巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ユーカリストの本質ーーミサの犠牲的性質に対するプロテスタント諸反論について(by ローレンス・フェインゴールド、ケンリック・グレンノン神学校)【その5】

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目次

 

Dr. Larence Feingold, Association of Hebrew Catholics Lecture Series, The Mystery of Israel and the Church, Fall 2016-Series 18, On the Eucharist, Part 2. Talk # 2. Protestant Objections to the Sacrificial Nature of the Mass. (拙訳)mp3Q & A. 【その

 

④「ミサの犠牲はカルバリーから私たちの注意を逸らす」という反論について

 

次のような反論が為されるでしょう。

 

「カルバリーでのイエスの十字架の死が完全に十分かつ無限に豊満なものであるのなら、一体何ゆえに奉献の繰り返しが為されるのでしょう?そのような必要はないはずです。繰り返しというのはむしろ、カルバリーでの犠牲の荘厳から私たちの目を逸らさせるものではないでしょうか。

 カルバリーでの犠牲が全ての罪の赦しのために完全にして十分なものであるのなら、なぜ、教会は祭壇の上で繰り返し繰り返し犠牲を再現("re-present")させ捧げていると主張しているのでしょう。なぜキリストは、御自身の教会の中で継続的な犠牲奉献を導入することにより、‟カルバリーを永続化させる”ようなことを望まれたのでしょう。そんな事はないと思います。」

 

回答1ーー御父は私たちの参与(participation)を望んでおられる

 

この重大な反論に対して私たちは幾つかの回答をすることができます。まず一番目に、キリストは、御父による御自身の栄化の内に私たちが参与(participation)することを望んでおられます。

 

主は、ただ単に私たちの身代わりになるためだけではなく、私たちをよみがえらせるために、人になられました。それにより、私たちは主と一つに結び合わされます。そして私たちが主と一つにされるのだとしたら、私たちは、ーーご自身の至高なる犠牲の奉献の中、および、それに付随するところの神への全き礼拝の中においてーー主に参与しなければなりません。

 

代償(substitution)と、参与(participation)それぞれの見方について

 

人類に対するキリストの関係を理解する上で二つの異なった見方があり、それは、①代償(substitution)と、②参与(participation)とそれぞれ範疇化できると思います。

 

ロゴスが人になられたのは主として、私たちが受けるべき罪の刑罰の身代わりになられ、赦しを勝ち取ってくださるためだったのでしょうか。あるいは、ロゴスが人となられたのは主として、御自身の神性、慈愛、正義、御父による全き栄化の中で私たちに共有分を与えてくださるためだったのでしょうか。

 

もしも私たちがキリストの犠牲を、代償的刑罰として理解するなら、犠牲としてのミサというのはもはや意味をなさなくなります。キリストはすでにカルバリーで私たちのために代償的死を遂げられ、今や私たちは犠牲や功徳という重荷から解放されています。

 

他方、仮に神が私たちの参与を望んでおられるのだとしたら、キリストの御業はカルバリーで終結したのではなく、教会史全体を通し今も続いており、その中にあって私たちは、ミサの犠牲において、御父によるキリストの栄化の内により深い参与へと導き入れられているのだ、ということになります。*1

 

回答2ーー人間の状況

 

二番目の回答は、ーー単なる抽象的知識に甘んじることのできないーー私たちの人間の状況に関するものです。

 

肉体的なもの、霊的なもの、その両方を兼ね備えている私たちの人間本性は、自分たちの信奉する不可視的諸真理に関する外的にして知覚可能な(頻繁なる)顕現を必要としています。実際、外的に頻繁に顕示されない諸真理は人の人生に印象を残しません。

 

それが故に、私たちの救い主は知覚可能な外的しるしとして七つの秘跡(サクラメント)を導入され、カルバリーでの一回の犠牲の「荘厳なる典礼的再現/再提示(re-presentation)」および延長化したものとしてのミサを導入されたのです。そしてマラキ1:11の預言によると、それは「日の出る所からその沈む所まで」捧げられます。*2

 

ユーカリストは、私たちの贖罪におけるまさに犠牲そのものーー人類史全体の中核であり、イスラエルの切望および歴史の絶頂であるところのキリストの贖罪ーーを私たち自身の人生の中においても現存せしめます。

 

2000年前にキリストが私たちの贖罪を成し遂げてくださったことを知ることはそれ自体で大きな信仰の賜物です。ですが、過去に為された事に対する知的知識によってだけでなく、直接的に参与することのできるものによって影響を受けるというのは私たち人間本性の一部です。

 

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出典

 

遠い過去に起こった出来事に関する単なる歴史的知識はぼんやりと影におおわれています。私たちはカルバリーのその場に居合わせませんでした。ユーカリストは人間本性におけるその弱さとニーズを配慮し、時空の持つ自然的諸制限を差し止めています。

 

そしてそれは、メシアのペルソナと主の贖罪的犠牲を、あらゆる場所、あらゆる時に全ての人に対し現存させます。こうして、私たち一人一人はカルバリーでの主の犠牲の中においてこの御方との生ける交わり及び参与が許されます。

 

そしてサクラメント的、神秘的に私たちのために注ぎ出された、(パンと葡萄酒という外形を持った)ご自身の御体及び血潮を、主と共に御父なる神に奉献します。

 

実に私たちは世界のどこにいても、合法的に叙階された司祭のいる所において、これを毎日(あるいは毎週)行なうことができます。一介の人間は2000年以上前に起こった過去の出来事を現存/再現させることはできません。しかし神の全能性および智慧は人間の諸制限によっては縛られていないのです

 

回答3ーー「サクラメント」と「神秘」との間の相関性

 

「ミサの犠牲はカルバリーから私たちの注意を逸らす」というプロテスタントの反論に対する三番目の方法は、「サクラメント」と、(それを現存させる)「神秘」との間の相関性を省察することです。

 

サクラメントというのは、それを表象し神秘の中で現存させるリアリティーと競合関係にはありません。それどころかむしろそれは、ーー私たちのいる時間/空間の中で私たちに触れるべくサクラメント的にその現存を拡張することによりーーそのリアリティーに栄光を帰しているのです。

 

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換言しますと、キリストのサクラメント的臨在および主の犠牲は、その現存および犠牲の歴史的リアリティーに完全に従属しており、それに対する神秘的アクセスを私たちに提供するものなのです。*3

 

ユーカリストにおけるキリストの実在(the Real Presence of Christ*4 )が、(公生涯の間の)受肉を通したキリストの可視的実在の重要性を弱小化させているわけでないのは勿論のことです。それどころか、実際には、(公生涯期の)地上における神的実在が文字通り、世界の最重要事であったために、キリストはそれを拡大させ、全ての人に接近可能なように御配慮してくださったのです

 

同じ御配慮が主の受難のことについても適用されます。主の受難は世界史における最も重要な行為であるがゆえに、キリストは全ての人が、ユーカリストの中でそれとの神秘的交合の内に導き入れられるようご配慮してくださっているのです。

 

そして全き自己奉献を現存させる方法は、キリストがサクラメント的に同じ犠牲者(Victim)と犠牲を奉献しつつ、それと同時に、教会にいる私たちが自らを奉献するという行為がなされることによってです。この点についてはこれから続く講義の中でさらに詳しく取り扱っていきたいと思います。

 

回答4ーーカルバリーにおけるキリストの犠牲の中心性

 

4番目の回答ですが、神は、主としてミサでの聖犠牲を通し、カルバリーで一度だけ決定的に為された功徳(merits)が私たちの魂に適用されるよう意図された、ということが言えます。

 

なぜなら、典礼が宣言するように、「この記念的犠牲が奉献される毎に、私たちの贖罪の御業がなされます。*5」しかし、各ミサにおいて、その功徳の内のほんの幾つかだけが具体的に私たちに適用され、もしくは分配されます。

 

ミサの反復によって、キリストの贖罪行為の功徳が増し加わるわけではありません。なぜなら、カルバリーでの犠牲の功徳は無限であり、それゆえ、これまでこの地上に生き存在した全ての人の贖罪を‟買い取る”ことが可能でした。

 

しかし、この功徳は、私たちが徐々に聖化の道を辿っていく中で、それぞれの魂に個別的に適用されなければなりません。ピオ十二世はこの事を1947年11月20日の回勅『メディアトル・デイ』*6の中で次のように表現しています。

 

「しかしながらこの買い取りは、すぐに完全なる効果が出されるわけではありません。なぜなら、御自身の血潮という代価を払ってこの世を贖われたキリストは、依然として人間の魂を完全に所有しなければならないからです。それゆえ、人はそれぞれ個別的に十字架の犠牲との生けるコンタクトを持つ必要があり、それにより、そこから流れ出る功徳が彼らに付与されるのです。ですからある意味において、カルバリー上で、キリストは聖化と救いのための井戸を作り、そこをご自身の血潮で満たしました。しかし、もしも人がそこに浸からず、自らの罪咎という染みをそこで洗おうとしないのなら、彼らは決して聖められず、また救われもしません。」

 

一度きりのカルバリーでの犠牲が、教会の中で絶えずサクラメント的に「再現 re-presentation」されるというのは、十字架の価値を減少させるどころか、その反対に、キリストの犠牲の中心性を私たち信者の魂に刻み込みます。キリストの犠牲ーーこれは歴史の中心であり、私たちのあらゆる希望の源です。

 

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カルバリーでの犠牲はかくまで重要かつ核心的中軸であるため、キリストはそれがーー私たちの礼拝の中心、主の日を聖なるものとする手段、あらゆる恵みが流れる泉ーーとなるよう望まれました。実に私たちはこの泉から毎日飲み、それにより日々生かされ、日に日にその神秘の深みに入っていくのです。*7

 

願わくば、私たち皆が、ヨハネ・パウロ二世と共に、「聖ミサこそ私の人生ーー日々の絶対的中心です」と告白することができますように。*8

 

ー終わりー

*1:訳注:関連記事

↓プロテスタントの法廷的転嫁(forensic imputation)による義認と、それに対するカトリックの注入(infusion)による義認。下の記事はそもそもなぜ両者の間に異なる見方が生じているのかを考察したものです。

*2:カトリック伝統は、マラキ1:11の預言を、ミサに関するものだと理解してきました。:「日の出る所から没する所まで、国々のうちにわが名はあがめられている。また、どこでも香と清いささげ物が、わが名のためにささげられる。これはわが名が国々のうちにあがめられているからであると、万軍の主は言われる。」(マラキ1:11)

*3:Masure, The Sacrifice of the Mystical Body, 12.参照。「ミサは(それに関連するものとしての)十字架を前提していますが、その逆は真ではありません。十字架の価値を減損するどころか、ユーカリストはそれに非常なる敬意を払っています。なぜならカルバリーのリアリティーなしにはユーカリストはその目的(神秘を内包し、その実をもたらすこと)を果たすことができなかったからです。それは神秘と一致しており、ゆえに、それから逸れることはできません。ーーそれはちょうど、彼に命や存在を与えている原則に反対しながら人は決して生きていくことができないのと同様です。」

*4:訳注The Real Presence | Catholic Answers

*5:Roman Missal, Secret of the Ninth Sunday after Pentecost. Pius XII, Mediator Dei 79を参照。「祭壇での尊い犠牲は、至高なる手段であり、そこにおいて、十字架上で贖い主により勝ち取られた功徳が信者たちに分配されます。『この記念的犠牲が奉献される毎に、私たちの贖罪の御業がなされます。』」

*6:Mediator Dei 77

*7:ピオ十二世、『メディアトル・デイ』79.「しかしながらこれはカルバリーでの実際の犠牲の威厳を貶めるものでないばかりか、その反対に、ーートリエント公会議が宣言しているようにーーその偉大さおよび不可欠性をより明確に宣布しています。日々のいけにえの奉献により、私たちは、主イエス・キリストの十字架以外には救いがなく、神ご自身『日の出る所からその沈む所まで』この犠牲が絶えず捧げられ、それにより、私たちが神に負っている賛美と感謝の讃歌が止むことがないーーその事を望んでおられます。」

*8:Address at a Symposium in honor of the 30th anniversary of the Decree "Presbyterian ordinis," Oct.27, 1995, n.4; L' Osservatore Romano English edition, Nov.15, 1995, p.7. Benedict XVI recently quoted this and made it his own in his address to the clergy of Rome on May 13 in the Basilica of St. John Lateran.