巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

典礼本来の美、沈黙、そして深遠さについて(アリス・フォン・ヒルデブラント)

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出典
 

The Value of the Traditional Mass by Alice von Hildebrand # 1, 2, 3(抄訳)

 

伝統的ミサに対する一つの反論として次のようなものがあります。「伝統的ミサでは、人々は受動的であり、祭壇で行なわれている聖なる行事に参加していない」と。

 

それに対しお答えしますと、私たちは積極的に何かを‟する”ためにミサに行くのではなく、神を仰ぎ見、崇敬するために行くのです。神への崇敬には、観想、沈黙、受容性が含まれます。

 

現代人を脅かしている大きな危険は、私たちが ‟being"(~であること)よりも ‟doing"(すること)の方により重点を置いている結果、沈思の敬拝を呼びかける《神秘》ーーこれに対する感覚を喪失しつつあることにあります。

 

‟伝統という黄金の束”を断ち切ってしまうことがどれほど破壊的なことであるかをプラトンの知恵は私たちに教唆していると思います。過去の教訓を拒絶することは最も浅はかなことであり、それと同時に、いかなる発展をも拒もうとする、そういった態度も賢明ではありません。それは ‟それがただ蕾に過ぎないから” という理由で蕾に水をやる事を拒否する様に譬えられるでしょう。

 

しかしながら今日、いわゆる ‟プログレッシブ”と呼ばれている人々の中には、ただそれが過去のものであるからという理由だけで、やみくもにあらゆる過去を亡きものにしようとする因習打破的熱情に駆られている人々がいます。

 

『教義の発達について』という名著を執筆したヘンリー・ニューマン枢機卿はその点でなんと賢明だったことでしょう。過去に対し私たちが負っている恩恵は計り知れず、それに対する忘恩は、愚鈍さの微妙な一形態であることがしばしあり得ます。

 

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私たちはもはや沈黙のもつ重要な価値を理解することができなくなっています。モール、デパート、お店は、‟ミュージック” と呼ばれているものの大音響に絶えずさらされていますが、実際のところ、それらは音楽ではなくただの騒音です。

 

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 出典

 

そして耳から絶えず入ってくるそれらの騒音により私たちの人間性ははく奪されていきます。事実、それらは私たちの精神的正気を脅かしています。

 

伝統的ミサの中に沁みわたる至福の沈黙は、聖さを生み出すだけでなく、それはまた、ぼろぼろに壊れた私たちの諸感覚を優しく癒す香膏(こうこう)でもあります。そしてこの中にあって私たちは、神よりの使信に耳を傾けることができるようになっていきます。

 

今日どこに行っても(時には悲しいことに ‟ミサ”の中においてでさえも)私たちに押し付けられるガチャガチャした大騒ぎと、グレゴリオ聖歌から流れ出るこの世のものとは思えない崇高にして天的な旋律の、何という違いでしょうか。

 

地獄は大いなる混乱と無法の場所です。そして沈黙というのは、悪魔的律法により禁じられているのです。

 

ー終わりー