巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

聖書の真理を愛し、歌い、どこまでも探求の旅をつづけたい。

振り返り

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コマドリの巣(出典

 

「福音が私たちになにかを教えるのだとしたら、まさに(あなたが被っている)その災難ーーそこにおいて恵みが起っている、ということではないかと思う。」

Jason Stellman, Misfit Faith: Confessions of a Drunk Ex-Pastor

 

霊的旅の先々で出会い、その後、別れ別れになった旧友たちが懐かしく、また恋しいです。今、友たちがどこにいようとも、どんな神学的/信仰的立場に立っていようとも、ただみんな元気であってほしい、そう願っています。

 

福音主義の世界にいて、いろいろな運動に遭遇し、また検証してきました。ですが、今になってよりよく分かるのは、その運動の主旨や神学がどうであれ、とにかく私たちは皆、一生懸命だったし、それがレフリーのいない世界で私たちにできる最善だったのではないかということです。

 

例えば、イマージング・チャーチ・ムーブメントに関しても、私はジョン・マッカーサー師の論評を翻訳しましたが、今振り返ると、このムーブメントの中にも、ポストモダン世界の中で古代信仰やより包括的霊性を求め、道を模索する若者たちの必死の求めという部分が少なからずあり、もう少しそこの所を汲み取ってもよかったのではないかなぁと自省しています。

 

また、「解放のミニストリー」に関し、ボブ・デウェイ師の検証記事を翻訳しましたが、仮に彼の定義している「霊の戦い」の世界観 vs「摂理的」世界観というのが、アルミニウス主義 vs カルヴァン主義の対立と並列関係にあるのだとしたら、現在の自分は、その二分法に対しすでに懐疑的になっていると思います。それゆえに「解放のミニストリー」自体に対しても、どういう風に捉えればいいのか、正直よく分からなくなっています。

 

でも、こういったことは全て全能の神の許しの下に起こっていると思います。いろいろな事がよく分からなくなる、迷う、不安になる、といった経験を通し、神様は、同じようなところで葛藤を覚えている人々への偽りのない同情心を私の心に植えてくださっています。

 

また、ーーそれが合法的か非合法的であるかに拘らずーーおよそ「~運動」や「~主義」と名のつくものがそもそもなぜ生じてくるのか、(自分も含め)なぜ人々はそれらの「運動」や「主義」に関わろうとするのか、そういった事を深く考え、思いをはせる尊い機会が与えられています。

 

そしてヴェルン・ポイスレス師がおっしゃるように、この「なぜ」の部分を、相手の内側から(=相手の立場に立って)同情心をもって見ていこうと努力する時、私たちは、「主義・主張・立場」という看板の向こう側にたたずんでいる、一人のかけがえのない同胞を見い出し、彼/彼女の内にキリストの光をみるのではないかと思います。

 

読んでくださってありがとうございました。