巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

信じることの苦しみ、そして希望

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信じること、生きること。(出典

 

三人の忠実なカトリック弁証家が、「自分がもはや教皇フランシスコを擁護しなくなった理由」について率直に語り合っています。

 

 

55:00~でパトリック・コフィン師が、次のような内容を語っています。

 

 「(これだけのスキャンダルと不祥事が明るみにされ)希望を失いつつあるカトリック教徒たちが苦しみの中から)、『でも、私たちの希望はイエス様にあります。イエス様だけが私たちの唯一の希望です』と言い始めています。

 でも、この『オンリー・ジーザス』という考えはプロテスタンティズムそのものです。(可視的御体を信じる)カトリックは、『オンリー』ではなく『両方AND』です。つまり、キリストと教会を両方信じ、キリストは地上にキリストのVicar(〔神の〕代理人)を遣わしてくださっているということを私たちは信じています。それがゆえに、尚一層のこと、私たちカトリック教徒にとって、教会のスキャンダルや教皇の問題言動は打撃が大きく、ひどい痛みが伴うのです。」

 

アップされてわずか数日間の内に5万人以上の視聴者がこのVTRを訪れ「三人の勇気ある発言に大いに励まされ共感した」とコメントしています。

 

真理探究の旅を続ける中で、本当に思いがけず、私はカトリック教会の戸口の前まで来ることになりました。後ろに戻ろうにも、もはやUターンする道もなければ希望も拠り所も何もない、といった悲壮な感じです。そしていろいろなことを総合的にみて、やはり、カトリック教会が、「聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会*1」なのではないかと半分認めかかっています。

 

しかし、そういった知的認証は、現行のおぞましいニュースや教皇の問題言動の数々を前に粉々に砕け散ってしまいます。実際、この教会が「聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会」なのか、それとも、多くの人々が主張するように巨大な「犯罪マフィア組織」なのか、そこら辺もよく分からなくなる時すらあります。

 

でもコモン・センスを働かせて考えてみた場合、仮にこの教会が「犯罪マフィア組織」なのだとしたら、なぜ、これだけ数多くの忠実な信者たちが今もその中にとどまり続けているのか、その説明がつかなくなります。

 

「いや、皆、集団で騙されているのだ」と言う方々がおられるかもしれません(私自身もその可能性を考えてみました)が、それでも、やはり、自分の知っている堅実なカトリック弁証家や司祭たちは、現行の不穏な動きを私などよりも100倍以上深く詳しく熟知した上で、それでもこの教会の中にとどまっています。*2

 

現に、上のVTRのテイラー・マーシャル博士、パトリック・コフィン師、ティモシー・ゴードン師も、現在のカトリックの闇をこれほどまでに詳しく知っていながら、そして、それを暴露し、不正や悪と戦いながら、それでも忠実なカトリック教会の信徒として中にとどまることにコミットしています。

 

私の中にはすでに、プロテスタント的な不可視的教会観は残っていません。キリストの受肉という真理を鑑みた時、やはり、自分の教会観がグノーシス的にならないためには、カトリックや正教会のような教会の見方が不可欠であり真であるという結論にたどり着いたからです。

 

でも私の肉眼には、現在のカトリック教会が「聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会」であるようには見えません。見ようと懸命に努力していますが、見えません。

 

でも、たとい自分の肉眼にそう見えなくても、それが事実として「聖なる、普遍の、使徒的、唯一の教会」であるのなら、私はその事実ゆえに「帰正」する覚悟でいます。そして、もはや傍観者的にではなく、それを信じる信仰の民と共に生き、信仰の民と共に苦闘し、信仰の民と共に希望を持ち続けたいーー、そう願っています。みこころがなりますように。

 

ー終わりー

*1:ニケヤ・コンスタンティノープル信条(381年)

*2: