巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ローマ3:28に「のみ(alone)」という語を書き加えたルターの行為は正当化されるのだろうか?(by ダグラス・M・ボウモント)

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ルター訳ドイツ語聖書(出典

 

目次

 

Douglas M. Beaumont, When Faith Alone Meets Scripture Alone(拙訳)

 

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ダグラス・M・ボウモント(Douglas M. Beaumont)。南部福音神学校でノーマン・ガイスラー博士に師事(M.A.弁証学)。ノースウェスト大学にて神学博士号。15年以上に渡り南部福音神学校で教鞭を取った後、カトリック教会とのフル・コミュニオンに入る。著書Evangelical Exodus等多数。(私の辿ってきた道、証し

 

ソラ・スクリプトゥーラとソラ・フィデ

 

周知の通り、プロテスタントの根本的土台教理はソラ・スクリプトゥラ(「聖書のみ」)とソラ・フィデ(「信仰のみ」)です。これらの教理的刷新の重要性は其々、宗教改革における形相因(formal cause)および質料因(material cause)として見い出されます。

 

ソラ・スクリプトゥーラは宗教改革における方法論的教理です。というのも、プロテスタンティズムは(宗教的伝統に対立するところの)聖書のみの上に構築されていると言われているからです。

 

救いは信仰のみによるものである、というソラ・フィデの教理は、ソラ・スクリプトゥーラから導き出されている主要教義的教えです。

 

プロテスタンティズムの主要創立者であるマルティン・ルターは、「もしもこの信仰義認論が失われるなら、キリスト教教義全てが失われる」という主張をしたことで有名です。彼はまた教会権威に挑戦し、次のように言いました。

 

「私は聖書からの証明、あるいは明瞭かつ明白な理由や議論によって、確信させられない限り、何も取り消すことはできないし、取り消そうとも思わない。私は教皇もしくは公会議のみに信頼を置いてはいない。なぜなら、それらはしばし過ちを犯し、互いに矛盾し合っていることは周知の事実だからだ。私は自分の引用した聖書の言葉に束縛されており、わが良心は神の御言葉に捕えられている。私は何も撤回できないし、そうしようとも思わない。なぜなら、良心に背くことは安全でもなく正しくもないからである。」

 

ソラ・スクリプトゥーラを基盤にソラ・フィデを主張することに付随している問題は何かと言いますと、「信仰のみによる義認」という思想は、聖書に記載されていないばかりか、それは聖書が明記している内容とダイレクトに相反しているのです。

 

ヤコブ2章24節

 

聖書の中で「信仰のみ("faith alone")」というフレーズが出てくるのは、ヤコブ2:24だけです。そしてあろうことか、この箇所は「これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない(not by faith alone, οὐκ ἐκ πίστεως μόνον*.)。」と言っています。

 

そしてこれが、マルティン・ルターが『ヤコブの手紙』を聖書から除去しようとした理由の一つです*1

 

ルター自身もソラ・フィデの教理が『ヤコブの手紙』と食い違っていることを認めた上で、次のように主張しています。「私はこの書を、使徒の書いた書とみなしていない。」

 

1530年以前の、「聖ヤコブの手紙序文」においてルターは、次のように書いています。「〔ヤコブは〕義認を行ないに帰することにより、聖パウロおよびその他の聖書箇所に完全に逆らっている・・・ヤコブは御言葉を台無しにし、それゆえ、パウロ及び聖書全てに敵対している。

 

そうした上でルターは次のように挑戦しています。「これら二つを和解させることができる人がいるのなら、その人に私は自分の博士帽を贈呈しよう。そして自分が馬鹿者と呼ばれることをも厭わない。」

 

それゆえ、聖書に適合させるよう自分の神学を調整する代わりにルターが採った解決法は、逆に、『ヤコブの手紙』を正典のチープ・シートに降格させ、「序文」の中できっぱり次のように宣言することでした。「私は、自分の聖書の中で、『ヤコブの手紙』を、真正なる主要諸書の内には数えず、認めない。」

 

実際、ルターは「ヤコブの手紙を、聖書諸書から追放させるべきである。なぜなら、この手紙は重要性を持っていないからである。」と助言しています。そうした上で、ルターは、ヤコブの手紙は「藁の書」であるとの、あの有名な宣言をしました。

 

ローマ3章28節

 

ローマ3:28は、義認に関するルターの斬新な思想を最も立証しているかのように見える聖書箇所です。しかしながら、その箇所には、ルターの『ソラ』教理が真とされるための必要条件である「のみ(alone)」という極めて重要な語が欠落しています。

 

そしてここにおいても、ルターは自分の神学を調整する代わりに、聖書自体を ‟調整” しました。『ローマ人への手紙』の翻訳をするに当たり、ルターは、ーーローマ3:28の聖句が彼の神学を聖書的に支持しているかのような様相を持たせるべくーー、この句に「のみ(alone)」という一語を書き加えたのです

 

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独:allein

 

このかなり露骨な翻訳バイアスの問題を指摘されたルターは、次のように回答しました。

 

「パピスト(papist;カトリック教徒)が『ソラ』(alone)という語についてあれこれ大騒ぎする際には、彼に次のように言いなさい。『マルティン・ルター博士はそれが挿入されることを望んでおり(will have it so)、パピストとロバは同じものであると言っている』と。」

 

おわりに

 

そうなると、ルターは、彼がカトリック教会に対し非難しているところのものーーつまり、自らの神学を聖書以上に高揚させることーーを自分自身まさに行なっているという責めを負っていることになります。

 

ソラ・フィデという彼自身の教理を正当化しようと、ルターは聖書の内容を誤訳し、さらに聖書正典(canon)に変更を加えました。ーー彼が教会の教えに対峙した際に依拠していた唯一の権威であった聖書に、です。

 

それゆえ、皮肉なことに、ソラ・フィデは、ソラ・スクリプトゥーラを反証する強固な証拠となり、ソラ・スクリプトゥーラはソラ・フィデを反証する強固な証拠となる結果をもたらしました。

 

なぜなら、仮にソラ・スクリプトゥーラという教理が、聖書と矛盾する教理を保持することを人に許し、さらに、聖書的に見える外観をもたすべく御言葉につけ足したり差し引いたりすることを要求するのならーー、それなら、誰もが ‟ソラ・スクリプトゥーラに適合すること” を主張できる、ということになってしまうからです。

 

それなら・・・プロテスタンティズムというのは一体何なのでしょうか?

 

ー終わりー

 

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*1:訳注: