また、煉獄は、(必要最小限のエヴァンジェリカル版福音が解明し切れていない)『慈愛』と『義』その両方の聖書的諸原則に、納得いく説明を与えています。ーーつまり、「私たちの為すことは実際本当に重要であり、それらは此岸(しがん)を超えたところにまで影響をもたらしている。」という全てのクリスチャンが共有している直観の部分にしっかりした回答を与えているのです。

 

さらにロザリオの祈りが実はかなり保守的なものであるということを知り驚きました。ーー最も‟カトリック”的な響きに聞こえる祈りであっても、蓋を開けてみるとそれらは単に聖書からの直接引用であったり、そこから導き出される教理に対する是認であったりするということに気づかされたのです。

 

それから、またマリアや聖人たちは、自分がすでに持っていた一大クリスチャン・ファミリーへの歓迎すべき追加メンバーとなり得ます。ーーもしも彼らが死んでいないのなら、です(ルカ20:38、参:ヘブル12:1)。

 

そう、もしも彼らが死んでいないのなら、それなら、地上に生きている他の兄弟姉妹にとりなしの祈りを申請するのと同じような感覚で、上にいる彼らにも祈りのリクエストをしてはいけない、という法はないように思われました。また、救いに関連した‟功徳”ですが、これもまた実は律法主義的では全くなく、実際には、約束された、天に向けた私たちの魂に対する神の備えを指し示しているものだということが分かりました。

 

こういったものやその他の誤解が解けていくにつれ、「それならば、、カトリシズムというのはとどのつまり、カルトってわけではなかったのか?」と自分の中で考えが変わっていきました。

 

ー【その5】に続くー

*1:例えば、米国正教会(Orthodox Church in America)を巡っての論争のことを考えてみてください。"Recognition of the OCA", Orthodox Church in America website

*2:訳注:クレテ島で2016年に開催された正教会議に関し、カリストス・ウェア府主教が正教界内の政治的/文化的確執の諸問題および今後の課題について実直に語っておられます。

*3:しかしこれは自分の経験というよりはむしろ、私に現状を報告してくださった多くの正教徒の方々の経験です。実際、私が通っていた正教会はこの問題を克服しようととりわけ尽力していました。

*4:この点に関してはアンドリュー・プレスラーの証しを参照してください。

*5:Thomas Howard, Evangelical Is Not Enough: Worship of God in Liturgy and Sacrament (Nashville, Tenn.: Thomas Nelson, 1984), postscript.

*6:訳注:トーマス・ハワード師の記事: