巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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キリスト教正統性の問題と福音主義(by ダグラス・M・ボウモント他)【その1】

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出典

 

目次

 

Douglas Beaumont, ed., Evangelical Exodus: Evangelical Seminarians and Their Paths to Rome, Appendix 2, Facing the Issue of Christian Orthodoxy, 2016(抄訳)

 

キリスト教正統性に欠くことのできない「本質的・根幹的教理」とは何か?

 

真摯なキリスト者にとって、福音主義内におけるさまざまな神学的諸論争の要(かなめ)はそこにおいて果たして「本質的・根幹的教理」が脅かされているか否かにあるのではないでしょうか?

 

仮に不一致・不同意が本質的な諸教理に関わるものであるとしたら、分裂は不可避なものとされます。一方、それが非本質的な教理に関わるものであるとするなら、そこにおいて生じた分裂は罪とみなされます。この点に関し、ノーマン・ガイスラー師は次のように警告しています。

 

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ノーマン・ガイスラー師(1932-)

 

「正統性が保持されるためには、

①一つの基準がなければならない。

②それは、ーー誰かがその基準を満たしていないという識別を可能にせしめるものでなければならない。

③誰かがその基準を満たしていない場合、〔具体的〕諸結果を伴うものでなければならない。

④それらの諸結果は、自らを正統派とみなす者にとって、畏れと敬意の念をもって捉えられるものでなくてはならない。」*1

 

さらに、具体的にどの諸教理が本質的教理のリストに含まれるのかに関する識別も非常に大切です。ガイスラーは本質的教理を特定化することがいかに重要であるかの理由を次のように述べています。

 

①本質的教理はキリスト者一致のための基盤である。

②本質的教理は、「真のキリスト教とキリスト教カルト諸派を峻別する。」

③本質的教理は、「私たちが正しく分類するに当たっての唯一の諸真理である。」*2

 

それゆえ、本質的教理を客観的に特定することは、福音主義正統性(Evangelical orthodoxy)を決定する上でもっとも重要な事となります。

 

しかしキリスト教正統性のための普遍的基準を見い出そうとする際、私たちは困難にぶつかります。カトリック教徒や東方正教徒が教会(Church)の指導者たちの内に生ける基準を求めようとするのに対し、プロテスタント教徒はそういった権威を拒絶してきました。

 

「聖書のみ」(Sola Scriptura)の教理は、「聖書のみが正統性を決定するための究極的基準である」ということを要求していますが、この原則に忠実であろうとすると私たちは幾つかの深刻な問題に直面することになります。*3

 

聖書のみで正統性を決定できるだろうか?

 

1.非聖書的カテゴリー

 

第一に、仮に正統性が信仰における‟本質(essentials)”によって見い出されるとするなら、そこには紛れもない問題が内在しています。ーーつまり、聖書のどこにも、「これは信仰における本質的教理です」「他方、この部分は非本質的教理です」といった区分がなされていないのです

 

それゆえ、この線上でのいかなるカテゴリー化の試みも、それらは不可避的に聖書の《外側》にあるソースから来ていることになります。

 

「聖書のみ」の教理の支持者は一般に、非究極的諸事項を取り扱う際には、私たちが聖書外諸権威に依拠することの合法性を否定していません。ですが事が、「正統性」を決定することになると彼らは往々にしてそれらを非合法的なものとみなします。

 

「聖書のみ」を使用した上で本質的教理を特定しようとする一つの試みとして、福音メッセージの周囲にそれらの本質的教理を標定しようとするやり方があります。そして基本的に彼らは、「信仰に不可欠なものとして福音が真であるために一体何が必要であるのか」という問いから論理的に「本質的・根幹的教理」を演繹していきます。

 

こういった方法論によって作成された「本質的・根幹的教理」の一覧は、往々にして尊敬に値するものでありますが、しかしここにおいてもまた明らかなる問題が顕在化してきます。

 

その一つは、人々の演繹によって導き出された「本質的教理」が互いに一致しておらず、同一でないということです*4。なぜなら彼らはさまざまな救済論的諸事項に対しそれぞれ異なった力点を置いているからです。

 

例えば、著名なプロテスタント著述家であるジョン・マッカーサー師は、次のようにコメントしています。

 

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ジョン・マッカーサー師(1939-)

 

「福音メッセージそれ自体、根本的教理における主要点として認識されなければならない。しかるにいかなるメッセージがわれわれの福音証言の内容を決定するのだろうか?」*5

 

これに対するマッカーサーの応答は、「聖書に訴えること」です。彼は次のように言っています。

 

「われわれは、聖書が根幹的だと特定しているところの諸教理の心臓部に達するような諸事項を取り扱っている。さあ、聖書そのものに向かい、『真正なるキリスト教にとって、果たしてどの信仰諸事項が真に不可欠なものであるか』を決定するための聖書的諸原則を明らかにしようではないか。」*6

 

マッカーサーはさらに続けて、「根幹的諸教理は聖書の中に明瞭である*7」と論じています。彼の「本質的・根幹的教理」リストは以下のものです。

 

ー信仰

ーイエスの神的御子性およびメシア性

ーキリストのからだのよみがえり

ーキリストのロードシップ

ー信仰のみによる義認

ー伝統に対する、聖書の絶対的権威

ーキリストの神性

ー三位一体

ー信仰者に対する「キリストの完全なる義」という神の転嫁(imputation)

ー反アンチノミアニズム

ー教理的、倫理的啓蒙

ー自らの罪深さに対する認識

ーキリストに対する愛

ーイエスの受肉

ー処女懐胎

ー罪なきキリスト

ー聖書に対する高い見方

ー聖書解釈に関する健全なメソッド*8

 

注目に値するのは、彼がこのリストの中に、「聖書のみ(sola scriptura)」「信仰のみ(sola fide)」というプロテスタント限定の諸概念を含めていることです。*9

 

他方、同じく著名な福音主義著述家であるノーマン・ガイスラー師は、マッカーサーの「本質的・根幹的教理」とは異なるリストを以下のように作成しています。

 

ー人間の堕落

ーキリストの処女懐胎

ー罪なきキリスト

ーキリストの神性

ーキリストの人性

ー神の一致

ー神の三一(さんみ)

ー神の恩寵の必要性

ー信仰の必要性

ーキリストの贖罪死

ーキリストのからだのよみがえり

ーキリストの肉体を伴った昇天

ー大祭司としてのキリストの現行の務め

ーキリストの再臨、最後の審判(天国と地獄)、キリストの統治*10

 

上記の救済論的「根幹教理」に加え、ガイスラーは「無誤、無謬、霊感を受けた書としての聖書」を、認識論的(啓示論的)根幹要素に挙げています。なぜなら、聖書なしには、私たちは根幹諸教理が何であるかを知り得ないからです。さらに彼は、その他の根幹諸教理を聖書から正当に引き出すための手段としての解釈学的根幹要素を含めています。

 

ガイスラーの一覧表はマッカーサーのそれとマッチしていないだけでなく、後の自著「Conviction without Compromise」の中で挙げている一覧表ともかみ合っていません。この著書の中でガイスラーは、

 

ーキリストの再臨

ー最後の審判(天と地)

ーキリストの統治

という元々は根幹要素の一項目であったものを二つに分割した上で、キリストの統治はリストから削除されています。*11

 

仮にこの「聖書のみ」のプロセスが、救済に関わる必要不可欠な諸教理からの真に論理的な演繹であるとするなら、二人の結論がこのようにマッチしていないのは、大いに問題だと言わなければなりません。*12

 

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出典

 

ここで互いに関連する二つの問題が顕在化しています。まず、両事例において、福音からそのまま(=simply)演繹されたわけではない諸教理が含まれています(例:処女懐胎、「聖書のみ(sola scriptura)」)

 

そうかと思えば逆に、救済に関連するものとして聖書の中に明確に言明されているものが含まれていません(例:ヨハネ3:5、使2:38;ローマ6:1;1ペテロ3:21)。

 

キリストの埋葬と顕現は福音メッセージの一部として使徒パウロによって明確に言及されていますが(1コリ15:1-5)、それにもかかわらず、マッカーサーのリストにも、ガイスラーのリストにもそれは出てきていません。

 

もしも信仰にかかわる本質的・根幹的教理が真に福音から演繹されるのだとしたら、一体なぜ、福音メッセージそれ自体の中に言及されている諸要素がそこに含まれていないのでしょうか?

 

結局、これらは、論理的メソッドから引き出された結果であるような外観に過ぎないということが明らかだと思われます。そして、これは、キリスト教正統性を(神学的諸見解や、教派的信条告白や、個々の教会の信仰宣言等ではなく)「聖書のみ」だけを基盤に基礎づけようとする最良の試みの一つであるだけに、このメソッドの失敗は致命的です。

 

ー【その2】に続くー

*1:Norman L. Geisler, "The Essential Doctrines of the Christian Faith (Part One): A Historical Approach", Christian Research Journal 28, no. 5 (2005), Christian Research Institute.

*2:同上

*3:訳注:

*4:訳注:

*5:John MacArthur, "How Can We Determine What Doctrines Are Essential and What Are They?" Grace to You,, adapted from John F. MacArthur, Reckless Faith (Wheaton, Ill,.: Crossway, 1997), 108-17.

*6:同上

*7:同上

*8:マッカーサーは次のように述べています。「(このリストは)根幹的諸教理を全て包含した網羅的一覧表ではない。そのようなタスクは本稿の領域を超えるものである。それに加え、こういった諸教理を的確に見極め、特定するのは非常に困難なことである。」MacArthur, "How Can We Determine What Doctrines Are Essential and What Are They?".

*9:訳注:

*10:Geisler, "The Essential Doctrines of the Christian Faith (Part One).

*11:Norman Geisler and Ron Rhodes, Conviction without Compromise: Standing Strong in the Core Beliefs of the Christian Faith (Eugene, Ore.: Harvest House, 2008).

*12:その他の著名な福音主義/プロテスタント著述家による、「聖書のみ」メソッドを基盤にした多様な一覧表の例。①Hank Henegraaff, "What Is Essential Christian Doctrine?", Christian Research Institute.(尚、ハンク・ハネグラフ師は2017年、東方正教に改宗。)②Greg Koukl (Stand to Reasonの創設者): "Essential Christian Doctrines", Stand to Reason. ③Matt Slick (founder of Christian Apologetics Research Ministryの創設者), "Essential Doctrine of Christianity", Christian Apologetics And Research Ministry. ④S. Michael Houdmann (ゴット・クェッションズの会長):"What Are the Essentials of the Christian Faith?" GotQuestions.org