巡礼者の小道(Pursuing Veritas)

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ユーカリストの本質ーーミサの犠牲的性質に対するプロテスタント諸反論について(by ローレンス・ファインゴールド、ケンリック・グレンノン神学校)【その4】

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 ミサの「何が」変わったのだろうか?そして何が不変なのだろうか?(出典

 


ある論者たちが指摘しているように、この変化の背後には、「ミサの犠牲的性質」に対する認識の薄まり、及び、犠牲を否定するプロテスタント見解への「譲歩(or 妥協?)」があるのでしょうか?たしかに上のビデオの新ミサは、一般のプロテスタント礼拝の雰囲気に似ていると思います。みなさんは、どう思いますか?(出典

 

目次

 

Dr. Larence Feingold, Association of Hebrew Catholics Lecture Series, The Mystery of Israel and the Church, Fall 2016-Series 18, On the Eucharist, Part 2. Talk # 2. Protestant Objections to the Sacrificial Nature of the Mass. (拙訳)mp3Q & A. 【その

 

③「ユーカリストは犠牲というよりは祝宴である」という反論について

 

ルターおよびカルヴァンの見解

 

ルターは「ミサにおける犠牲的側面」に対する自身の否認説をサポートすべく、聖餐に関するキリストの言葉を言及し、次のように述べています。

 

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「『取って食べなさい』というイエスの言葉により、あなたがたは主が与え裂かれた賜物の所有者になるのである。それゆえに、『取って食べなさい』という言葉は、犠牲にされるいかなるものをも認めていない。そうではなく、むしろここで示されているのは、あなたがたが受け取る賜物が神からあなたがたの元に来ている、という事なのである。」*1

 

同様に、ルターは、「食べ、飲みなさいという命令は、犠牲の奉献と相いれない」と考え、次のように述べています。

 

 「『食べ、飲めよ。』これがサクラメントにおいて我々が為すべき全てである。それゆえに、主はそれを裂き、与え、食するよう我々に仰せられたのである。ーーそれを拝領し、飲み、主を覚えつつ、主の死を告げ知らせるために。同様に、パウロにとってもまた、このサクラメントは、食べ、飲むことであること以外の何物でもなかった〔1コリ11:26〕。

 しかし、我々が食べ飲むものは、我々の犠牲奉献を意味しない。つまり、我々はそれを自分たちの内にとどめ、摂取するのである。従って、『神に犠牲を奉献すること』と『(パンと葡萄酒が)我々によって摂取されること』は互いに両立しない考えである。実に、レビ人たちは、イスラエルの民の奉献物を受け取ったが、その中にあって、彼らは、神へ犠牲奉献されなければならないものは一切食さなかった。」*2

 

従って、ルターは、「『ミサが犠牲である』という思想は、『交わりと祝宴』というミサの側面と矛盾している」と考えていたわけです。彼は次のように言っています。

 

「我々はそれを完全に食し、それを完全に神に奉献する。ーーこれはあたかも『我々がそれを奉献する時、それを摂取しておらず、それを摂取する時、それを奉献していない』とでも言っているかのようだ。それゆえ、我々はその両方を行なっているために、結局はどちらも行なっていない、ということになる。このような荒唐無稽な言い分があるだろうか?これは全くもって自己矛盾している。」*3

 

ジャン・カルヴァンも類似の議論を展開しています。

 

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「主の晩餐が、感謝を持って受け入れられるべく神の賜物である一方、ミサにおける犠牲は、それがあたかも充足(賠償;satisfaction)として受け入れられるべき神に対する代価(price)を捧げるものであるかのように装っている。『奉献すること』と『受け取ること』が大きく異なっているように、『犠牲』もまた、『晩餐のサクラメント』と大きく異なっているのである。」*4

 

虚偽のダイコトミー

 

こういった議論は、‟虚偽のダイコトミー”という論理誤謬の古典的実例です。*5こういった誤謬が起こるのは、ある議論が次のような形態で提示される時です。「AかBか?」「Aである。従って、Bではない。」

 

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虚偽のダイコトミー(出典

 

この種の議論が妥当であるのは、「AかBか?」という言明が強度の選言(strong disjunction)であり、AとBが両方共真であることはあり得ず、互に排他関係にある場合においてのみです。

 

しかし、AもBも、同時に、両方共真であり得る時(=弱い選言;weak disjunction)、こういった議論は妥当でないとされます。そしてこの場合、私たちは「A」から「非B」を論じることはできません。

 

命題A

ここで「A」は命題によって与えられています。つまり、

ーミサというのは、本質的に神からの贈物を受け取る行為である。

これはさらに二通り、別の表現で言い表すことができるかもしれません。

ーミサというのは本質的に、祝宴(banquest)である。

ーミサというのは、神⇒人間の方向へと向かう、下降運動である。

 

命題B

他方、命題Bは次のようになります。

ーミサというのは本質的に、神に捧げられる奉献である。

これはさらに二通り、別の表現に言い表すことができるかもしれません。

ーミサというのは本質的に、犠牲(sacrifice)である。

ーミサというのは、人間⇒神の方向へと向かう、上昇運動である。

 

ルターはここで、「A」から「非B」を論じています。

 

カトリックの立場ーー「上昇」&「下降」

 

他方、カトリックの立場はーーキリスト教古代伝統すべてによって保持され、教父たちの証言の内に見られ、且つ、すべての典礼におけるリトルジーの中に顕示されているようにーー、ミサというのは、「神に捧げられる犠牲」であると同時に「主から受け取る至高の賜物」である、とみています。

 

犠牲者〔イエス〕はまず、mysticalな仕方でいけにえにされ神に奉献され、その後、信者たちが拝領するようにと授与されます。これら二つの出来事は、明白に矛盾ではありません。なぜなら、これらは二つの異なる時点において起こっているからです

 

ミサは本質的に、犠牲的〔性格を持つ〕祝宴であり、それゆえにそれは犠牲であり、且つ、祝宴なのです。また、ミサは、「上昇」&「下降」その両方の運動によって構成されています*6。つまり、「上昇」運動において神に奉献されたものは、「下降」運動において、上よりの恵みとして、信者により受容されています。それゆえ、AもBも共に真です。Aが真であることは、Bに対する反証にはなりません。

 

過越しの子羊

 

また、ルターは間違いなく、「多くの犠牲が実際には、神に奉献され、且つ、信者によって拝領されている」ということを知っていたはずです。最も顕著なる実例は、ニサンの14日に神殿にていけにえにされ、神に奉献されていた過越しの子羊です。

 

ユーカリストを最も予表している旧約の ‟予型” としての、過越しの子羊は、ユーカリストが『犠牲』であり、且つ同時に、『交わりの祝宴(communion banquest)』であるものとして、イエスにより御意図されていたことを示す良例です。*7

 

同様に、和解のささげもの(peace offerings)もまた、神に奉献された後、信者によって拝領(consumed)されています。

 

さらに、犠牲および、(犠牲の中における)コミュニオンという諸概念は、人類の宗教史の中に内在的に結びついています。犠牲の目的は、神と人間の間の和解および交わりをもたらすためであり、それは、神ご自身と食卓を共にすることによって具現/表象されています。そしてこれは、犠牲的奉献物がまず神に捧げられ、その後、信者によって拝領されるという事実により為されています。

 

犠牲的意味

 

最後になりますが、先ほど挙げた聖餐に関するイエスの言葉には犠牲的ニュアンスが満ち満ちています。ヨハネ・パウロ二世がEcclesia de Euchaaristia #12で述べているように、「イエスは、ただ単に、御自身が今から与えようとしているものが御自身の体と血である、とは仰せられませんでした。そうです、イエスはまたその犠牲的意味を表現し、(まもなくすべての人の救いのために十字架上で捧げられる)ご自身の犠牲をサクラメント的に現前させたのです。」*8

 

キリストは私たちが御自身の体および血を拝領すべきであることを是認されただけでなく、ご自身の体が ‟私たちのために与えられ”、血が‟多くの人々のために流される”という事実をも是認されました。イエスの言葉は、御自身の体と血に関する二重の授与があることを明確にしています。*9

 

つまり、①「取って食べなさい」とイエスが私たちに仰せられたものは、‟私たちのために与えられた”ものであり、②飲むようにと与えられたものは、‟罪の赦しのため多くの人のために流されるもの”である(マタイ26:28)ということです。

 

しかし罪の赦しのために血が流されることは、犠牲的奉献を表す描写であり、それは信者の代わりに神に捧げられるものです。換言しますと、御体および血潮はまず(犠牲において)私たちのために与えられ/流され、その後、(コミュニオンにおいて)それを拝領すべく私たちに与えられるということです。

 

「わたしを覚えて、これを行ないなさい」という御言葉もまたその含意において犠牲的性格を持っています。旧契約の中において、さまざまな犠牲ーー特に過越しの子羊という犠牲ーーは、神の前における契約の‟記念”として描写されていました。*10

 

その5】に続きます。

 

関連資料

 

第25課 ミサ聖祭

ー坂本誠牧師(日本同盟基督教団・愛知泉キリスト教会):「ローマ式ミサに見る霊性」日本福音主義神学会(PDF

ー聖ピオ十世会トマス小野田神父:「ミサ聖祭とは何か?ミサがいけにえであるということを誰が否定したのか?」(記事

ースコット・ハーン著『子羊の晩餐 -ミサは地上の天国』エンデルレ書店 (2008)

*1:Luther, "Misuse of the Mass," in Luther's Works, 36: 172-173.

*2:同著p.173.

*3:同著p.174.

*4:Calvin, Institutes 4.18.7, p.938.

*5:この論理誤謬に関するより正確な専門用語はinvalid disjunctive syllogismです。参照:Peter Kreeft, Socratic Logic, ed. 3.1 (South Bend, IN: St. Augustine's Press, 2010), 301-302.

*6:訳注:「上昇」「下降」に関する分かりやすい説明はココ

*7:訳注

*8:強調はヨハネ・パウロ二世によるもの。

*9:CIC, canon 899(カトリック教会法899)を参照のこと。"In it [the celebration of the Eucharist] Christ the Lord, by the ministry of a priest, offers Himself, substantially present under the forms of bread of wine, to God the Father and gives Himself as spiritual food to the faithful who are associated with His offering."

*10:出エジプト記20:34、レビ2:2、24:7を参照。Max Thurian, The One Bread, trans. Theodore DuBois (New York: Sheed and Ward, 1969), 15-23. それから、Jeremias, The Eucharistic Words of Jesus, 246-255; Moleney, The Eucharist, 45-46.