巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ユーカリストの本質ーーミサの犠牲的性質に対するプロテスタント諸反論について(by ローレンス・ファインゴールド、ケンリック・グレンノン神学校)【その6】

全世界よ、震え慄け。天よ、歓喜せよ。生ける神の御子キリストが、司祭の両手の中に、祭壇の上に実在しておられる。ーーアッシジの聖フランチェスコ

 

ミサの聖なる沈黙

 

目次

 

Dr. Larence Feingold, Association of Hebrew Catholics Lecture Series, The Mystery of Israel and the Church, Fall 2016-Series 18, On the Eucharist, Part 2. Talk # 2. Protestant Objections to the Sacrificial Nature of the Mass. (拙訳)mp3Q & A

【その

 

結語:祭司制と犠牲

 

これまで省察してきましたように、「犠牲」と「祭司制」の間には本質的な相関性があります。司祭は神と人の間の仲介者として叙階され、それは主として犠牲奉献において成し遂げられます。

 

従って、犠牲無しの祭司制というのはナンセンスなものとなります。トリエント公会議は両者の親密なる関係性を是認し、次のように述べています。

 

「犠牲と祭司制は神の定めにより非常に密接に結びついているため、両者はあらゆる法の下に共存しています。それゆえ、新約聖書において、カトリック教会は、キリストの御制度から、聖にして可視的なユーカリストの犠牲を受け取りました。従って、教会には新しい、可視的、外的祭司制が存在し、旧い制度は変更されたということもまた認識されなければなりません。」*1*2

 

1520年、宗教改革のスタート地点において、ルターは、①ミサの犠牲的性質、②叙階(Holy Orders)その両方を拒絶しました。彼が両ステップを同時に踏んだというのは納得が行きます。なぜなら、犠牲と祭司制というのは互に切っても切れない関係にあるからです。*3

 

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マルティン・ルター

 

そしてこれはその後、甚大なる負の影響をもたらすことになる異端でした。なぜならこの異端教理により、プロテスタンティズムにおいては、ほとんど全てのサクラメント制が廃止されてしまい、残ったのは(奉仕者に叙階を要求しない)、バプテスマと婚姻のただ二つだけでした。*4

 

この誤謬を正当化するべく、ルターは、「叙階のサクラメントによって生成される聖職的祭司(ministerial priesthood)」と、「洗礼を受けた全ての信者の一般的祭司制」の間を区別することを拒絶しました

 

この見解によると、司祭ないし牧師というのは、本質的/存在論的に祭司的性質を持つ人として特徴づけられているわけではなく、それは単に「教会での説教および統轄という機能を果たす人」として位置づけられています。*5

 

遺憾なことに、過去40年間に渡り、多くの神学者たちがルターの足跡に倣い、ユーカリストの犠牲的側面を最小化してきました。ですから、祭司制自体が深刻なアイデンティティー危機に陥っている現在の状況は決して驚くに値しません*6

 

今日のカトリック教会におけるこういった状況を深く悲嘆したヨハネ・パウロ二世は、2003年に回勅を出し*7、次のように述べています。

 

「時として、私たちは、ユーカリスト的神秘に関する極端に還元主義的理解に遭遇します。ユーカリストの持つ犠牲的意味をはく奪され、それはあたかも単なる友愛的祝宴(fraternal banquest)であるかのように執り行われています。さらに、使徒継承を土台とした聖職的祭司(ministerial priesthood)の必要性がしばし曖昧にぼかされ、ユーカリストの秘蹟的性質が、単に、宣布の形としての有効性という次元に還元されてしまっています。

 その結果、(善意からではあるとは思いますが)エキュメニカル運動を主導する人々により、ーーカトリック教会が本来告白している信仰とは相反するユーカリスト慣習があちこちで見受けられます。これら全ての事を目の当たりにし、深い悲嘆を覚えない人がいるでしょうか?ユーカリストというのはあまりにも偉大なる贈物であるため、私たちはこういった曖昧さや減価行為に対し寛容でいることはできません。」

 

ユーカリスト的犠牲という観念の喪失および、「司祭」と「祭壇の犠牲」の間の本質的つながりに関する認識の喪失こそが、ここ数十年に渡って私たちが陥っている祭司制危機の根本原因です

 

 

まず第一に、司祭は自らの根本的アイデンティティーを喪失しており、それは本来、至高なる祭司であり犠牲者である、十字架に架かりしキリストとの神秘的にして秘蹟的同一化に在するものです。そしてこの認識から生み出されてくるのが、司祭としての非常に特別な責務感ーーすなわち、自らに任せられた群れの救いのために自制および自己犠牲を実践していくという特別の責務です

 

また同じ事が類推的に信徒の方々にも適用されるでしょう。信徒もまた、祭壇の上にキリストと共に自分たちの人生を捧げるという、王なる祭司制を行使すべく召されています。この点については次項で詳しく取り扱っていきたいと思います。

 

私たちは、キリストを模倣していく歩みにおいて、そしてミサに与る人生、そしてミサから流れ出る生き方において、犠牲の中心性を回復させなければなりません。そこにこそ、教会生活全体の絶頂および源泉があります。

 

ー終わりー

*1:Council of Trent, Session 23 (1563), ch.1, DS,, 1764.

*2:訳注:英語本文 "Sacrifice and priesthood are by the ordinance of God so united that both have existed under every law. Since, therefore, in the New Testament the Catholic Church has received from the institution of Christ the holy, visible sacrifice of the Eucharist, it must also be acknowledged that there exists in the Church a new, visible, and external priesthood into which the old one was changed."

*3:Martin Luther, "Babylonian Captivity of the Church," in Luther's Works, 36:35-54; 106-117.

*4:ルターは婚姻のサクラメント性を否定しました(同著,p.92)。しかしこのサクラメントは叙階の喪失と共に失われたわけではありません。なぜなら、サクラメントの奉仕者たちは配偶者たち自身だからです。

*5:Martin Luther, "Babylonian Captivity of the Church," in Luther's Works,36:112-113: 「なぜなら1ペテロ2:9には次のように書いてある。『あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、司祭的王族(priestly royalty)』。それゆえ、我々キリスト者は皆、司祭である。。彼らが為していることはことごとく、我々の名によって為されている。祭司というのは牧師職(ministry)に他ならない。」

*6:訳注:↓ユーカリストの犠牲的側面が消滅したミサの実例

*7:Ecclesia de Eucharistia 10